世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
里親見つかりましたの報告
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/9a/e0535c358abb4f23270fd444cc35c646.jpg)
前略。
本日、子猫の里親が無事見つかりました。ご心配してくださった方々、ありがとうございました。
デスクワークをする人間の肩の上で、ニャーとも鳴かずにおとなしく座っていてくれた、可愛いムスタファ。
人間の寝具のなかに勝手に潜り込み、居心地好い窪みに収まって、こちらにペタリと身体を押しつけて眠った、甘えん坊のムスタファ。
お腹が空くと、人間の足許をまとわりつきながらついてまわり、きちんとお座りして人間を見上げ、眼が合うと、ニャアアとご飯を催促した、お利巧なムスタファ。
ここ2日、ピョコタン、ピョコタンとバンビのように跳びはねながら、部屋じゅうを駆けまわり、旺盛な好奇心で、高いところ、狭いところを縦横に冒険した、やんちゃなムスタファ。
自分が猫族であることに目覚め、照明灯にぶら下げてもらった毛糸のマフラー相手に、一人、俊敏な狩猟ごっこに明け暮れた、バイオレントなムスタファ。
猫と暮らすなど思いもよらなかった私の生活に、偶然が、生涯の思い出にと授けてくれた、大事なムスタファ。
新しい猫々家族のもとで、幸せに暮らしてね。
追伸。
レスキューした夜、子猫の邪悪な眼が、「人生案内」に登場する浮浪児ムスターファを想起させるから、と、相棒が命名した“ムスタファ”。ちなみに、ミドルネームの“こげ麻呂”は、日本の猫には日本の名前を、と私が命名。
日々、ムーちゃんと呼んでお世話していましたが、ムスタファ・こげ麻呂は、実は女の子だったことが判明しました。
画像は、クローバー畑のムスタファ。
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子猫の里親を探しています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/bd/36924c6b5c347d173e7301b5e31c4155.jpg)
前略。
子猫の里親となってくださる方を探しています。
経緯:
先日夜中に、深溝の水溜まりに落ちて、泥に埋まって身動きの取れなくなった子猫を助けました。
当方、ペット不可のマンション、家族のアレルギーなどの理由で、飼うことができません。また、10日後より長期不在の予定のため、緊急に里親となってくださる方を探しています。
子猫の状態など:
生後1ヶ月少しと思われます。体重600グラムほどで、歯も生えており、自分で餌を食べることができます。
健康状態は概ね良好です。
きれいな黒猫です。
甘えん坊で、膝や肩に乗りたがり、撫でるとゴロゴロと咽喉を鳴らして眠ります。
里親さまへの希望など:
病院に連れて行ってくださる方、家族同様に終生大切にしてくださる方。
10日後より1ヶ月不在のため、留守にする1ヶ月間だけでも世話をしていただける方も、是非ご連絡くださいませ。
追記。
里親さまのほう、無事見つかりました。ありがとうございました。
画像は、保護した子猫、ムスタファ(仮名)。
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ラジコたちの国で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/2f/31004560a4e8640d965ec28be0af0e46.jpg)
プラハの国立美術館でのこと。
中学生くらいの子供たちが数人、私たちを見つけて、遠巻きににやにやと眺めながら、何かを囁き合っていた。私たちの行く先々を眼で追い、私たちが近づいていくと、「ラジコ!」と叫んで、パッと逃げ出した。
“ラジコ”とは多分、放射能のことだろう。世界では日本人は、汚染された生物として、放射性廃棄物のように扱われるのだ。
そう考えて、帰国後、“ラジコ”の意味を調べてみたのだが、チェコ語でradiation(放射線)はradiace、radioactivity(放射能)はradioaktivníで、ラジオの配信サービス名に“ラジコ”というのが見つかった以外には、分からなかった。
もしかしたら“ラジコ”は、チェコ語ではないかも知れない。別の意味があるのかも知れない。私たちの聞き違えかも知れない。
けれどもそれ以来、「放射能に汚染させられ、かつ、放射能で世界を汚染し今なお汚染し続けている国にありながら、そのことに向き合わず、なかったことにして、これまでどおりの生活で生きようとする日本人」のことを、私たちは“ラジコ”という言葉で表わすようになった。
以前、海外でプレーするある日本人サッカー選手に対して、相手サポーターが、「フクシマ!」と野次ったことが話題になった。
チェルノブイリ事故に関わって、ロシア人選手を「チェルノ!」と野次れば、それは不当だと思う。同じように、日本人を「フクシマ!」と野次ることも、おそらく不当なのだろう。
だが、例えば自分が外国人から、「フクシマ!」と野次られたとしたら? 今の私にはそれを不当だとは言い切れない。それは、野次は野次だが謂われがあるからだ。そしてその謂われは正当だからだ。
謂われというのは、日本という国は“ラジコ”であり、そこに暮らす日本人の多くもまた“ラジコ”である、ということだ。
これは、単純な人種差別、思想・信条の差別などとは異なる。
なら、“ラジコ”の国に生まれた人間は、どうやって誇りを持つことができるのだろう。“ラジコ”にならないことによってでしかないではないか。
その人が“ラジコ”かどうかは、その人の選択の結果なのだから。
画像は、チュルリョーニス「真実」。
ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス
(Mikalojus Konstantinas Ciurlionis, 1875-1911, Lithuanian)
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