人間の普遍性について(続々)

 
 もう少し後になってみると、今度は、彼らの自身の基準の無さ、曖昧さ、間主観(inter-subjective)さのほうが、ずっと眼につくようになった。
 彼らは皆、権威ある他人の言動に動じやすかった。権威そのものに動じやすくもあった。彼らは自分で自分を正当に評価できず、他人からの評価を、しかも無条件にプラスの評価を望んだ。
 彼らの基準は属人的、あるいは属組織的な場合が多く、その外的な基準を自分を正当化するのに利用する一方、その基準に、判断に際して自分が負うべき責任を押しつけた。

 そして今。私には彼らの、真実を怖れ、それを避けて通ろうとする言動が、一番眼につく。彼らが忌避するのは、彼ら自身の真実、そして彼らが依拠する外的な一面的世界の真実だ。

 現実の世界には眼を覆いたくなるようなひどい問題が多々存在する。が、同時に、それを解決し得る人間的普遍もまた確実に存在する。そうした問題と普遍は、人間一人々々のなかにも存在する。

 現実から眼を背ければ、現に存在する普遍もまた、単なる空虚な理念と化する。世界の現実も、自分自身の持つ現実も、見ないで済む代わりに、解決の展望も見失う。
 そして普遍を、現に存在するものではなく、将来実現され得る理念と捉える立場は、その実現という大義名分のもとに、現にある抑圧に眼をつむり、それよりもひどい抑圧をさえ許す立場につながる。展望がない分、余計にそうなる。

 つまり、どんな真実であれ、真実を忌避する立場は、抑圧を容認する立場と表裏なわけだ。

 せめて私より若い人たちには、真実を思慕し、捉え、尊重する資質と能力を、健全に育んで欲しいと願う。

 画像は、ブレイク「慈悲と真実が眼合わされ、正義と平和が互いに接吻させられる」。
  ウィリアム・ブレイク(Wlliam Blake, 1757-1827, British)

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人間の普遍性について(続)

 
 当初は、彼らの自己中心さばかりが眼についた。その自己中心さには、排他性があった。つまり、彼らは自分を特別視していた。
 彼らは自分にしか関心がないように見えた。それが最も分かりやすく現われるのは、彼らが感情を爆発させるときだった。彼らは概ね、マイナス感情に対して耐性がなく、自分の気が済むかどうかを最重要に考えた。だから私には、彼らが傲慢、尊大に見えた。その感情も稚拙で身勝手に見えた。

 彼らの自尊心は主観的だった。他人から評価されたい、称讃されたい、注目されたいと不自然に望み、それを顕示し、そのための努力もした。が、そうした評価や称讃、注目が、うわべだけの表面的なものであったとしても、あまり気にならないようだった。

 彼らは自分が批判、非難されるときには、あるいは否定されるときには、敏感に、ときには過剰に反応した。あるときは動揺し混乱するあまり、攻撃に出ることもあった。攻撃の内実はこれまた感情的かつ一方的で、屁理屈や詭弁をこじつけて相手に絡み、相手を欺瞞、偽善だと言いがかりをつけて自分を正当化した。
 あるいは、よりストレートに心情を吐露して当たってくることもあった。屈辱感、無力感を顕わにし、自分の無価値を主張し悲嘆することもあった。
 彼らは概ね嫉妬深く、その嫉妬の矛先は相手の境遇だけでなく、相手の資質や能力、感性にも及んだ。

 To be continued...

 画像は、シーレ「姿を現わした真実」。
  エゴン・シーレ(Egon Schiele, 1890-1918, Austrian)

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人間の普遍性について

 
 天邪鬼なのかも知れないが、私はずっと、人類愛を直接に訴える主張が好きになれなかった。今でもそう。
 なら、いわゆる人類愛を信じていないのかと言うと、そうでもない。

 思うに私は、人類愛を訴える人々の理想主義が嫌いだったのだ。もし人類愛が現に存在するなら、それを見抜く冷厳な眼を持っていれば済む話だ。眼を持て、と訴えるほうが説得力がある。
 それを抜きにして人類愛を訴えるなら、その人は、人類愛を単なる理念、しかも現在ではなく将来実現すべき理念と、捉えていることになる。すると、理念そのものではなく、その理念を将来いかに実現するかが、主要な問題となってくる。こうなると、将来来たるべき崇高な理念のために、現在、その理念とは正反対の抑圧が、安易に持ち出されることになる。

 もし、人間の普遍性が客観的に存在するなら、人は、その普遍を捉えるだけで、自身のなかに普遍的な、確固たる基準を獲得できる。その上で、その普遍を尊重するか否か、その普遍を尊重する個人を尊重するか否か、は確かに問題となるのだが。
 わざわざ普遍的理念を持ち出さずとも、現にある普遍を思慕し、それを捉え、それを尊重することで、人は誰でも、人類の一員として自他ともの個性や能力を伸ばし、手を携え合うことができるし、情理に沿って情感豊かに欲求を育み、満たし、次へとつなげることができるし、自然とも共存することができる。

 そこで、かつて眼にした、イデオロギー的偏倚に陥った人々の特徴的な人格傾向(PT、Personality Trait)や、人格障害(PD、Personality Disorder)を思う際、彼らが皆、真実を恐怖し、それを回避していたことに、改めて気づく。

 To be continued...

 画像は、リッシェ「ヒステリックな女」。
  ポール・リッシェ(Paul Richer, 1849-1933, French)

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夢の話:人を殺す感覚 その2(続々々々々々々)

 
 やがてサラザンは、ハーゲン氏の身体の下から這い出てきた。彼は起き上がり、私に声をかけた。
「的が外れたんですか。それとも……」

 もう眼がかすんで、サラザンの姿が見えなかった。ただ声だけが聞こえた。
「……それとも、僕を助けてくれたんですか」

 やがて尽きる命を自覚する人間は、時間の有限性を訴える。だが、時間の不可逆性もまた、常に同じくらいに意識しなければならない。
 取り返しのつかない過失を犯したとき、人は唐突に、この時間の不可逆さを思い出す。そして時間の不可逆さを痛感しなければ、犯した過失を後悔できない。

 本当とは思えない悪夢(実際、そうなんだけど)のような現実。古代、眠りと死は、共に安らぎを与える兄弟だったという。本当に怖ろしいものは、生という現実だ。実に地獄とは、あの世にではなくこの世にこそある。
 そして、この悪夢である現実のなかで、正気を保って生きてゆくことは困難だ。正気は常に、過去に犯した罪を苛み、将来罪が暴かれることへの不安、罪に罪を重ねることへの不安を呼び起こす。正気を保てば、人は絶望する。正気を放棄すれば、罪を是認し、自身を変質させて、だが生き延びることだけはできる。

 死者は声を立てない。痛む頭に響くのは、冷たい良心の声だけだ。なぜ、避けようとしなかったのだ。お前には選択できたはずではないか。 
 良心が私を、暗い、深い深淵へと引きずり込む。サラザンが私の手を取り、私を抱き起こそうとしているのが分かる。けれども私は落ちてゆく。壁を抜け、地面を抜けて、下へ、下へと。
 地獄は地の底にあるという。だが、下へと落ちるのはむしろ、真っ暗な空、宇宙を漂い落ちる心地だ。私は天へと落ちてゆく。

 そして気を失い、例によって眼を醒ました。

 画像は、フュースリ「狂女」。
  ヨハン・ハインリヒ・フュースリ(John Henry Fuseli, 1741-1825, Swiss)

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夢の話:人を殺す感覚 その2(続々々々々々)

 
 重い、冷たいその金属は、死の肌触りがした。撃て、撃ち殺せ、と叫ぶハーゲン氏の声に促されて、私は震えながら、膝を支えにして銃を構えた。
 私はそれを、ハーゲン氏にかけられた暗示だと思っていた。だが違った。それは銃がかけた暗示だった。銃を持つと、持った人間は、撃つ気がなくても何かを、誰かを撃とうとする。銃がそれを持つ人に、そうさせるのだ。人を殺すために作られた武器なのだから、当然だ。鉛筆を持てば、いたずら書きをしたり、指先で回したくなったりするようなものだ。

 銃を持った途端、人は銃に支配される。だから人は、そもそも銃など持ってはいけないのだ。
 
 「撃て!」というハーゲン氏の声で、私はふらふらと引き金を引いた。瞬間、バンッ! という音とともに、私は腕に身体を引っ張られ、後ろの壁で頭を打った。
 完全な静寂が訪れた。やがてサラザンを組み敷いていたハーゲン氏が、ドサッという重い音を立てて、サラザンの上へと倒れ込んだ。その一部始終を、私は信じられない思いで、ぼんやりと見守っていた。

 銃が怖ろしいのは、ただ引き金を引くだけで、数メートル先のものが瞬時に死ぬことだ。その結果は確実で、致命的であるにも関わらず、この引き金一つで人が死ぬのだという実感が乏しい。引き金を引いた後にも、肉弾戦の後のような精神の疲弊はない。だから銃では、自分のなかで、あっという間に正当防衛が、事故が、過失致死が成立する。
 ミサイルなら、ボタンを押すだけでさらに大量に殺戮できる。だが、ボタンを押す人間は、これから人を殺すという罪悪などほとんど感じずにボタンを押し、押した後さえそんな罪悪を感じずに済むに違いない。

 腕に抱いた赤ん坊は、寝入った途端に重くなる。死体もまた重いものだという。魂を持たない、物質的な重さだ。
 だからサラザンも、上にかぶさったハーゲン氏の身体を、なかなか退けることができないでいた。私にはハーゲン氏が、死んでなおサラザンを捕らえて離さないでいるように見えた。彼が再び動き出せばいい。もう一度サラザンを掴めばいい。だが彼はもう、ピクリともしなかった。

 To be continued...

 画像は、マルチェフスキ「死」。
  ヤチェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski, 1854-1929, Polish)

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