ノルウェー風景画の先駆

 

 冷たく澄んだ、稀薄な光と大気の北欧のなかで、ノルウェーはひときわ北欧らしい。ノルディック・カラーは、本当はノルウェー色。……私の勝手なイメージでは。
 それはノルウェーの海のせいかも知れないし、フィヨルドのせいかも知れない。グリーグのピアノのせいかも知れない。ノルウェーは、森というよりも海のイメージ。
 で、もし一国だけしか訪れることができないとしたら、私はノルウェーに行ってみたい。

 ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール(Johann Christian Clausen Dahl)は、ノルウェー風景画の創始者と言われる。当時のドイツ・ロマン派の中心地、ドレスデンで学び、ドイツ・ロマン派の鬼才フリードリヒから多大な影響を受けた。ダールの初期の風景画には、フリードリヒを思わせる幽寂な雰囲気と、ロマン主義に特有の動感が目立つ。
 14歳上のフリードリヒとは、一時期には同居までした親しい仲。ドレスデンのアカデミーに風景画教授として迎えられたのは、フリードリヒではなくダールのほうだったけれど、それでも二人の親交は続いた。が、フリードリヒが、半ば妄想的に、妻とダールとの関係を疑ったことから、せっかくの二人の仲は疎遠となったらしい。

 その後ダールは故国ノルウェーに戻り、ノルウェー西部の風景に取材して、ノルウェー独自のモティーフを取り入れた風景画を描き始める。

 当時のノルウェーは、デンマークから分離、独立した直後。ノルウェーとしてのアイデンティティとは何か、という問題に直面していた。
 そんななか、祖国ノルウェーの自然の荘厳さ、崇高さに対する、感情あふれる風景画は、ノルウェーのイメージを確立し、19世紀ノルウェー絵画を新しく特徴づける民族主義(Nationalism)精神の先駆けとなった。
 また、美術的環境も著しく貧弱ななか、ノルウェー最初の美術協会を設立、ノルウェーにおける国民の芸術意識の向上や、芸術家の作品のための市場の発展などにも努めたという。立派。

 ダールの風景画には、はっとするような新鮮な雰囲気がある。それは多分、あまり眼にすることのない風景そのもののせいだと思う。岩がちの険しい峰々に、鏡のような水面、それらが透明な、冴え冴えとした光と大気に包まれ、ときには厳寒な雪に覆われている。ノルディック・カラーというほどの、原色に近い強い色味はないが、色調は概ねはっきりしていて、温かみも抑えられている。

 日本では、フリードリヒのオマケみたいに扱われるダール。いつか、故国ノルウェーまで出向いて、存分に観てみたい。

 画像は、J.C.C.ダール「ヴァルドレスのヤラ谷」。
  ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール
   (Johann Christian Clausen Dahl, 1788-1857, Norwegian)

 他、左から、
  「満月のドレスデン眺望」
  「羊飼いのいる夕景」
  「海辺の母子」
  「冬景色」
  「フィヨルド風景」

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五匹の子豚

 
 4月にテレビがぶっ壊れてしまった。じきにデジタル放送になるのが分かってるのに、バカ高いテレビなんて買う気にならない。で、使い捨てのつもりで、安物のテレビデオを買った。このビデオ機能は、主に坊の教育上のもの。
 で、世界を広げるために、良質の映画を観ることに決めた。週末は映画鑑賞会。暑がりの相棒と坊のためにクーラーをつけ、私はタオルケットにくるまって、映画を観る。

 隔週で相棒と図書館に出かけて、ビデオを借りる。ついでに相棒は、美術文庫を一冊借りる。継続は力なり。セザンヌやら、ルオーやらを、一人一人確実にクリアしていくから立派。
 私のほうは、ミステリーを一冊こっそり借りる。心を使わずに済むミステリーは、どんなに疲れてても、悄気てても読めるので、重宝する。

 借りてくるのは、相変わらずクリスティのミステリー。有名なものはほとんど読んだので、最近はまだ読んでいないなかから、タイトルで選ぶ。「なんとか殺人事件」とか「なんとかの謎」とかは後回し。
 直近で読んだのは、「ポケットにライ麦を」と「五匹の子豚」。いずれも、マザー・グースになぞらえたタイトルにそそられた。このうち、「五匹の子豚」は、これまで読んだなかで一番の傑作。

 カーラという若い女性から、彼女の両親にまつわる16年前の事件の再調査を依頼されるポアロ。彼女の母カロリンは、父アミアスを殺した容疑で有罪判決を受け、獄死。が、カロリンは死に際して、娘カーラに、無実を訴える遺書を残していた。
 事件に関わった弁護士や判事の話からは、カロリンがアミアスを殺したのは疑う余地がないと思われた。事件をめぐる関係者は五人。彼らが語る、五人五様の証言。真犯人だけが嘘を吐いている。事実に大きなズレはないが、心象はバラバラ。過去の記憶にもとづくこれら証言だけを手がかりに、ポアロは事件の真相にたどり着く。

 一切の無駄がなく、美しい構成。トリックのような手練手管もなく、シンプルでエレガント。読後に忘れがたい印象を残す犯人像。二人を殺した自分こそが、実はあのとき死んでしまっていたのだ、という真情の吐露。
 殺されたのが画家だったのも、面白かった。

 画像は、J.ブレット「北デヴォン、リー湾の絶壁の別荘のバルコニーからの眺め」。
  ジョン・ブレット(John Brett, 1831-1902, British)

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赤ちゃんが来た!(続)

 
 も少し大きくなると、赤ちゃんは、動くものを眼で追うようになる。坊が赤ちゃんのときにいろいろ実験したところ、赤ちゃんは、ただ絵を描いてあげただけじゃ反応しない。眼を描くと反応する。
 逆に、眼だけを二つ、グリグリと黒く塗り潰しただけの絵には、きちんと反応して、その黒丸を眼で追う。

 赤ちゃんが小っちゃな子供になって、自分でも絵を描くようになると、まず、グリグリと塗りたくるだけの時代、マルやらギザギザやらを並べる時代を経て、ようやく、人間の顔らしきものを描くようになる。紙いっぱいに顔を描き、眼らしきものを描く。
 さらに進化すると、顔から直接、左右に手、下に足、(上には髪の毛)が生えてくる。この、顔から直接に手足の生えた、インベーダーのような絵は、ホントに傑作!

 また、グリグリと黒丸を塗り潰して、小っちゃな子供に「これ、何に見える?」と尋ねると、子供は、ジーッと見つめたあげくに、思いがけない答えを返してくる。うちの坊の場合は、「お寿司!」、「メロン!」、「ラーメン!」などなどと、答えてたっけ。

 いつでも触らせてあげる、と言ってもらえたので、三ヶ月後くらいに、赤ちゃんらしくなった時期に、また行くことにする。わーい、赤ちゃん。

 画像は、クリムト「赤ん坊」。
  グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918, Austrian)

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赤ちゃんが来た!

 
 相棒は常々、子供は赤ちゃんよりも、も少し知力がついた頃の幼児のほうが、人間らしくて可愛い、と言う。が、私は断然、赤ちゃんのほうが可愛い。なんで赤ちゃんて、こんなに可愛いかなー。
 正でも負でもなく、罪がないという意味で無垢だから、云々、いろんな理由があるんだろうけど、理由には興味がない。赤ちゃんは小っちゃくて丸くて柔らかくて、頭がでっかくて足が短いから、可愛いのダ。可愛くなくちゃ、世話なんてできやしないもんね。

 さて、弟に赤ちゃんが生まれた。これで私もとうとう、正真正銘のオバサンになっちゃった。
 新生児に触れる機会なんて滅多にない。で、出不精で対人恐怖症にも関わらず、赤ちゃんの魅力に抗うことができなくて、雨のなか、坊と一緒に、電車とバスを延々乗り継いで、わざわざ義妹の実家まで出向いて、散々抱っこしてきた。
 
 ホヤホヤの赤ちゃんて、まるでイモ虫。大人の手の平にちょうど乗っかるくらいの小さな真ん丸が二つ(=頭とお尻)があって、短い手と足とがニュッっと生えている。小っちゃいのに、眼や鼻や口や耳はもちろん、睫毛も眉毛も、手や足の指も、その爪の一つ一つまで、イッチョマエに全部揃ってるから不思議。
 赤ちゃんは、手に何かを持ってくと、小っちゃな指でムギュッとつかむ。口に持ってくと、唇をすぼめてチュッチュと吸う。足の裏をこちょばすと、ニョッと引っ込める。ぎこちなく反応するから、面白い。認識なしに、ただ反応しかしないんだけれど。

 To be continued...

 画像は、ノース「沈思」。
  エリザベス・ノース(Elizabeth Nourse, 1860-1938, American)

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マクトゥーブ(続)

 
 「内部社会」には、いくつかの共通した特徴がある。

 「内部社会」は、一般社会の内部に、社会に模して、社会から閉鎖する形で、形成される。それぞれ、その存在を正当化する独自の「原理」を持ち、その「原理」故に、構成員にとって、「内部社会」は一般社会の上位に位置するものとなる。また、「原理」は「内部社会」の最高位の「知」となる。社会のあらゆる「知」はその手段と見做され、また、各構成員の「知」も、それ以上となるのを妨げられる。「原理」の本質は不動であり、しかも閉鎖系であるため、「内部社会」は自浄機能を持たない。
 「原理」それ自体には拡大力、浸透力がないため、構成員が「内部社会」の担い手となって、外つまり一般社会に向かって、「原理」の拡大、浸透を努める。他方、構成員は、一般社会ではなく、「内部社会」のなかで、自己を実現し、人間関係を築こうとする。「原理」を理解しない社会や人間を過小評価し、あるいは攻撃、排除する。

 イメージとしては、閉鎖的で排他的、幾分洗脳的な、組織や集団、といったところ。

 ところで、「内部社会」にハマる人々にもいくつかの共通した特徴がある。

 まず、彼らには「キズ」がある。と言うか、「キズ」があるのだと思い込む。そして、その「キズ」をタブー視し、客観化するのを避けるようになる。
 彼らにとって、「キズ」は自分の「知」(分析や認識)が及ばない領域となる。彼らは自分のなかに、「非自由」の領域を抱え込む。が、一方で、一般社会にも同じ「非自由」が存在し、そこではそれが常に「知」に曝されているのを感知する。
 彼らは、自分の内にある「非自由」をそっとしておくために、一般社会から自分自身を囲う。その囲いのなかでだけ、自分が「自由」でいられるのだと思い込む。そして、絶えず自分と相談しつつ、その囲いを広げたり狭めたりする。
 
 「内部社会」は一般に、「原理」そのものを「知」(分析や認識)の対象とはしない。その意味で「内部社会」には、「知」を及ぼさずに済ます領域が存在する。 
 そこから、「内部社会」の「原理」が、自分のなかの「非自由」を克服したり、庇護したり、または癒したり、忘れさせたりしてくれる、と感じると、彼らはその「内部社会」に共感するかも知れない。また、その「内部社会」が、「非自由」を抱える一般社会を代替する、と感じると、その「内部社会」に足を踏み入れるかも知れない。
 そして、その「内部社会」のなかでなら、「自由」に生きることができるかも知れない、と感じると、彼らは「内部社会」のなかで、あたかもそれを社会そのもののように見做して、生きるようになるかも知れない。そうなると、「内部社会」それ自体の本質から、彼らは「内部社会」にハマってしまうだろう。

 やっぱり、「人格障害」の問題にぶち当たったことには意味があったらしい。が、もうこれを最後に本当に、この問題には時間を割くのをやめることにする。
 いざ、自由へ。

 画像は、ドラクロワ「狂女」。
  ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix, 1798-1863, French)

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