里親見つかりましたの報告

 
 前略。

 本日、子猫の里親が無事見つかりました。ご心配してくださった方々、ありがとうございました。

 デスクワークをする人間の肩の上で、ニャーとも鳴かずにおとなしく座っていてくれた、可愛いムスタファ。

 人間の寝具のなかに勝手に潜り込み、居心地好い窪みに収まって、こちらにペタリと身体を押しつけて眠った、甘えん坊のムスタファ。

 お腹が空くと、人間の足許をまとわりつきながらついてまわり、きちんとお座りして人間を見上げ、眼が合うと、ニャアアとご飯を催促した、お利巧なムスタファ。

 ここ2日、ピョコタン、ピョコタンとバンビのように跳びはねながら、部屋じゅうを駆けまわり、旺盛な好奇心で、高いところ、狭いところを縦横に冒険した、やんちゃなムスタファ。

 自分が猫族であることに目覚め、照明灯にぶら下げてもらった毛糸のマフラー相手に、一人、俊敏な狩猟ごっこに明け暮れた、バイオレントなムスタファ。

 猫と暮らすなど思いもよらなかった私の生活に、偶然が、生涯の思い出にと授けてくれた、大事なムスタファ。

 新しい猫々家族のもとで、幸せに暮らしてね。

 追伸。
 レスキューした夜、子猫の邪悪な眼が、「人生案内」に登場する浮浪児ムスターファを想起させるから、と、相棒が命名した“ムスタファ”。ちなみに、ミドルネームの“こげ麻呂”は、日本の猫には日本の名前を、と私が命名。
 日々、ムーちゃんと呼んでお世話していましたが、ムスタファ・こげ麻呂は、実は女の子だったことが判明しました。
 
 画像は、クローバー畑のムスタファ。
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子猫の里親を探しています

 
 前略。

 子猫の里親となってくださる方を探しています。

 経緯:
 先日夜中に、深溝の水溜まりに落ちて、泥に埋まって身動きの取れなくなった子猫を助けました。
 当方、ペット不可のマンション、家族のアレルギーなどの理由で、飼うことができません。また、10日後より長期不在の予定のため、緊急に里親となってくださる方を探しています。

 子猫の状態など:
 生後1ヶ月少しと思われます。体重600グラムほどで、歯も生えており、自分で餌を食べることができます。
 健康状態は概ね良好です。
 きれいな黒猫です。
 甘えん坊で、膝や肩に乗りたがり、撫でるとゴロゴロと咽喉を鳴らして眠ります。
 
 里親さまへの希望など:
 病院に連れて行ってくださる方、家族同様に終生大切にしてくださる方。
 10日後より1ヶ月不在のため、留守にする1ヶ月間だけでも世話をしていただける方も、是非ご連絡くださいませ。

 追記。
 里親さまのほう、無事見つかりました。ありがとうございました。

 画像は、保護した子猫、ムスタファ(仮名)。
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ラジコたちの国で

 
 プラハの国立美術館でのこと。
 中学生くらいの子供たちが数人、私たちを見つけて、遠巻きににやにやと眺めながら、何かを囁き合っていた。私たちの行く先々を眼で追い、私たちが近づいていくと、「ラジコ!」と叫んで、パッと逃げ出した。

 “ラジコ”とは多分、放射能のことだろう。世界では日本人は、汚染された生物として、放射性廃棄物のように扱われるのだ。
 そう考えて、帰国後、“ラジコ”の意味を調べてみたのだが、チェコ語でradiation(放射線)はradiace、radioactivity(放射能)はradioaktivníで、ラジオの配信サービス名に“ラジコ”というのが見つかった以外には、分からなかった。

 もしかしたら“ラジコ”は、チェコ語ではないかも知れない。別の意味があるのかも知れない。私たちの聞き違えかも知れない。
 けれどもそれ以来、「放射能に汚染させられ、かつ、放射能で世界を汚染し今なお汚染し続けている国にありながら、そのことに向き合わず、なかったことにして、これまでどおりの生活で生きようとする日本人」のことを、私たちは“ラジコ”という言葉で表わすようになった。

 以前、海外でプレーするある日本人サッカー選手に対して、相手サポーターが、「フクシマ!」と野次ったことが話題になった。
 チェルノブイリ事故に関わって、ロシア人選手を「チェルノ!」と野次れば、それは不当だと思う。同じように、日本人を「フクシマ!」と野次ることも、おそらく不当なのだろう。

 だが、例えば自分が外国人から、「フクシマ!」と野次られたとしたら? 今の私にはそれを不当だとは言い切れない。それは、野次は野次だが謂われがあるからだ。そしてその謂われは正当だからだ。
 謂われというのは、日本という国は“ラジコ”であり、そこに暮らす日本人の多くもまた“ラジコ”である、ということだ。
 これは、単純な人種差別、思想・信条の差別などとは異なる。

 なら、“ラジコ”の国に生まれた人間は、どうやって誇りを持つことができるのだろう。“ラジコ”にならないことによってでしかないではないか。
 その人が“ラジコ”かどうかは、その人の選択の結果なのだから。

 画像は、チュルリョーニス「真実」。
  ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス
   (Mikalojus Konstantinas Ciurlionis, 1875-1911, Lithuanian)
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