ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

神はなぜ生贄を要求するのか?

2019-08-21 09:01:07 | 精神世界
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 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
8/26(月)  10:00~15:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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昨日は映画「天気の子」を観て、「思考は現実化する」について改めて考えさせられたことを書きました。
でももう1つ、どうしても書いておきたいことがあるので、今日も映画の話の続きです。
主人公の帆高少年(青年と呼ぶのがいいのか、少年でいいのかびみょーな16歳ですが・・ ここでは少年とさせていただきます)を東京で拾ってくれて、飯付事務所に泊まるということで良いのなら雇ってやる、と言った須賀は、都市伝説を扱う雑誌の外部ライターでした。
たまたま帆高少年が入社した月は「天気」についての都市伝説について書くことになっていた月でした。
それで須賀は帆高に
「なんでもいいから街に出て天気に関するいろんな都市伝説を集めろ」
と言います。
それによって帆高は「100%晴れ女」の陽菜と再会することにもなるのですが・・。



その取材の一環で、帆高はあるお寺を訪ねます。
お寺には天井画として龍の絵があり、昔から龍は雨ふらしの神、晴れ女は各村に1人は必ず居た巫女だった、という話をしてくれます。
そのとき住職が晴れ女について、
「彼女たちはほんとうにすごい高い確率で晴れにすることができた。しかし、彼女たちには悲しい末期が待っておったのじゃ。彼女たちは人柱として捧げられた」
と話します。
これは新海監督自らの原案のあくまでも“作り話”ですからね。
ほんとうにそういうことがあったわけではないでしょう。
でも、少なからず似たような伝説はあったと私は思います。
お天気を晴れにするかどうか、ということだけに限らず、あらゆる面において人間の願いを叶えるためには常に生贄が必要だった、ときにはそれが人身御供だった、という話は聖書のなかにもよく出てきます。



これが私には聖書にどうしてもなじめなかった理由の大きな1つでもあります。
「神は優しい父のような存在だ」
と言いながらも、やたらと捧げものとして生贄の羊やら動物たちを求めている描写に出くわします。
そしてうろ覚えですが、敬虔な信者だった(つまり、何にも悪くない)ヤコブだかイサクだか何かに対してはついに
「ならば息子を捧げることができるか」
とその者の信心深さを確かめるためだけに人身御供を求めています。
同じ一件だったかどうかさえわかりませんが、オーラソーマのB99「大天使ザドキエル」は慈悲の天使として、神の言いつけどおり我が息子を差し出した者に対し、ギリギリのところで
「もう結構です。息子さんを生贄にするのはおやめなさい。私から神にお願いしておきます」
と言ってやめさせた天使じゃなかったかなぁ。
こういう逸話を聞くと、つい私たち人間は「ほっ、よかった。ザドキエルってば優しい」と思ってしまいがちですが、これは神の眼から見たらものすごい反逆であって、優しいとかなんとかそんなレベルで片づけてよい話ではないはずですよね・・
この逸話はザドキエルの口を借りる形にするしか鉾の納め先がなかった神の計略でしょうか・・



聖書では「全能の神」という意味は、「なんでもできちゃう神」という意味ではありません。
神は不合理なことはしないし、自らの力をむやみに見せつけるようなこともしないし、罪を犯した者に対しては必ず償わなくてはならないのでその代償を求める、という意味のことが記されていたと思います。
そしてそれが理不尽かどうかは私たち人間の眼から見るジャッジであって、神の眼から見たらそれは何にも理不尽なことではないのだ、と言われます。
特に
「人間のジャッジでは理不尽に見えることでも神の眼から見たらそれでつり合いがとれているのだ」
ということについては、それを言っちゃあおしめぇよ、という寅さんのセリフをつい吐き出したくなりますわねぇ、と思っていました。
だって、私たちごとき人間のオツムでは及びもつかぬほどのもっと広く大きい視野から見たらこの生贄はちゃんと折り合いのついた正しい行為なのだよ、それは君たち人間のオツムじゃわからなくてしょうがないのよ、と言われたら、納得できないまま、ふぅん、そんなものですか・・としか言いようがないじゃないですか。
ひょっとすると神って単純なのかもしれない。
”人の心”とかそんなものはおかまいなしに、ただただこの「宇宙」というものを成立させつづけるためにはバランスが必要なので、そのためなら人を生贄に求めることもあるし戦争もまた致し方ない、という意識で居るだけなのかもしれない、と思ったりもします。
私はずっとそういうぶすぶすとくすぶり続ける思いを抱いてきました。
そしてこの映画を観たとき、改めてその思いが湧いてきました。
「どうして村人のために祈った晴れ女が神に供されなくてはいけないのか」
と。
そして実際に陽菜の身にも似たようなことが起こり始めるわけです。



もし、聖書の言っている意味が、
「キリストが現れるそれよりもっと以前には確かに動物や人間の生贄が行われていた。しかし、それは神が要求したわけではない。
神は自らの子どもと呼ぶほどに溺愛していたキリストを犠牲として捧げることによって後々の人類のすべてにおいての犠牲はもうこれ以上払わなくても良い、ということにしたのだ」
ということであれば、現代においてもまだ古い風習が残っているようなところではいまだ人身御供が行われていることについてどう説明がつくのだろう?と思います。
それは悪魔(サタン)のなせる業?
それは人間が神の意志に反して勝手にやっていること?
なんだか都合が悪くなると「それは神のせいじゃないから」と逃げられているような気がしなくもないです。
伝統や風習が生き続けるにはそれなりの理由があると思います。
聖書が世界中の99%の土地にまで普及したと豪語するなら、どうして間違った常識が残るのでしょう?
それが不思議でたまりません。
これもまた集団心理の潜在意識奥底に根強くあるものは外側の世界で実現してしまう、ということなのでしょうか。



私には、時々神が「人型」をしたような存在として、私たちの「父」として扱われるとそこがよりわかりにくくなってしまうのだ、としか思えません。
だって人なら人らしい心をそこに求めてしまうから。
けれども、この世に最初に生まれたものは何かしらの有機体が結合したことによる「意識」。
それが私たちが「神」と呼ぶもの。
その「意識」が、ある特定の方向性をもったときに現実化する、という程度に「神」のことを思っておいたほうが腑に落ちるなぁ、と思うのです。
そしてどういうときに特定の方向性をもつのか、と言ったら、この「世界」がバランスを保って存在し続けるためにはどちらかに極端にブレが起こったら、自然に是正が起こるのだ、というぐらいに思ったほうが説明がつく、と思ってしまいます。
そうなると神は拝むもへったくれもない存在になってしまいますがね。
いずれにしても、「天気の子」が再びその問題を考えさせるきっかけを与えてくれたなぁ、とは思ったのでした。





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