東海の親不知(続々)

 
 さて、再び海沿いに道を見つけて歩き出す。ここは延々と断崖の続く“東海の親不知”、大崩海岸。おおくずれ。なんちゅう直接的な、怖ろしい名前。

 切り立った山が絶壁となって、海へとストンと落ちる、こういう地形は、多分、海から眺めれば圧巻なんだろう。あるいは、崖下の海岸を歩くことができればいいんだけれど。
 実際には、そこにしか道がないので、崖上の車道をテクテクと歩く。歩く人なんて私たちの他にいない。で、狭い車道を車が、邪魔者を轢き殺しかねないスピードで、我が物顔にブンブンと走り去る。車って、それ自体が凶器のくせに、歩く人たちへの配慮がなくって困る。トンネル内じゃ、もう死ぬ思い。

 この車道、片側は崖下に海が広がり、もう片側には崖上の山が聳えている。海には、ところどころにタケノコみたいな岩が、ニョキニョキと生えている。「大岩が山から転がり落ちて、海に突き刺さって、ああなったんだよ」と相棒が説明する。
 ……そういうふうに、いい加減なこと教えるの、やめて欲しいんだけど。でも、大崩れ、って名前がついてるんだから、過去に何度も崩れてきたことがあったんだろうな。

 ときどき車道から身を乗り出して、眼下の海を覗き込む。振り返ると、さっき登った虚空蔵山が、小峰となってポッコリと突き出ている。この虚空蔵山、振り返るたびに、いつまでもいつまでも、見えるんだ。
 急斜面にへばりつくように、民家がポツポツと建っているけど、誰も住んでいそうにない。

 To be continued...

 画像は、大崩海岸。向こうに見えるのが虚空蔵山。

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東海の親不知(続)

 
 先生は窓に背を向けて座っているので、子供たちがどうして突然、絵を描かなくなったのか分からない。はい、みんな、ちゃんと描きましょうね、なんて促すのだが、子供たちはこちらに気を取られて、絵に手がつかない。
 で、ようやく大人の思慮を出して、大きくバイバイと手を振ってから、子供たちと別れて山道を行く。

 自然と子供とは世界中、どこにでもある。どこにでもいる。それだけでも、まだ訪れたことのない地を訪れる甲斐があるというもんだ。

 歩幅のバラバラな石段を登って、やがて現われたのは、朱色の仁王門。でもこれ、倒壊の危険、と注意書きがある。
 確かに今にも崩れそう。門は心なしか傾いてるし、仁王像はボロボロ。う~む、文化財をこんなふうにほっといていいもんなんだろうか? ……門を避けて、最後の石段を登る。

 ほどなく山頂に到着。香集寺という無人の寺と鐘突堂、石灯籠なんかがある。
 鐘を見てムラムラと突きたくなってきた相棒、ゴイ~ンと一突き、突いてしまった。おいおい、誰かが聞きつけて、登ってきたらどーすんの。
 山頂からは海岸や漁港を望むことができる。さっき見たところじゃ、この山、海から生えていて、波に打たれていたんだから、今、樹木で見えないけれど、5、6歩踏み出せば、すぐ下は崖っぷちなわけだ。

 麓まで戻ると、幼稚園の子供たちが目敏く私たちを見つけて、わいのわいのと騒ぎ出す。で、さっきのように大きく手を振ると、今度は子供たちも、それに応えてニコニコ笑って手を振り返す。
 小さい子って、一度目には無理でも、二度目には必ず友達になれる。

 To be continued...

 画像は、虚空蔵山の道祖神。

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東海の親不知

 
 もともと自分用に、旅行記をメインに書こうと立ち上げたこのブログ。まだ大したところには行っていないにしても、ちょっとサボりすぎ。いかん、いかん。

 焼津は、もう一年も前の夏、海ィ、海ィ~と言っていた私を、相棒が連れてってくれたところ。海よりも山が好きな相棒は、海は波がうるさい、磯が臭い、と文句を言う。私は断然、海のほうが好き。海のない人生なんて、生きてけないよ。
 海岸に沿って、ただ歩いただけの、一日徒歩旅行。焼津は日本有数の漁港なので、相棒も、お昼には地元の漁師行きつけの食堂かどっかで、お刺身でも食べようね、なんて言っていたのに、結局、食べたのはマグロカツバーガー。でもこれ、美味しかったけどね。

 浜当目海岸に出て、しばらくのあいだ、虚空蔵山に打ちつける波をボーッと眺める。これ、山と言うより、こんもりと樹木に覆われた、丸こい岩の丘。標高、たったの126メートル也。
 快晴なら、遥か海の彼方に富士山が見えるらしいのだが、は、は、は、この日は生憎の霧雨。でも相棒、こんな天気のほうが暑くなくていい、って言う。

 登山家でもないくせに、山と聞けば節操なく登りたがる相棒。案の定、虚空蔵山へと向う。私が海を一個制覇すると、相棒はその分、山を一個増やそうとする。

 虚空蔵山の登り口には幼稚園があって、石段を数段登ると、窓から部屋の中を覗き込むことができる。
 子供たちは小さな机を並べて、先生と向き合って絵を描いている。小さい子供と見ると、つい、大袈裟な身振りでちょっかいを出してしまう。子供たちは窓外の私たちに気づき、絵を描くのをピタリとやめて、まじまじとこちらを見つめる。

 To be continued...

 画像は、虚空蔵山。

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ヘンデクとセブランの対話 1

 
「やあ、セブラン」
「やあ、ヘンデク。久しぶり。しばらく顔を見なかったね」
「落ち込んでいたもんでね」
「どうして?」
「シロクマの気持ちになっているもんでね」
「と言うと?」
「半年後、せっかく自由になって、世界を見て回れると思っていたのに、そのときにはもう、自由な世界がなくなっているんだ。自分が自由に生きていける氷が、解けてなくなってしまった、シロクマの気持ちと同じだよ」
「じゃあもう、世界を見て回ることはできないの?」
「できるよ。でももう、そこは自由な世界じゃないんだ。強大なファシズムが一つ、あるいは二つ、4年くらい後に台頭して、世界を滅茶苦茶にしてしまう」
「なぜ4年後に?」
「国家の威信を賭けたオリンピックの後、1929年に世界恐慌が起こり、その4年後にナチスが政権を取って、第二次大戦に突入した。今の世界情勢は、そのときとまったく同じパターンをたどっているからね」
「それから?」
「戦争になって、行くところまで行き着いて、ファシズムが崩壊してから、新しい世界システムの構築が可能になるんだろうね。いわゆる“持続可能な発展”というシステムがね」
「じゃあ、それまでは生き地獄だね」
「途上国ではもうすでに生き地獄だよ」
「そんな世界を見て回ることになるの?」
「そういうことになるね。“そう書かれていた(マクトゥーブ)”んだよ」
「じゃあ、楽しみや喜びはなくなるの?」
「あるよ。それらは人間からなくなることはない。人間にはケイパビリティ(capability)が備わっているからね。でも人間としての普遍を内面に持ち続け、譲らない人々しか、それら楽しみや喜びを感じることはできなくなるだろうね」
「じゃあ、外面だけの人々には、楽しみや喜びはなくなるんだね」
「彼らは逆に、生き地獄の現実を楽しみ、喜ぶようになるんだよ。表面的な飲食や娯楽や交際と同じにね」

 画像は、アストルップ「月見草とルバーブとバードチェリーとガチョウ」。
  ニコライ・アストルップ(Nikolai Astrup, 1880-1928, Norwegian)

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オランダ絵画によせて:部屋のなかの風俗

 

 東京への美術館ハシゴ旅行。特に好きなわけじゃないが、やっぱり「フェルメール展」も観に行った。ふと耳に入った、すれ違ったカップルの会話。「あれじゃ、フェルメールは、ただの呼び物だよねー」……
 確かに副題のとおり、実際には“デルフト派展”なんだけれど。でもね、寡作の画家フェルメールの絵が7点(だっけ?)も来てるんだから、「フェルメール展」て銘打ってもいいんじゃない。急遽、来日できなくなった「絵画芸術」は、以前、神戸で観たことがあるので、私は気にならないし。

 ヨーロッパ絵画史では、よく、画家たちが活躍した地名ごとに括って、「なんとか派」という名がついていたりする。まあ、歴史ってそういうもんなんだろう。
 で、デルフト派(Delft School)というのは、概ね、17世紀半ば、オランダ・バロックの黄金時代に、デルフトで活躍した画家たちを指す。
 当時オランダは、スペインからの独立を果たし、海上貿易によって繁栄、イギリスに覇権を奪われるまでの半世紀のあいだ、その富とともに市民文化をも発展させた。
 デルフトもまた、そうした成功を勝ち取ったオランダ小都市の一つ。その栄華はわずか二十数年にすぎなかったが、その間、馬鹿高い人気画家フェルメールに到る、多くの画家たちを輩出した。

 いわゆるデルフト派の特徴としては、市民の家庭生活の描写を主眼として、室内や中庭、教会内、街路や広場などの情景を取り上げたものが目立つということ。
 室内風俗画というジャンル自体は、デルフト派以外も描いている。が、居酒屋や農家、詰所などで、旅人や農夫、兵士らが娯楽(賭博や喧嘩も含めて)に興じる絵が多い。庶民的なのだが、どうも騒々しくて、所帯じみている。
 対して、デルフト派の場合、大抵は中流家庭が舞台。洒落た床や絨毯、ステンドグラスの窓、壁には絵が掛かっている。調度も衣装も洒脱で上品。同じ旅人や兵士にしても、デルフト派の絵ではとてもオシャレ。

 遠近法の効いた空間に、自然光の処理。それらが、オランダ・バロックの堅実な写実で、こまやかに描写されている。穏やかな光に満ちた室内は、とても静か。そんな舞台に、垢抜けた人物たちが、会話を交わしたり、家事をしたり、手紙を書いたりと、何ということもない日常の行為に携わっている。
 妙に優雅で、物語めいた、ほどよい生活感。

 こうした画題についても、まず思い浮かぶのはフェルメールなのだが、彼と同時代に活躍し、彼に影響を与えたという、ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch)のほうが、デルフト派の一般的な画家という感じがする。
 この画家はよく、解説で、フェルメールに先行する、が、フェルメールの境地には到らない、フェルメールの天才ぶりを際立たせるための画家として、引き合いに出されている。可哀相なデ・ホーホ。私は彼の絵の素朴さ、いいと思うけどな。フェルメールはデ・ホーホのような、母子の絵は描かなかった。

 また、レンブラントの画風をデルフトに伝え、若いフェルメールやデ・ホーホにも広く影響を残したという、薄幸ハンサム画家、カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius)。レンブラントの最も有能な弟子だったのに、デルフトの火薬庫の大爆発で、工房も絵も画家自身までもぶっ飛んでしまった。
 彼の絵も、十数点しか残っていないので、必見。

 画像は、デ・ホーホ「デルフトの中庭」。
  ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch, 1629-1684, Dutch)
 他、左から、
  デ・ホーホ「カップルとオウム」
  デ・ホーホ「母」
  マース「レースを編む女」
   ニコラース・マース(Nicolaes Maes, 1634-1693, Dutch)
  マース「林檎をむく若い女」
  ファブリティウス「歩哨」
   カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius, 1622-1654, Dutch)

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