霊知は魔を啓示する

 

 死ぬまでにアウシュビッツを見るんだ、と意気込んでいた相棒。スロバキアから、タトラ山脈経由で徒歩で国境を越えてクラクフへ、なんて無謀な旅行計画を立てていたところが、くも膜下出血のおかげで、あえなく断念。
 再出血の可能性だってあるし、いくら後遺症がなくても、予後には特有の頭痛がしばらく続く。特に前線が通過するときはひどい。なので、しばらく休養して、また絵の話。

 ヨゼフ・ヴァーハル(Josef Váchal)というチェコの画家が私の印象に残っているのは、その絵の雰囲気が多分にデモーニッシュだからかも知れない。

 ヴァーハルは主に版画を制作した。木版という素材の性質のせいもあるのだろうが、彼の絵は、ゴーギャン的な非文明への崇拝と、ムンク的な死への陶酔とが、芬々としている。そしてそれら一切が、自然という霊、あるいは霊的存在である自然、そうしたものに対する敬愛へと収斂している……ように見える。

 あまり詳しくは分からないが、ヴァーハルは伝説的なボヘミアの森、シュマヴァ(Šumava)に程近い小村の生まれ。霊的自然に対する彼の熱愛は、この森の存在が多分に関与している。
 私生児として生まれ、祖父母に育てられた彼は、むら気で我儘な問題児だったらしい。早々に放校処分となった彼を、父親は、プラハにいる親戚の製本職人のもとへと厄介払いする。ここで彼は、製本技術を学ぶうちに絵に興味を持つようになり、高じてグラフィックアートを勉強することに。でもまあ、ほとんどが独学だった。

 同時に、絵よりも強く彼を魅了したのが、父親が情熱を傾けていたという神智学。神智学協会に参加して、熱心に神秘主義を学ぶ。神、自然物に宿る精霊、死と死後の世界などなど、神秘主義の思想は生涯、彼の描く絵のビジョンの源泉となった。

 悪魔や魔女や異教の神々、森の化身の野獣たち、死霊や影、流浪の民、聖人でさえも、奇怪に魔的なイメージで描かれる。異形の姿をした彼らは、なまくらで、大して怖ろしくない。が、主情的に、当てつけがましく存在している。人間社会を皮肉り、嘲笑している。
 近代以前のテーマを扱いながらも、世紀末的にモダンに仕上げる、独特の嗜好。錯綜した色使いは、激情的だが耽美。個々のモチーフはぴりぴりと感じやすく、全体のムードはどんよりと曖昧。どうも矛盾する。あくまでヴァーハルの偏愛する世界だ。

 こうした精神世界を共通項に、画家グループ「スルスム(Sursum “高く挙げよ”の意)」を結成。が、元来が時世のトレンドをかんがみなかったために立ち消えとなる。
 ヴァーハルの絵は秘密めいていて、大衆には理解されづらかったのだが、第二次大戦中、ナチスによるチェコスロバキア占領に抵抗するレジスタンスを描いても、なお理解されないまま、戦後、共産主義革命の後には完全に孤立。田舎に引っ込んで、世に知られずに辺鄙に暮らした。
 60年代、プラハの春以降もほとんどリバイバルせず、90年代になって再評価されたという。

 ……いくらこまめに美術館に赴いたり、絵をサーフィンしたりしても、私が消化するより先に、知らない画家に出くわしてしまう。生きているあいだに、すべての画家を網羅するのは、もう不可能そう、と思う、今日この頃。

 画像は、ヴァーハル「時間」。
  ヨゼフ・ヴァーハル(Josef Váchal, 1884-1969, Czech)
 他、左から、
  「ルズニーの原生林」
  「ワルプルギスの夜の夢」
  「ゴルゴダの丘」
  「死者の微笑み」
  「アーリマン崇拝」

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夜を駆けて

 
 数週間前、相棒がくも膜下出血で救急搬送された。え……

 病院から電話を受けて、私はただ唖然とするばかり。相棒のこの手の外出にはいつも、自分が「御守」になって、一緒に付き添っていたのだが、この日は、「そんな強迫観念は放っておくがいいよ」という相棒の言葉を真に受けて、家に居残っていたのだった。
 理性に従った結果がこれだ。私の場合、肝心なところで理性が役に立ったためしがない。

 あまりに唐突で、悲運を悲運と捉えることも、不幸を不幸と感じることもできない。青空の下、まだ先のほうまで見通せる道を歩いていたところを、足許の大地に、霹靂の一撃で大穴をうがたれれば、旅人は、口をあんぐり開けて、呆れ返るより仕方がない。

 私は一人ではタクシーに乗ることができない。なので自転車で、病院目指して、夜のなかへと漕ぎ出だす。
 温かな夜気が肌を包む。夜風を切る音に混ざって、もっと奥の底のほうから、深海の闇を伝わるように、厳粛な律動が響いてくる。咽喉に熱い塊が間断なくこみ上げる。星がいつになくくっきりと輝いて見えるのは、眼に溜まった涙の膜がレンズになっているからなんだ。

 こんなシーンを、私は何度も夢に見てきたんじゃなかったか。自分にまつわる何もかもを放り出して、身一つで、夜空を駆けて、あの人のもとへ行こう、行こうと一心に念じる、胸を締めつけられるようなそんな夢。

 人はこんなふうに死んでいくんだ。いずれかの世界で何者かになり、何事かをなしたと納得し、いくらでも自分の代わりがいたとは考えないようにして、これで本当に良かったんだろうかと思いながらも、周囲に、ありがとう、と言い残して死んでゆく。
 そのようには生きまいとした人は、ただ、ああ、もう死ぬんだ、とだけ思って、死んでゆく。
 他人が見れば、同じに見える。死ぬまでどう生きてきたか、その生に意義があったのか、なんて、本人にしか分からない。

 人が死後に残すことができるものには、それほどの価値はない。その人に備わり、その人とともに消え去るものに、本当の価値がある。その人のなかにある、他者が手を出せない世界、その世界が、人類にとっても意味を持つ普遍的な世界なら、それが失われることは大いなる損失だ。
 が、損失かどうかを決めるのは、人類であってその人ではない。なら人は、一人、自分の生に向き合って、ただ死んでいくしかない。

 さようなら、世界。さようなら、君。
 
 予定では、私のほうが先に死ぬはずだったんだけどな。私はもう一度、パートナーを看取ることができるだろうか。

 それでも、なぜだか私は、相棒が無事に復活することを知っていた。そして実際、相棒は、手術もせず、後遺症もなしに、何事もなかったかのように生還した。
 天使は、いつも見守っていて、天使が慣れ親しんだやり方で、メッセージを送ってくるという。もうちょっと真面目に生き直せ、というメッセージなんだろうか?

 以上、ごく最近の、ちょっとしたエピソード。

 画像は、チュルリョーニス「知らせ」。
  ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス
   (Mikalojus Konstantinas Ciurlionis, 1875-1911, Lithuanian)


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