ナプートの画家

 

 ペーチにはカープタラン通りという美術館が集まる通りがあって、相棒に、「どこに行くか決めなさい」と言われて、チョントヴァーリ美術館を指名した。が、絵は一桁枚しか展示されていないという。
 人生後半になって画家になったからね、放浪しながら馬鹿デカい絵ばかり描いたからね、もともと描いた絵が多くないんだよ。ピロスマニみたいな画家だよ、珍しいよ。
 ……とかなんとか、煽りに煽って、まんまとチョントヴァーリ鑑賞に成功。

 チョントヴァーリとの比較で私が思い出すのが、グルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani)なのだが、彼らはもしかしたら、放浪の画家という以外、似ているところはないのかもしれない。
 「死海のほとり」という、チョントヴァーリを描いた映画があるという。是非観たいんだけど。

 さて、チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル(Tivadar Csontváry Kosztka)は、ハンガリー画壇の奇才。20世紀初頭のハンガリー・モダニズムを説明する上で避けられない存在だが、とにかく独創的すぎて、どの流れにも位置づかない。近年では大変な人気で、絵にも破格の値がつくらしい。
 表現主義の画家に括られることが多いが、私の感想としては、素朴派の画家。画風が素人臭いから、というわけじゃなく、画面に、あれもこれもすべてをいっぺんに盛りこもうとする姿勢が、素朴派っぽく感じるからなんだ。

 チョントヴァーリはもともと薬剤師で、大学では調剤学、化学、鉱物学、地質学、水晶学云々を修めたインテリ。が、27歳のとき、啓示を受ける。
「お前は太陽の道(Napút)を行く偉大な画家になるだろう、ラファエロよりも偉大に!」

 これは天啓というよりも、彼の精神分裂症に由来するものらしい。が、とにかく彼は、画家になる決意をする。彼はバチカンを初め、ヨーロッパを周遊する。そしてハンガリーに戻り、以後、薬剤師として黙々と働く。旅するための金を稼ぐために。
 14年後、41歳になって、彼は絵を勉強を開始する。ミュンヘンのホッローシ・シモン(Simon Hollósy)などに師事してみたが、翌年には、ダルマチアやイタリアを旅行しながら風景画の実習。天性の一匹狼だった彼は、そうやって独学で絵を修行し、独自のスタイルを築いてゆく。

 スタイルができはじめた頃から、十年にも満たない短いあいだに、次々と大作を描く。その間、彼は「偉大なるモチーフ」を求めて、ほとんど旅をしている。地中海沿岸、北アフリカ、中近東。そしてパリに戻り、展覧会を開く。
 が、チョントヴァーリのドラマチックな、汎神論的に幻想的な絵は、彼の生前、ほとんど理解を得られずじまいだった。それは彼が、菜食主義、反喫煙主義、平和主義の宗教哲学を貫き、訳の分からない預言をのたまう、つむじ曲がりの変人だったからでもある。不成功を創造の力に変えて、描く、描く。

 だが、彼が熱心に望んだ認知と喝采は、最後まで得られなかった。孤独のなか、絶えず去来する幻聴だの幻影だのにさいなまれ、シュールなビジョンをスケッチする以外には絵も描けなくなっていく。
 深刻な精神状態は回復せず、十年ほど後に、狂気のうちにひっそりと死んだ。

 画像は、チョントヴァーリ「レバノンの杉への巡礼」。
  チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル
   (Tivadar Csontváry Kosztka , 1853-1919, Hungarian)

 他、左から、
  「ホルトバージの嵐」
  「ヤイツェの滝」
  「エルサレムの嘆きの壁」
  「孤独な杉」
  「ナザレのマリアの井戸」
  
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恬淡な野獣

 

 好みの問題もあるが、センテンドレの美術館で一番見応えのあった画家が、チョーベル・ベーラ(Béla Czóbel)。ハンガリーでは有名な画家らしい。

 私の語学力ではちょっとよく分からない。ユダヤ系画家なのだが、あの悲惨なナチスの時代を生き延びている。

 略歴を記しておくと、ブダペストに生まれ、ハンガリー画家たちが集まった芸術家村ナジバーニャ(Nagybánya)で、同国の印象派画家イヴァーニ・グランワルド・ベーラ(Béla Iványi-Grünwald)に師事。自然主義から出発した。
 が、20世紀初頭にミュンヘン、続いてパリに留学し、サロン・ドートンヌ展にて野獣派に触れ、これが決定的な契機となる。チョーベル自身もフォーヴの色彩で同展に出品し、マチスらと交流。以降、フォーヴの色彩を手放すことはなかった。

 ブダペストに戻り、ハンガリーの若手画家たちと合流。「ニョルツァク(Nyolcak)」(八人組“The Eight”の意味)を組織し、ナジバーニャ派の伝統とは異なる新しい絵画の方向を開く。
 第一次大戦中はオランダに逃れ、大戦後はベルリンへ。表現主義グループ「ブリュッケ」と交流し、新分離派に参加。さらにパリに移り、第二次大戦が勃発した39年まで、モンパルナスのアトリエで制作する。
 その後、ハンガリーに帰国。以降、パリとセンテンドレとに交互に滞在した。この生活は戦後も続く。
 そして、65年以降、ハンガリーに永住。

 チョーベルの絵には、あまり難しいものがない。多くを盛らず、多くを訴えない、無欲な絵。
 野獣派からの影響は確かだが、色彩はそれほど強烈でも主情的でもない。ただ灼然としている。人物画を多く描いたが、それらは、私の個人的な感想としては、目鼻立ちや身体の線の粗さとナイーヴさが、全体的にゴッホ、そしてルオーやブリュッケの木版画を、感じさせる。

 ユダヤ系だったチョーベルが、なぜ、同胞が被った迫害から逃れえたのか、よく分からない。戦後、なぜ、社会主義体制となったハンガリーと、パリとを自由に行き来できたのかも、よく分からない。
 だが、第二次大戦前後のパリ時代の絵は、超暗色のトーンに落ち込み、暗い時代の到来を予感させる。

 美術館で時系列的に絵を追うと、50年代の絵がすっかり抜けている。彼はこの時期、絵を描かなかったのだろうか。
 そして60年代。タッチが変わり、ぼやけたフォルムの上に輪郭線を乗せる、クレヨンのような、ちょっとパスキンを思い出させる絵になった。実際、チョーベルはベルリン留学時代に、パスキンと親交を持っていたのだけれど。
 
 誰か事情を知っている人が教えてくれないかぎり、これもまた永遠の謎なんだろうな。

 画像は、チョーベル「赤いショールを巻いた少女」。
  チョーベル・ベーラ(Béla Czóbel, 1883-1976, Hungarian)
 他、左から、
  「コーヒーを飲む女」
  「仮面とマンドリン」
  「ボールを持った少年」
  「センテンドレのヴィーナス」
  「センテンドレ」
  
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旅行記のご案内

 
 ハンガリーの旅行記を、書き下ろしました。スナップ写真が中心の備忘録ですが、よろしければ、ご覧ください。
 地図および一覧の都市名から、記事にジャンプします。

  ハンガリー旅行記

 今後、過去の旅行記およびアルバムについても、漸次、整理していく予定です。

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 画像は、クラムスコイ「猫を抱いた少女」。
  イワン・クラムスコイ(Ivan Kramskoy, 1837-1887, Russian)
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ハンガリーのアール・ヌーヴォー

 

 ハンガリーのアール・ヌーヴォーの画家を挙げるとすれば、文句なく、ファラゴー・ゲーザ(Géza Faragó)。ハンガリーの、いわゆるポスター美術の巨匠とされる。

 商業主義的なポスターや、風刺的戯画的なポスターを多々手がけているので、作品の出来はピンキリなのだが、白眉なものは、ミュシャ的に包括的かつ繊細にデコラティブ。輪郭は流麗で潔く、色彩は滴るように、弾けるように豊かで、フォルムはオーナメンタルにパターン化されている。もちろんこれは、ジャポニズム版画をフレンチにナビ派的にした、形状・色彩構成。
 一方で、ユーモレスク(=滑稽・諧謔様式)とカリカチュレスク(=誇張・歪曲様式)をもってして、冗談めいた物語を描き出す。こうした興味本位の俗的シーンと、申し分ない古典的絵画様式とのブレンド、これが、ハンガリーのポスター美術の典型的な流れであり、それを創始したのがファラゴーなのだという。

 略歴を記しておくと、ブダペストの裕福な家に生まれ、早くからデッサンの能力を発揮。絵を学んだ後、織物工場で働き、パリに留学。パリでも織物工場で働く傍ら、デッサン教室に通う。
 このパリにて、かのアール・ヌーヴォーの巨匠ミュシャのアトリエで働く機会を得、彼の絵は一気にミュシャスタイルに。

 ハンガリーに帰国後、ケチケメートの芸術家村で制作。放浪の後に、ブダペストに落ち着く。第一次大戦中はプロパガンダ制作に従事するなど、方向の定まらないところがあったが、やがて、ミュシャの絶大な影響のもと、独自のスタイルを発展させる。
 個人的にはロートレックと同じく、大都会の夜の歓楽が大好物で、ナイトクラブやパブ、カフェなどの商業ポスターを数多く手がけた。
 彼の描く人物像は、当時のハンガリー社会に見られた標本的なキャラクターで、彼らは彼の作品におけるトレードマークともなったという。

 画像は、ファラゴー「猫を連れた女」。
  ファラゴー・ゲーザ(Géza Faragó, 1877-1928, Hungarian)
 他、左から、
  「森の散歩」
  「刺繍をする若い娘」
  「花のなかで」
  「失楽園」
  「クラブ・ナキル」
  
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ハンガリーの野獣派

 

 ヴァサリ・ヤーノシュ(Vaszary János)。美術館の解説には、類稀なる妙技を持つアール・ヌーヴォーの画家、とあった。私のノートには、グラフィック的に軽妙、人物はドンゲン&風景はデュフィ、大仏の謎を確認の事、という一言メモ。

 ヴァサリの絵には大仏のイメージが出てくることがある。ラリッて伏し目がちな裸婦の背後あたりに、謎めいた大仏がのっそりと構えている。彼の絵のブッディズムの理由を調べてみたけれど、さっぱり分からなかった。

 一族からはハンガリー・カトリックの総本山エステルゴムの大司教まで輩出したという、筋金入りのカトリック一家の生まれ。
 絵の道に進み、ミュンヘンに留学中、フランスの自然主義画家バスティアン=ルパージュ展を観て大感激、パリへと旅立つ。

 ハンガリー絵画の自然主義としては、ナジバーニャ(Nagybánya)(現ルーマニア、バヤ・マレ(Baia Mare))という芸術家村に、ホッローシ・シモン(Simon Hollósy)らを中心とした一大潮流があった。ヴァサリもまた、ナジバーニャを訪れて戸外制作にいそしみ、祖国のフォークアートの伝統を大いに吸収したという。
 が、ヴァサリの絵はあまりハンガリーっぽくはない、おフランスな雰囲気。陽光も、自然主義というよりは、ポスト印象派以降が描く南仏っぽい。
 ただし、テーマはあくまで自然主義的で、外界を写実的に描写している。だから、彼がアール・ヌーヴォーの画家とされるのが、私にはピンとこない。

 ヴァサリの場合、なんらかの内面の心象が登場するとすれば、大仏。この大仏、誰か事情を知っている人が教えてくれなきゃ、永遠の謎だな。

 パリでの影響が、結局、ヴァサリの絵の本質にあるのだろう。第一次大戦中は特派員としてセルビアの前線に赴き、そのせいで一過的に、表現主義的にドラマチックな画風となるが、戦後、パリを再訪問すると、早々にフランス的な野獣派の画風へと戻ってしまった。このビビッドな色彩でモダンな日常生活を描いたものが、ヴァサリの絵の真骨頂。

 ハンガリーに帰国し、後進を育成。ハンガリー・モダニズムの最初の世代として画壇を牽引した。
 何年も心臓病を患っていた彼は、退職後、別荘を所有し夏を過ごしていた、ブダペスト近郊のタタで静養するつもりでいた。が、その前に死んでしまった。

 画像は、ヴァサリ「ドナウ川土手の遊歩道」。
  ヴァサリ・ヤーノシュ(Vaszary János, 1867-1939, Hungarian)
 他、左から、
  「雪中の兵士たち」
  「黒いターバンをした女の横顔」
  「モルヒネ中毒者」
  「浜辺のボール遊び」
  「庭椅子の女」
  
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