ピアノ・レッスン(続)

 
 性愛表現は結構生々しいけれど、映像は幻想的で、絵のように美しい。海辺に打ち寄せる波のような、森林を渡る風のような、甘く哀しいピアノの音色が、全体を文学的に、暗く甘美に仕上げている。 
 
 言葉を捨てたエイダはピアノに思いを托す。だが夫ステュアートは、紳士ではあるが、ピアノには全然関心がなく、土地のことしか頭にない。ピアノを置き去りにされたエイダが、テーブルに鍵盤を刻み、ピアノに見立てて弾くのを見て、頭がおかしいのかと疑う。そして、なぜエイダが自分に心を閉ざすのかを理解できないでいる。
 一方、顔にマオリ族の入れ墨をした、一見無学で粗野に見えるベインズは、エイダにとってピアノが大事であることを理解している。無謀と言われようと、ピアノを舟に乗せて一緒に連れて行こうとする。

 ところで、6歳の少女が自ら言葉を捨てるというのは、どういう状況の場合なのだろう。冒頭で暗示される父親との確執や、不義の子供、ステュアートがエイダの瞳のなかに読み取った、「ベインズなら私を救うことができる」という言葉などから、私は、父親による性的虐待を連想してしまう。

 舟からピアノを海に捨てるとき、ピアノを結わえたロープがエイダの足を捕らえ、彼女は海へと引きずりこまれる。ピアノに道連れにされ、運命を諦観するような表情のエイダが、我に返ったようにピアノの束縛を逃れて、海面へと昇ってゆく。
 海上に浮かび上がったシーンは、一貫して夢幻的だった映像のうち、夢から醒めたような、最も明るく眩しいものだった。海の底に漂う自分の姿は、夢となった。

 浜辺にポツンと置かれたピアノ、青い海の底に揺らめくピアノの姿が印象的だった。

 画像は、ゴールディ「高貴な民族の高貴な遺風」。
  チャールズ・ゴールディ(Charles Goldie, New Zealand, 1870-1947)

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ピアノ・レッスン

 
 時間があったので、「ピアノ・レッスン(The Piano)」を観た(監督:ジェーン・カンピオン、出演:ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、アンナ・パキン他)。
 
 6歳のときに、自ら話すことをやめってしまったエイダは、父親の決めた結婚のため、スコットランドからはるばるニュージーランドへとやって来る。手荷物と、娘と、ピアノを伴って。ときに、ニュージーランド入植の時代。
 だが、夫となるステュアートは、とても運ぶことはできない、とピアノを海岸に置き去りにする。

 なのでエイダは夫に心を開こうとしない。そして夫の留守に、隣人ベインズに頼み、海辺に行く。微笑みながらピアノを弾くエイダに、ベインズは関心を持つ。
 ベインズはステュアートに持ちかけ、土地と、海辺のピアノとそのレッスンとを交換する。彼は自分の小屋にピアノを運び入れ、調律する。エイダはレッスンのため、ベインズのもとへと通うようになる。そして、黒鍵の数だけ自分の要求を呑めばピアノを返そう、というベインズの申し出に応じ、体を許す。

 が、ベインズは、エイダに売春婦の真似はさせたくない、とピアノを返してくる。ピアノは戻るが、エイダはそれを弾こうとしない。逆に、もはやピアノのなくなったベインズの小屋へと足を運ぶ。二人の関係は、夫ステュアートに発覚する。
 エイダはピアノの壊れた鍵盤に、愛の言葉を刻んでベインズに届けようとする。それを知ったステュアートは激怒して、エイダの指を斧で切り落とす。

 To be continued...

 画像は、クシジャノフスキ「ピアノ」。
  コンラッド・クシジャノフスキ(Konrad Krzyzanowski, 1872-1922, Polish)

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ギリシャ神話あれこれ:ハデス

 
 女の子というのはマセていて、子供の頃、クラスの女子に、「理想の男性を一言で言い表わすと、どんな人?」と訊かれたことがあった。一言っていうのが難しいなー。私は考えて、「他人から、優しい、と言われない人」と答えた。
 私としては、誰彼構わず優しくするのではなく、自分がこれと思った相手にだけ優しくする人、という意味で答えたのだった。が、その女子は思いっきりヘンな顔をして、「ヘンなの~」と言って去っていった。……ヘンって何さ、どこがヘンなのさ。と思ったけれど、結局、彼女が何をヘンと思ったのか、そのヘンを私はどう思っているのか、説明し合う機会はなかった。
 思えば、私って、こうやって徐々に、ヘン、ヘンと思われていったのだと思う。
 
 ハデス(プルートー)は地底を支配する冥界の王。鉱物や植物の種子など、地中の富の守護神でもある。

 ゼウスらが世界を統治することになったとき、彼とポセイドン、ハデスの三兄弟は、全世界を三分し、籤を引いて、自分たちの支配権を決めた。結果、天界をゼウス、海界をポセイドン、冥界をハデスが引き当てた。ハデスは長兄にも関わらず、貧乏籤を引いた不遇の神というわけ。
 それ以来、彼は地下に引っ込んでしまい、ほとんど地上には顔を出さない。そのせいか、神話にもほとんど登場しない。
 
 死者の国を司るだけあって、陰鬱で荘厳なイメージがあるけれど、ハデス自身は悪い奴でも嫌な奴でもない。無愛想ではあっても、残忍でも無慈悲でもなく、ゼウスのように狡猾でも、ポセイドンのように粗暴でもない。どちらかと言うと実直で、彼ら弟たちのように女癖も悪くはない。三兄弟のうちで一番マシだと思う。
 無理やり誘拐した馴れ初めのせいか、妻ペルセフォネには頭が上がらなかったという噂も。不死の男神にしては驚くくらい妻には誠実で、半年以上の里帰りも許すほど寛容。
 
 そんなハデスの数少ないロマンスが、約二つ。
 ハデスは、メンテというニンフ(妖精)を寵愛するが、ペルセフォネはそれを嫉妬し、メンテを踏みつけて草に変えてしまう。メンテは草となってもなお、香り高い芳香を放つという。これがミントの由来で、ハデスの神殿に咲いている。
 ハデスはまた、レウケを見初め、冥界に連れ帰るが、レウケは不死の神ではなかったので、やがて死んでしまう。悲しんだハデスは、レウケを白ポプラに変える。この白ポプラは、エリュシオンの野に植わっているのだとか。
 ……たったこれだけ。

 プルートーは冥王星の名でもある。

 滅多に良い顔を見せない冥王は、私には結構好もしかった。太陽の当たる世界に住めないところがつらいけど。
 
 画像は、アゴスティーノ・カラッチ「プルートー」。
  アゴスティーノ・カラッチ(Agostino Carracci, 1557-1602, Italian)

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真珠の耳飾の少女

 
 映画、「真珠の耳飾の少女(Girl with a Pearl Earring)」を観た(監督:ピーター・ウェーバー、出演:スカーレット・ヨハンソン、コリン・ファース、他)。フェルメールの同名の絵画を題材に取ったフィクションだが、フェルメール存命当時のデルフトの生活シーンが、あたかもフェルメールの描く絵のように再現されている。
 運河の街並や、女主人やメイドの衣装、市松模様の床、壁に掛かる絵画や地図、カーテンや絨毯、食器の並ぶテーブル、天蓋のあるベッド、光の差し込むガラス窓、などなどのインテリア、……と、どれを取っても、17世紀のオランダらしい。またそれらすべてが、柔らかな光に満ちた美しい映像に仕上がっている。
 
 物語は、タイル職人の娘グリートが、画家フェルメールの屋敷に奉公にやって来るところから始まる。絵画に理解のない妻とパトロンに絵を売り込む姑、騒々しい大勢の子供たち。フェルメールは筆が遅いために、家系は常に火の車。そのせいで妻はいつもいらいらし、夫婦の口論も絶えない。
 ある日フェルメールは、アトリエを掃除していたグリートの姿に閃きを得、新しい絵を描き始める。グリートは絵に興味を示し、絵に関する美的センスも持つ。
 彼女は、光の加減が変わってしまう、と窓の拭き掃除を躊躇し、バランスが良くない、と椅子の位置を勝手に変えてしまう。雲は何色かと画家に問われて、「ホワイト。……ノー、ノーホワイト。ブルー、イエロー、グレー」と答える。
 ……これって、フェルメールの主色と言われる色ではないの。フェルメールの絵の色って、雲の色だったんだねー。

 フェルメールは次第に、妻には手出しさせなかった自分の仕事を、グリートに手伝わせるようになり、やがて彼女をモデルに、青いターバンの少女の絵を描き始める。

 二人は触れ合うことすらない。主人と使用人、画家とモデル、にすぎない。が、妻は二人のこのストイックな関係に強く嫉妬する。
 グリートは、いつも髪を見せずに頭巾でまとめ、ほとんど笑うこともない。髪を下ろしたくない、と拒絶する彼女に、フェルメールはターバンを着せる。するとその耳に、妻の持つ耳飾を着けたくなる。そうでなければ、絵が成り立たないと感じる。
 フェルメールがグリートの耳たぶに針で穴を開け、グリートが痛さに顔を歪めるシーンは、ある官能を暗示している。……別の何かで聞いたことがあるが、この絵のとおりに照明すれば、本来なら、真珠には光が当たらないらしい。

 ……教養にはなったけれど、絵にまつわる架空のエピソードの域を出ない凡作だと思った。真実の愛も見えてこないし。
 でも、デルフトはいい感じ。やっぱり行ってみたい町。

 画像は、フェルメール「真珠の耳飾の少女」。
  ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675, Dutch)

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オランダ絵画によせて:静寂の空間

 

 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)と言うと、日本じゃ有名で人気もあるが、私は別に特に好きというほどでもない。が、日本にフェルメールがやって来ると、やっぱり観に行く。大阪の難波以南に行くと体調が崩れてしまう私には、天王寺の「フェルメールとその時代展」は拷問に等しかったっけ。
 フェルメールの描いた絵の数は少ないから、画家の全作品をナマで観た割合について言えば、私のなかで、フェルメールの順位は高いと思う。

 フェルメールの人気の一つは、彼が謎めいた画家だからかも知れない。経歴はほとんど知られておらず、生涯に30数点しか残さなかった寡作の画家。習作やデッサンも一切残っていないとか。
 初期の歴史画のいくつかは、デルフトの壊滅的な火薬庫の爆発とやらで吹っ飛んでしまったらしい。この爆発では死者も出たくらいだから、かなりの大惨事だったんだろう(カレル・ファブリティウスという、才能ある画家も死んでしまった)。
 フェルメールと聞けば思い浮かぶ室内風俗画とは、一風雰囲気の異なる、「真珠の耳飾の少女」のモデルは誰なのか。最晩年近くに描かれた「信仰の寓意」が、なぜあんなに大仰で、ぎこちないのか。……いろいろと疑問は尽きることがない。
 
 生涯デルフトを離れたことがなかった市井の画家で、15人も子供を持つ子沢山。絵は本業じゃなかったという説もあるらしいが、趣味で描いてたんなら上手すぎる。
 が、生涯、家計は火の車で、死後には破産しているから、やっぱり画家が本業だったのだと思う。

 フェルメールの人気には、絵そのものの魅力もあるのだろう。フェルメールは大抵、左から光の射す室内で、中流家庭の日常の、何気ない行為に携わっている1~2人の人物を描いている。
 オランダらしい、堅実な写実による質感の処理。光が踊っているかのようなきらめきと反射による、その質感の変化。この光や大気の絶妙な印象と、計算された、簡潔ながらもインパクトのある構図とで、静謐な、調和した、自己完結的な空間を作り出している。その空間を垣間見せるような、見る側の視点を意識した演出も加わる。
 主色は黄、青、灰色で、そこに細かい白点をハイライトに並べる。関連は知らないが、確かウィレム・カルフという、絢爛豪華な食卓画を描く画家も、同じように点描でハイライトをつけて、光のきらめきを表現していた。

 確かに、一種独特の、不思議な魅力がある。

 最近の研究では、フェルメールは眼前の光景をそのまま描いているのではなく、カメラ・オブスキュラという、当時の一種の写真機器を利用して、そこから見える光景を描いているのだとか。
 何かの番組で、フェルメールの絵を再現した室内を、この機器を通して見たことがあるけれど、ホントに、光の印象や、カメラ視点による遠近の歪みが、フェルメールの絵そのままに映っていた。

 画像は、フェルメール「音楽の稽古」。
  ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675, Dutch)
 他、左から、
  「天文学者」
  「レースを編む女」
  「水差しを持つ女」
  「絵画芸術」
  「デルフトの眺望」

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