ある優等生の話(続)

 
 マグダはその後、そのまま優等生の人生を送ったかも知れない。優れた学問を修め、優れた教養を育み、優れた仕事に就き、優れた配偶と結婚し、優れた家庭を築き、優れた子供を育て上げたかも知れない。今頃は、優れた地位と名声、資産を伴って、人生の先達として、尊敬されるべき老境にいるかも知れない。

 だが優等生というものは、ある外的に与えられた、とりわけ制度的な、評価基準に照らして呼ばれるものだ。優等生は優秀な人間と同義ではない。もし優等生が、その評価基準の外から、別の基準でもって自分を見ることができなければ、「優等生」という呼び名はむしろ汚名ですらある。
 マグダは自分で自分の価値を、正当に認める人間に、なれたのだろうか。

 実際、マグダには分からないことだらけなのだ。なぜ自分が、いつまでたっても煩悩に悩まされるのか。なぜ、自分の価値観から来る良し悪しの判断と、自分の感覚とが、こんなにも食い違うのか。一体いつまで、自分のなかの負の部分に動揺し、心の泥沼をうろうろしなければならないのか。

 仮に自分に欠けているものがあったにしても、その欠損を自覚し修正すればいい。だが、その欠損を、欠損のままにしておいて、何か別のもので埋め合わせようとすると、おかしなことになる。埋め合わせるために努力をしたりすれば、なおさらおかしなことになる。なぜなら、その努力や、努力の成果や、努力する自分や成果を出す自分に、価値を見出してしまうからだ。
 努力が、人を貶めるための努力や、人を傷つけるための努力なら、いっそ努力などしないほうがいいに決まっている。なら、自分を偽るための努力や、自分を慰めるための努力も、やはりしないほうがいいのではないだろうか。自分を偽って慰めることが、自分を傷つけ貶めることにならないとは、言い切れないのだから。
 
 事あるごとに、自分は幸せだ、その幸せに感謝したい、と言葉にしないではいられないマグダ。だがマグダは、本当に幸せなのだろうか。
 善良で真面目だが本質を見抜くことのできない人間が、自分のことも周囲のことも不幸にしてしまう結果に終わるのは、マグダに限ったことではない。

 画像は、M.ミラー「夜の女王」。
  マージョリー・ミラー(Marjorie Miller, 1898-1936, American?)

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ある優等生の話

 
 マグダにお別れを言う前に、マグダのことを思い返してみよう。

 成績優秀で品行方正、そんな優等生が、身近に一人や二人はいるものだ。マグダもそんなタイプの一人だった。
 幼い頃から、生真面目に努力をし、努力に見合うだけの成果を出す能力を備えていた。成果を出すために費やす努力には克己を感じ、費やした努力によって得られる成果には陶酔を感じた。そうした能力と感性を、マグダは自分に備わる優れた資質であると自負していた。
 マグダにとって、学術や芸術とは、人間として常に嗜み、その技を研磨する稽古を通じて人格の向上を目指す、道の理念でもあった。

 マグダは一見、容姿は麗しく、性格は陽気で快活だった。周囲に対しては礼節を重んじ、親切でもあった。周囲からは注目され、噂になった。目上の人たちからは褒められ、目下の人たちからは頼られた。

 マグダの率直な心を言えば、自分にないものを持つ者、自分より優れたものを持つ者には嫉妬を感じ、自分にあるものを持たない者、自分より劣ったものを持つ者には侮蔑を感じた。
 自分が嫉妬した者が不幸な目に会うと喜びを感じたが、喜びを感じていることを恥じ、隠し、心から同情したいと願い、同情しようと努め、同情しているように振舞うことで、本当に同情していると思い込んだ。他方、自分が侮蔑した者を悪しざまに言って当人を傷つける権利を、自分は正当に有するのだと感じたが、実際にそうしない自分を寛容だと考えて、感心し得意に思った。

 人格者でありたいと願ったマグダは、そうした本心を、自分の内奥にしっかりと秘めていた。内心の自由は責められるべきものではないが、そんな内心を持つ様子を見せたくはなかった。内心にくすぶる訂正すべき箇所は、マグダにとって、自分が未熟ゆえに今はまだ抑えることができないでいる煩悩なのだった。
 マグダはこの煩悩を、あまりに無理なく自然に、上首尾に、長きにわたって秘め続けた。その結果、自分でも、そんなものが自分のなかにあることを、忘れてしまうほどだった。

 To be continued...

 画像は、M.ミラー「春の約束」。
  マージョリー・ミラー(Marjorie Miller, 1898-1936, American?)

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静穏な野獣

 
 
 サガン原作の「厚化粧の女」という映画に、マルケが描いたという贋作が出てきた。開け放たれた窓を背に、裸の女がこちらを向いて、両腕ごとテーブルに身体をもたせかけて座っている。といっても、その身体は両腕から上半身しか描かれていない。そして、背後の窓から、マルケらしいトロンとしたブルーの海が覗いている。
 マルケって、海やセーヌ川など水辺を描いた風景画が多いけれど、裸婦も結構描いているんだよね。おフランスな映画にはマルケチックな絵が似合う。

 アルベール・マルケ(Albert Marquet)は、野獣派(フォーヴィスム)に括られるフランスの画家。私、野獣派の画家ではマルケが一番好きなんだ。マルケのハズレな絵には、今まで一度も出会ったことがない。

 虚弱で内気、けれども自然が好き、絵も好きだったマルケ。母親は、実家の土地を売り払って金を作り、絵を学ばせるために彼をパリへと送り出す。モローの教室で同窓のマティスと出会い、終生の友となった。
 マティスと親しかったもんだから、官展に反撥的なサロン・ドートンヌ展にも出品し、一緒になって「フォーヴ(野獣)」と呼ばれて注目を集めることに。

 フォーヴィズムは、原色を多用した強烈な色彩が特徴だといわれる。確かに、短命だったフォーヴの時代、画家たちの絵には、マティスに影響されたらしい原色が、目立つっちゃあ目立つ。
 が、フォーヴの時代を過ぎてみると、画家たちの色彩はとても調和がよい。ドンゲンにしてもデュフィにしてもヴラマンクにしても、最もその画家らしい卓越した絵が、フォーヴを過ぎた時代に登場する。もともとフォーヴィズムというのは、色彩を、フォルムに従属させることなく、画家の主観的な感覚を表現する力として重んじるのだから、こうした画家各々の、舌を巻く色使いは、フォーヴの真骨頂なのかも知れない。

 で、マルケなのだが、野獣派にあって、初期からさほど野獣ではなく、穏やかで落ち着いた画風だった。それは、色彩は感情の表出だとされた、その感情そのものが、マルケの場合、穏やかで落ち着いていたからなように思う。

 原色のイメージがある野獣派のなかで、マルケの色彩は中間色。グレーがかったミルキーな青が、私のなかでのマルケ色。
 ニュアンスに富んだ柔らかな色調は、どちらかというと地味で、うっとりと淡いノスタルジーを感じさせる。画家が愛着する、いかにもフランスらしいパリの街路や港の情景は、人物も建物も、クロッキー的に、ほんの数えるほどのタッチで表現されている。マティスいわく、「フランスの北斎」。

 写実的でない分、説明的でなく、けれども写実泣かせの存在感、臨場感を持った、独特の詩情。マルケってやっぱり、稀有な画家。

 絵が売れるようになってからは、好んで旅をしたマルケだけれど、生涯、金にも名声にも関心がなく、贅沢もせず、絵については勤勉だった。
 生まれ持った余裕というものがあったんだろう。要するに、人間ができてたんだろうな。

 画像は、マルケ「ナポリ湾」。
  アルベール・マルケ(Albert Marquet, 1875-1947, French)
 他、左から、
  「サン=ミシェル橋」
  「パリのトリニテ広場」
  「マルセイユ港」
  「アルジェの風景」
  「赤いストッキング」

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バビロンの大淫婦(続)

 
 天使がヨハネに言う。
 あの獣は、昔はいたが今はいない。やがて来たり、ついには滅びるものだ。7つの頭は7人の王、10の角は10人の王のことだ。彼らは獣とともに王としての権威を受け、子羊に戦いを挑むが、王の王である子羊は彼らに勝利する。子羊とともに死んだものたちも勝利する。
 淫婦の座る水は、あらゆる民族と言語のことだ。獣はこの淫婦を憎み、惨めにし、裸にし、肉を食らい、火で焼き尽くすだろう。淫婦とは、地上の王たちを支配する大いなる都のことだ。

 すると、もう一人の天使が、大いなる権威を持って天から降りてくる。天使は叫ぶ。
 大いなるバビロンは倒れた。それは悪魔とあらゆる汚れた憎むべき霊の巣窟となった。地上のあらゆる民が、彼女の姦淫に対する怒りの葡萄酒を飲み、王たちが彼女と姦淫し、商人たちが彼女の贅沢により富を得ていたために。

 さらにもう一人の天使が言う。

 民よ、その罪にあずからないよう、彼女から離れ去れ。彼女の罪は積もり積もって天に達した。彼女の不義を倍にして報復せよ。あらゆる災いが一日のうちに彼女を襲い、彼女は火で焼かれてしまう。
 彼女と姦淫し、富をほしいままにしてきた地上の王たちは、彼女が焼かれる火を見て嘆き悲しみ、彼女の苦しみに恐れをいだくだろう。
「大いなる都バビロンは災いだ。お前に対する裁きは一瞬にしてやって来た」
 商人たちも嘆き悲しむ。
「大いなる都は災いだ。これほどの富が一瞬にして無に帰してしまうとは」

 天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ、大いに喜べ。神はお前たちのためにこの都を裁いたのだ。

 さらにもう一人の天使が、巨石を持ち上げ、海に投げ込んで宣言する。
 大いなる都バビロンは、このように打ち倒され、まったく姿を消したのだ。

 画像は、デューラー「大淫婦バビロン」。
  アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471-1528, German)

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バビロンの大淫婦

 
 「人間の絆」のミルドレッドやら「痴人の愛」のナオミやら、「ルパン三世」の峰不二子やらが話題になると、相棒は決まって、ついでに「バビロンの大淫婦」を思い出す。……すごい名前だな。
 その昔、聖書に「バビロンの大淫婦」なるものが登場すると教えてあげて以来、その響きがやたらに忘れがたくて、何かにつけて思い出しているうちに、「バビロンの大淫婦」は、どんな淫婦もかなわない、あらゆる淫婦に勝る、淫婦たちに君臨する淫婦の女王、淫婦中の淫婦のようなイメージに膨らんでしまった。
 
 「バビロンの大淫婦」というのは、「ヨハネ黙示録」に出てくる、女の姿で表わされた反キリストの暗喩。「バビロンにいる大淫婦」ではなく、「バビロンという大淫婦」、つまり「大いなる淫婦バビロン」、「大淫婦バビロン」という意味。
 
 以下、「ヨハネ黙示録 17~18章」の備忘録。

 7つの鉢を持つ7人の天使の一人がヨハネに言う。
「水上に座る大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちはこの女と姦淫し、地上の住人たちはこの女の姦淫の葡萄酒に酔いしれている」

 天使はヨハネを荒野へと連れて行く。そこには、緋の獣に乗った一人の女がいた。獣は7つの頭と10の角を持ち、神を汚す数々の名で覆われていた。
 女は紫と緋の衣を纏い、金・宝石・真珠で身を飾り、憎悪と姦淫の汚れで満ちた金の杯を手に持ち、額には一つの名が記されていた。
“大いなるバビロン、淫婦どもと地上の憎むべきものらとの母”
 女は聖徒の血とキリストの証人の血に酔いしれていた。

 To be continued...

 画像は、ブレイク「大淫婦バビロン」。
  ウィリアム・ブレイク(Wlliam Blake, 1757-1827, British)

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