ロシア・リアリズム讃歌

 
 
 ロシア・リアリズムの巨匠と言えば、文句なくイリヤ・レーピン(Ilya Repin)の名が筆頭に挙がるだろう。

 そりゃもちろんどえらい画家だとは思う。舌を巻く写実、その写実が描き出す、人物や情景の内面模様の機微。
 でも実は私、レーピンのナマの絵を観て感動した経験、まだ一度もないんだ。……なんでかな。群像の描写だったり、主色が褐色だったりするのが、私の好みに合わないからかな。観てみたい絵はいくつかあるんだけれど……

 ウクライナのロシア屯田兵の家庭に生まれ、幼少より地元イコン画家の徒弟として修行、ウクライナ各地を旅してイコンを描き、その稼いだ金でサンクトペテルブルクのアカデミーに入学する。
 そこで、クラムスコイら「14の叛乱」に遭遇。のちにレーピンも、彼ら移動派の運動に参加する。
 金賞受賞で卒業し、パリに遊学。その際、最初の印象派展を目撃し、その光と色彩の表現に大いに衝撃を食らったが、エルミタージュ・コレクションの西欧古典の巨匠、特にレンブラントからの影響は消えがたく、自身はリアリズムの画風を堅持した、というのは有名な話。

 こういう画家には、写実に対する自負と愛着がある。写実を重んじる画家の手による、浅薄な妙技ではない、重厚な造形としての写実。対象を慈愛し、対象の本質を洞察し、対象との調和を享受する、そのような丹念な過程と結果としての写実。
 絵画の王道とはそうした写実であり、それによってのみ世界を画布に描き写すことができると思う、また、そうやって描き写された世界を美しいと思う、そのような、主義と嗜好とが一体となったようなセンスがある。

 新しい時代の新しい絵画に出会う。その新しさに素直に感銘する。けれども自分としては、新しい絵に傾倒しない。新しい絵を追求しない。なぜなら自分は、古典的な古い絵のほうに、より“美”を感じるからだ。
 後にアカデミー教授となったレーピンに師事した弟子たちが、レーピンの絵に生涯にわたる感化を受け、その絵を尊重・敬愛し続けつつも、新しいスタイルへと移っていったのと同じように、レーピンも、新しい絵画を認知しながら、従来からのスタイルを崩さなかった。

 自分と同じ出自の民衆を描き、社会の階層間の緊張や矛盾、さらに革命運動まで扱ったレーピン。が、十月革命については支持せず、革命を契機とするフィンランド独立によって、住居のあるクオッカラがフィンランド領になると、敢えてそのまま同地にとどまった。実質上の亡命だ。
 革命時、実に73歳の老齢だったレーピンは、この老齢を理由に、ソ連当局から派遣される代表団の、再三の帰国要請を断り続ける。右手が衰弱して動かず、経済的に逼迫していた老人が、名声と金銭援助を約束された故国への帰還を拒否する。これだけでも、ソ連が画家にとってどのような体制だったのかが分かる。

 1930年、86歳で死去。1932年、スターリンによってすべての文学・芸術団体が解散され、ソヴィエト社会主義リアリズムの時代が到来すると、レーピンはその模範的先駆として権威化され、アカデミーには彼の名が冠せられる。
 権力というものは、右も左も揃ってご都合主義だ。一体、このレーピン崇拝に、レーピン自身はどれだけの責任があるというのだろう。

 今度日本でレーピン展が開催されるから、行こかな。

 画像は、レーピン「ヴォルガの舟曳人夫」。
  イリヤ・レーピン(Ilya Repin, 1844-1930, Russian)
 他、左から、
  「トルコのスルタンへの手紙を書くサポロージュ・コサックたち」
  「待っていなかった」
  「畦道にて」
  「休息、妻ヴェーラ・レーピナの肖像」
  「イワン雷帝と皇子イワン」

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嵐の情念が生み出すものは

 

 世紀末ウィーンの画家と言うと、クリムト、シーレと並んで、ココシュカが挙げられる。
 オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka)。私はココシュカの絵は苦手な上に、よく分からない。
 
 クリムトが見出し、見放した、ウィーン画壇の“恐るべき子供”。時代も傾向も同じであるのに、ドイツ表現主義の運動には加わらず、ナチス台頭と第二次大戦を挟んで、チェコ、イギリス、スイスへと移り住んだ、寄る辺のない、孤立無援の画家。
 天分の才があったわけではない。が、思い込みが激しく、前兆を信じ、一家における自分の使命を信じ、ミューズへの愛を一途に信じた。
 人間の姿を魂まで掘り下げたという、うねりねじれる野蛮な表現。荒く激しい筆致だが、伸びやかさがなく神経質だ。苦悩と煩悶と混迷。精神を病んだからこの表現なのか、それとも、この表現だから精神を病んだのか。

 有名すぎるエピソードだが、肖像画を依頼された若いココシュカは、歳上の美しい作曲家マーラーの未亡人、アルマに求婚する。アルマは答えて、
「あなたが歴史に残る傑作を描いたら、そのとき妻になってあげる」
 情熱的な情事の関係。その頂点で制作された、二人の愛欲を描いた「風の花嫁」。気楽に眠る女の横で、深刻な顔で女の手を握る男。
 最初は明るい色彩で描かれていたこの絵は、不安と不信の色を塗り重ねていくたびに、暗い色彩へと変化する。あまりの厚塗りのために、絵具の剥げ落ちる懸念から、今では門外不出なのだという。

 ココシュカにとってアルマは運命の女だったが、芸術家が自分に夢中になって、自分のために悶え苦しみながら創作するのを、快く思うアルマにとっては、ココシュカは数多い恋人の一人。案の定、「あなたのあまりの情熱には疲れちゃうの」とかなんとか言い訳して、アルマはココシュカを拒むようになる。
 未練を断ち切れないココシュカは執拗にアルマを追い回すが、もはや彼女の情熱を取り戻すことができないと悟って絶望し、第一次大戦に志願して従軍。頭部に傷を負って帰郷したとき、アルマは建築家の新鋭グロピウスと再婚していた。

 さらにアルマが作家ヴェルフェルと再々婚したのを知ったココシュカは、アルマに似せて等身大の人形を作り、昼は街を連れ歩き、夜は添寝するようになる。酒の勢いで人形の首を切り落とすまで、この異様な関係が続くこと7年。
 その後まもなくココシュカは結婚するが、アルマへの想いは生涯変わらなかった。

 ……こんなふうなアルマとの強烈なエピソードが先に立ち、ココシュカの絵は私にはあまり印象に残らない。が、後年、アルマにこう評されたのだから、ココシュカは本望だろう。
「マーラーもグロピウスもヴェルフェルも、私には分からなかったけれど、ココシュカの絵は本当に素晴らしかった」

 画像は、ココシュカ「風の花嫁」。
  オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886-1980, Austrian)
 他、左から、
  「アルマ・マーラーの肖像」
  「牧神パン」
  「郷愁のプラハ」
  「赤い卵」
  「眠る女」

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黄金の画家

 
 
 オーストリアの首都ウィーンの画家として、まず最初に名が挙がるのがグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)であることは、多分間違いない。
 私は苦手なんだけどね。怖いし、気持ちが悪い。生理的に受けつけない。純然たる好みの問題だけれど……

 クリムトという画家は、画家の“人間”が見えてこない画家だ。人間としての影が薄い。
 保守的なウィーン画壇に反撥し、ウィーン分離派を結成する一方で、体制にも戦争にも無関心。生涯独身で、母と姉二人とともに慎ましく暮らし、けれどもモデル女たちを愛人として数十人の私生児を産ませたという好色家。社交界依頼の肖像画は描くけれども、社交界には出入りせず、自分を慕う弟子たちに惜しみない援助を与え、やがてその弟子たちが新しい芸術の世界へと去っていくのを寂寥の気持ちで見送った。自らデザインした絵描き服を着て、猫たちを抱く、額の禿げ上がった中年男……
 う~む、やっぱり人間が見えてこない。

 クリムト自身の言葉はこうだ。
「僕は自画像を描かない。絵画の対象としての自分には興味がない。来る日も来る日も、朝から晩まで絵を描いている、画家としての自分にしか価値はない。僕を知りたいなら、絵から理解するよりほかない」

 こんなクリムトの絵に私が感じるイメージは、「エロス(官能)」よりも「タナトス(死)」よりも、まず「世紀末ウィーン」だ。
 文化の爛熟を呈した帝政オーストリア最後の時代。すでに馥郁と糜爛し、やがては腐爛して崩れ去ってゆく予感を含んだ、だがそれを打ち消す豪奢さ、絢爛さをもってますます華々と学術・芸術を匂い咲かせるウィーン。足許が崩れ行こうとするその上で、人々が享楽のワルツを踊り続けるウィーン。あの若きヒトラーをも惹きつけた、稀有な帝都ウィーン。
 そんな時代に現われた、生粋のウィーン芸術家クリムト。
 クリムトの絵が放つとされる官能、耽美、頽廃、淫蕩、狂気、死、等々はすべて、世紀末ウィーンの反映であり、クリムト自身が世紀末ウィーン人として、愛すべきモデル女たちを通して、刹那の甘美と忘却の陶酔をもって、率直にそれらを描きつけたのだ。
 ……と思う。 

 父親が彫金師という出自。貧しいなかで、稼ぐために装飾工芸を手がけた、その眼と腕は職人的で、一方、描かれる女性像は、女好きのクリムトの趣味・嗜好を強烈に反映している。
 それを人々は、“ファム・ファタル(運命の女)”と呼んだ。恍惚の表情を浮かべる華麗な女たち。その華麗さを、金箔と、ビザンチン・モザイクの文様との装飾が強調する。奥行きのない、平面的な、パターン化されたアラベスク模様の衣装と背景のなかに埋もれる、あるいは浮かぶ、即物的な肉感を持った生々しい女たち。その赤裸々な官能性に、人々は狂喜した。

 けれども“ファム・ファタル”は、妖艶で空虚な世紀末ウィーンそのものだった。クリムトが脳梗塞で倒れ、スペイン風邪による肺炎で死去した、その同じ年、オーストリア=ハンガリー帝国もまた崩壊した。

 画像は、クリムト「接吻」。
  グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918, Austrian)
 他、左から、
  「金魚」
  「ダナエ」
  「人生は戦いなり(黄金の騎士)」
  「ひまわり」
  「水の城」

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死が最後にやってくる

 

 フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler)というと、山岳国スイスらしい明るくくっきりとした色使いと、動感のある人体表現、それにホドラー独特の、同種・同形のモティーフを対称的に配列・編成する「パラレリズム(parallelism 対比・並置主義)」の手法によって表わされる、観る側に執拗に迫り来る幾何学的な人物群。
 本来、修辞法の対句か何かであるこのパラレリズムを、絵画に用いると、こんなにも不気味な表現となる。

 人物たちは一様にヌード、あるいはシンプルなドレープ衣装をまとっている。それらが一列にあるいは輪になって並び、舞踏のような、儀式のような、大仰なポーズを取っている。
 こうすることで人物たちは、個を越えた類型となる。抽象的象徴的テーマの人格化の群像として、そのテーマを強調する。……よくもまあ、こんな表現の仕方を、発想できたもんだ。

 色彩は明るいのだが、肌と衣装の布との色とが画面を支配していて、概ね白と水色と肌色という中間色に満たされている。濃い色と言えば、髪の黒、植物の緑や空の青、たまにそれらに合わせた濃い衣装。
 もちろんこれらの色彩は、自然を逸脱してはいない。けれども実際には、こんな色彩は自然のシーンのなかに見出せるものではない。だから、ホドラーの描く世界は天上的に見える。天上の明るい光と一緒に、天上の音楽もまた降り注いでいるように思える。
 これが強烈な色彩に感じられるのは、単純に不思議だ。

 ホドラーはスイスの首都ベルンの生まれ。極貧の家庭のなか、両親や他の弟妹すべてを相次いで結核で亡くしていく。
 この経験が彼に、運命としての“死”の観念を刻み込んだことは、間違いない。一人、また一人と死んでいく、その繰り返しの死が提示する観念は、おそらく強烈で逃れがたく、拒んでもなおつきまとう。夜の眠りさえ死と見紛う。

 一見明るく天上的なホドラーの絵だが、暗い死の不安の影もまた、そこはかとなく漂っている。ただ、その死のイメージが酔ったような、センチメンタルなものではないのは、ホドラーにとって、死とは人生の自然な関心事だったからだ。

 義父から最初の絵の手ほどきを受けた後、職人画家のもとへ徒弟に出されるが、やがて無一文のまま、単身、歩いてジュネーヴへと出奔。美術館で模写に励んでいるところを、画家バルテルミ・メン(Barthelemy Menn)に見出され、苦学して美術学校で学ぶ。
 バーゼル旅行の際、かのムイシュキン公爵に「あの絵は人に信仰を失わせる」と言わしめた、ハンス・ホルバインの「墓のなかの死せるキリスト」にショックを受け、死というテーマに立ち戻る。
 スペイン・マドリッドで明るく力強い画風を身につけて、帰国。「風紀紊乱」を理由にサロンを断られた寓意画の大作「夜」で脚光を浴び、以降、象徴主義の画家として活躍、ウィーン分離派にも参加する。

 モデルとの結婚・離婚を何度も繰り返していたが、50歳を過ぎて、20歳下のヴァランティーヌと恋に落ちる。が、やはり死は、貞淑な妻のように彼を離れず、やがてヴァランティーヌを癌で亡くす。
 さすがに打ちのめされたホドラーは、自分とヴァランティーヌとの内省的な肖像へと閉じこもり、やがて健康を損ねて自殺を思いつつ、死んでいく。

 画像は、ホドラー「選ばれし者」。
  フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler 1853-1918, Swiss)
 他、左から、
  「夜」
  「生に疲れた人々」
  「病床のヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル」
  「ジュネーヴ湖」
  「月光のなかのアイガー、メンヒ、ユングフラウ」

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魔の国境越え、再び(続々々)

 
「だがあの婆さんが正しい。コーペルまで行けばバスがある。よし、フェリーで行くよ!」
 
 日曜の、初夏の陽気に輝く洒落た港町トリエステを、港沿いに、旧市街にあるはずのツーリスト・インフォメーション目指しててくてく歩く。車が来ないくせに、赤信号だからと横断歩道を渡らずに待っている、ツアーの老人の一団に、相棒が日本語の罵言を呟く。
「お前ら日本人か? トルシエに学べ!」
 信号無視してさっさと渡る東洋人たちに、老人団が失笑しながらブーブー言う。

 が、トリエステはやっぱり私たちには大きすぎる。インフォメーションのためのインフォメーションが必要だよ。

 ようやく見つけたインフォメーションで、じりじりと順番を待ち、さあ、フェリーでコーペルまで行きたい、と言うと、受付嬢は、
「残念ですが、日曜日はスロヴェニア行きのフェリーはすべて運休ですわ」
 ……マンマ・ミーア! やっぱりね。

「じゃあ、公共機関でスロヴェニアに行く方法は一切ないってわけ?」
「そういうことね、日曜日ですもの」
「どうやったら僕たち、コーペルまで行けますか?」
「タクシーで行きなさい」
「ローカルバスなら、どこまで行ける?」
「そうね、国境のすぐそばのムッジャまで行けるわ。そこで何とかすることね」
 この、何とかする、という言葉にはもちろん、タクシーを拾う、という含意があったのだろうけれど、相棒という奴は、公共機関以外は使わない。

「よし、決めた! バスでムッジャまで行って、そこから歩いて国境を越えて、コーペルまで行こう。大丈夫、フィラッハからポドコレンほどじゃないよ!」

 ああ、私のお母さん。私の相棒は普段から、無茶して徒歩でばかり国境越えしてきたものだから、今度も神さまが、先に気を回して、歩いて国境を越える状況を作ってくれたの。

 To be continued...

 画像は、ムッジャ、港近く。

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