イメージの奔流

 

 リトアニアではその名を知らぬ人はいないという国民画家、ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(Mikalojus Konstantinas Čiurlionis)。私は、象徴主義が席巻した世紀末ロシア画壇、“銀の時代”をサーフィンしていて、この画家を見つけた。ウェブで観ることができる絵は全部観て、以来、その絵をナマで観たくて観たくて、リトアニア行きが決まってすぐに、相棒に、丸一日をカウナスのチュルリョーニス美術館に充てる確約を取りつけた。
 念願かなって、会ってきた。圧巻、チュルリョーニス。死ぬ前の宿題を一つ終えたよ。

 人間は誰でも、内に一つの世界を持っている。表現を試みる者は、その世界を、他の人間に感覚的に共有しうる形で、表現する。
 画家は具象で可視化する。それは音楽家が、宇宙の普遍的な魂を感じ取り、旋律にする、というのと、少し違う。画家の世界は多分に個人的。それが一目瞭然なシーンで提示されるなら、人は、それを好きか嫌いか、共感できるかできないか、しか答えようがなくなる。
 そういう意味で絵は絶対であり、描いた者勝ちなのだ。

 音楽家でもあったチュルリョーニスの絵は、月並みな言い方だが、音楽的。楽曲を思わせるタイトルとテーマ、線描のリズムと色彩のハーモニー。

 描写は即興的で、それにいかにもマッチした、水彩やパステル、色鉛筆などを混ぜこぜた、インプロンプトゥな画材が使われている。ロシア象徴主義の画家として括られるようだが、私の印象としては、ポーランド象徴主義“ムウォダ・ポルスカ(若きポーランド)”に親和する。ま、チュルリョーニスはワルシャワで絵を学んだのだから当然で、リトアニアではこの時期の画家の名は、リトアニア語とポーランド語とで併記されていたりする。

 が、絵のムードはやはりリトアニア民俗的で、かつ異教的、異国情緒的でもある。それが絵に独特の詩情と幻想性を生んでいる。そして、それらイメージには物語性があり、物語には一連性がある。
 リトアニア的、という形容は、実際にリトアニアを体験してみると実感できる。空に広がるむら気な雲の群、草原に並ぶしょぼくれた樹々や草々、鏡のように濃い水辺、等々。きわめつけは、原始のモチーフが装飾に施された十字架。
 垢抜けない美しさと、簡素な豊かさ、それらが醸す非ヨーロッパ的なイメージ。ヨーロッパ最後の異教の国と言われるリトアニアの自然と文化に根差すのだろう。

 とにかく、その存在を知っておくのとおかないのとでは、精神世界の重み、厚みが違ってくる、そういう画家。

 過去に来日したことがあるらしく、日本でも結構、知る人ぞ知る画家なのだが、受け売りの略歴をまとめておくと……

 帝政ロシア、ヴァレナの生まれ。父親は子だくさんの教会オルガン奏者。長男だったチュルリョーニスは、幼少より父親の手ほどきでピアノを習い、やがてパトロンを得て、ロシア領だったワルシャワの音楽院で作曲を学ぶ。さらにライプツィヒに移った頃から、絵画に関心を持ちはじめ、ワルシャワに戻ると、ピアノで生計を立てつつ、アカデミーで絵を学ぶように。

 世紀末画壇にて注目を集めはじめ、やがて、サンクトペテルブルクに移り、“銀の時代”の画家たちと交流。以降、リトアニアとサンクトペテルブルクとを行ったり来たりするうちに、破産、結婚、精神異常、と続く。
 やはり、これほどのイメージの奔流は、精神病に起因したんだろうか。でも、恐怖を感じさせる絵は一つもないんだよね。

 精神病院に収容され、音楽、絵とも制作しつつの療養中、肺炎で死去。享年35歳。

 画像は、チュルリョーニス「王様たちのおとぎ話」。
  ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス
   (Mikalojus Konstantinas Čiurlionis, 1875-1911, Lithuanian)

 他、左から、
  「友愛」
  「葬送曲」
  「乙女座を通過する太陽」
  「夏」
  「王子の旅」
  
     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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人生はカーニバル

 

 リトアニアに行ってきた。絵画上の私のお目当ては、国民画家チュルリョーニス。けれども相棒は、こちら、カシウリスのほうが親近感がある、という感想。
 まあ、カシウリスの絵には親しみが持てる、という気持ちはよく分かる。

 ヴィタウタス・カシウリス(Vytautas Kasiulis)の最も印象的な絵は、パリ時代以降のものらしい。一面、真っ黒に塗った上から、迷いのない筆致でサササッと色を置いていく。黒の地は、曲線的で装飾的なアラベスクを思わせる、ステンドグラスのような輪郭線となる。まるで彩色したカラフルな影絵のよう。
 それが、描かれるテーマやモチーフにひどくマッチする。路上の楽師や物売り、サーカスの曲芸師、農夫や漁師、狩人、そして聖人たち。誰もが乞食のようにみじめで粗末な風貌で、誰もが画家の分身に見える。
 リリカルでノスタルジックで、陽気で滑稽で、即興的で、抽象的で、落描きめいていて、けれども絵に対する自負が感じられる。絵あり、音楽ありの人生。何もない、だが芸術はある生活。それが画家の思想であり希望であり、それを生きる意志が画家の絵を照らす。

 人生はカーニバルだ、ともに生きよう!

 以下、備忘録だが、装飾芸術家の家に生まれ、幼少時より類稀なデッサンの才能を見せる。カウナスの美術学校で学び、卒業後も教員として母校に残るが、個展の成功により、招かれてウィーンのアカデミーに。
 これは1944年という、怖ろしい時代のこと。リトアニアを含むバルト諸国は、1941~44年までナチス・ドイツに、それ以降はソ連に占領されていた。おのれの画業の研鑽のためとはいえ、この時期、この状況でドイツの合邦国に渡ったことは致命的だった。第二次大戦後、カシウリスはリトアニアに帰ることができなくなる。
 祖国を追われたカシウリス。彼の負ったエグザイルとは、亡命ではなく、追放なのだ。

 戦後、カシウリスはドイツの美術学校に職を得、描く、描く、桁外れに描く。さらにパリに移り住み、描く、描く、情け容赦なく描く。描かれるのはおそらく画家自身。ほろりとなるが、口元もほころぶ、泣き笑いの放浪生活。
 絵のためにすべてを失ったのだ。なら、絵には、そのすべてに代えて余りある価値が、あってしかるべきではないか。

 パリにて次第に認知を得、以降、成功と名声は生涯、彼を去ることはなかった。が、祖国リトアニアでは、彼は長らく知られないままだった。

 画像は、カシウリス「花売り」。
  ヴィタウタス・カシウリス(Vytautas Kasiulis, 1918-1995, Lithuanian)
 他、左から、
  「画家と女」
  「モンマルトルの小路」
  「ムーラン・ルージュ」
  「思索する画家」
  「海岸の小舟」
  
     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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