ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

水辺の生活

2012-08-22 09:11:00 | まち歩き

愛知県豊田市足助町に行ってまいりました。

ここは香嵐渓という秋になると紅葉が非常に有名なところでして、ライトアップもされますので、夜遅くまで人出が絶えません。

しかし、夏場はそんなに人が出ているわけではないと思っていました。

しかし、甘かった・・

川は芋の子を洗うこんな状態。ほれ。Photo

川辺では親たちがバーベキューをやっているし、川で水遊びをしている子供たちのすぐ横で鮎釣りのおじさんが黙って竿を構えているし。

そりゃあもう大騒ぎさ。

ここは町ごと古い町並みを保存するという条例がありますので、とても雰囲気のあるお店が多いんです。

ほら、これが洋食屋さん。Photo_2

言われなければ、せいぜいカフェかなぁ、って感じでしょ。

そしてこれは本屋さん。Photo_3

これも言われなければ、酒屋さんかなぁ、って感じ。

商店街をぶらぶらと散歩して、帰り道は、もっと川辺を歩いてみようと、道路の下に降りました。

自分ちの裏木戸を開け、石だたみの階段を5段ほどトントンと下りるとそこは川、なぁ~んて生活いいですねぇ。

うらやましいわ。

誰でも通っていい道ではあるけれど、観光客は誰もここまで川辺の道を歩かないから、まるでプライベートビーチですものね。


やっぱり川辺って風が涼しいし。

こういう風景大好き。

Photo_4

どこか目的があって、それを見たい、という観光の旅もいいけれど、何の目的もなくぶらぶらとその町の人たちの生活の場のようなところを散策するほうが私は好きだな。

ずんずん歩いていくと、時折、地元の小学生と思われる男の子があちこちで竿を垂れています。

学校帰りなんでしょうね。

ランドセルを背負ったまま。

ということは、毎日竿を持ったまま、登校してるのかぁ?

そんな様子を見ていて、やっぱり家のそばに水がある生活っていうのはいいなぁ、と思いました。

私は小さい頃から地元にしては繁華街の中心で育ちましたので、まったく近所に川や海はありません。

窓をあけていると商店街にスピーカーから流している音楽がうるさいので窓もあけていられませんでした。

遊ぶ、というと、同じ商店街のなかに住む同級生の家に行ったり、相手が来たり、という家ナカ派でしたね。

でも、家を一歩出てすぐそばの身近に川があるとか海があるとかの生活というのは小学生くらいの児童にとってとても豊かなものではないだろうか、と思えました。

水があるということはそこに何らかの命がある、ということ。

それをつかまえたり、ときには悪戯に命を扱うことがあっても、それでも子どもたちはそこからいろんなことを学ぶでしょう。

水のなかに棲む生き物たちの身体の構造、繁殖の仕方、ときにはそれを口に入れてみたり、つかまえてすぐに放ったりしながら、命の尊さというものを理解していくに違いありません。

それは、親が教えて教えられる、というものではないですよね。

自分の肌でわかっていく、ということが大切な命の学校だという気がします。

そして時にはそんな恵をいっぱいくれる川や海が荒れ狂って、自分達の家や生活をおびやかす危険があるものだったり、実際に川や海で自分が溺れかかるようなあぶない目にあったりして、決して水をなめちゃいけないんだ、ということをまた子どもたちは学んでいくのでしょう。

そのためには、1度や2度あぶない目をするのも仕方がないんだ、とまでは乱暴なことは言いませんが、生きていくにあたって本来人間のほうが自然のなかにそれを破壊するような家を建て侵入させてもらっているのだから、そのありのままの自然のなかで生きていこうとすることは気をつけなければいけないことが潜んでいるのは当たり前だ、という気構えで生活しなくてはいけませんもんね。

子どもを思うがゆえにあまりに「川には近づくな。」とか言うのも考えものだ、と思います。

そして私なぞは、たまたまいつも一緒に良く遊ぶ友達に、「今日はダメ。」と断られるともう手持ち無沙汰になってしまって、家でひとり、今日の日曜日は何をして過ごせばいいのぉ、つまんなぁい、とテレビを見てごろごろしているだけでしたが(親は日曜日も仕事でしたから)、学校帰り、ひとりで無言で川に竿を垂れる少年を見ていて、(あぁ、この辺の子どもたちにとっては、時には一人遊びっていうのも当たり前なのかもしれないなぁ。)と思いました。

っていうか、絶対的に1人の時間っていうのも大切ということを幼い頃からわかって育つのかもしれない。

じっと川面をみつめ、(魚いるかな・・)(このエサで何か魚ひっかかるかな・・)と考えている時間というものは、とてつもなく大事な時間のような気がします。

そういう時間もあって、友達とわいわいがやがや一緒に遊ぶ時間もあって、彼らは精神のバランスがとれるようになっているのではないでしょうか。

環境が人を創るっていうのはこういうことかぁ、なんてことをぼんやりと考えながら私はゆるゆると歩き続けました。


私のように繁華街の商売やっている親の元で育つと、すべては周りの大人たちが与えてくれるものから学びを受け取りました。

自然が教えてくれるもの、ということはほとんどありませんでした。

だからかなぁ。

高校生のとき、台風で一度登校してから午前中で学校が臨時休校となり、みんな急いで家へ帰りなさい、と言われたことがあります。

突然臨時休校になったことが嬉しくて、ふつうならバス通学しているのですが、わざわざ台風の雨を感じたくて、友達と歩いて帰りました。


そして、長良橋の近くに差し掛かって川を見たら、すごい増水!

それがまた面白くて、友達と「ちょっと川に下りてみない?」と言って川べりで遊んでいました。

すると、見回りの先生に見つかって、「こらー! 寄り道せずにさっさと帰れって言っただろうが!」とこっぴどく叱られ、ひゃあ~と逃げ帰りました。

でもなんだかすごくわくわくどきどきする体験でした。

私は台風のときにわざと動物園に行く、というのも趣味(?)ですが、それは自分がふだん、繁華街で育って自然の脅威を知らないからなのかなぁ、と思います。(のちに、作家の村上春樹さんがやっぱり台風のときに動物園に行くのが大好きで、それを短いストーリーとして発表されているのを読み、同胞がいた!と嬉しくなったものです。)


水辺で生活する、というだけでとても豊かな学びが毎日ありそうだなぁ、川でも海でも山のなかのせせらぎでもいいから、水が近くにあり、何か人間以外の生物が身近にいる、ということを毎日感じながら生活するのが人間らしいんではないか、なぁ~んてことをぶらぶらとよその町を散策して思ったのでした。





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