いや~、大変な豪雨でしたね。特に岡崎の方、一宮の方、床上浸水やら床下浸水やら被害にあわれた方、心よりお悔やみ申し上げます。
私も、以前の東海豪雨のとき、なめてかかって車で出かけ、帰る途中の西春のへんで(あのとき、一番被害が大きかったあたりです。)立ち往生してしまい、
しばらくしてから事なきを得たのですが、そのときにはこのまま車のなかで立ち往生してしまい、なかからもドアがあけられなくなったらどうしよう、という恐怖にかられました。なにせ、今の車というのは何でも電気系統でコントロールされているので、窓をあけるのも電気パネルが水に侵されればイチコロですからね。
そのとき以来私は、必ず車のなかにカナヅチを常備することにしました。
いざ、というときにはなかからもガラスをぶち破って出られるようにするためです。
私は、何が怖いかっって、「あのときもし○○さえあれば~」と恐怖をじわじわと感じながら死ぬのが一番こわい。
たとえば、この水難で言うならば、どんどん車のなかに水が浸水してきて、なかからは水圧でもうドアもあけられない。空気が吸える隙間がほんの数センチになっていく・・ 死ぬのかな・・ あ~、意識が薄れていく・・ ここにカナヅチさえあれば死なずに済んだのにな、と思いつつ死ぬのがこわい。考えただけでもこわい。あ~、こわい。
足にコンクリートをくくつけられた東京湾に沈められたって、「あ~、ここにはさみさえあれば、これを切って浮上できるのにな」と思って死ぬのはこわい。(しかし、どういう人生を歩めば、足にコンクリートをくくりつけられて東京湾に沈められるんだ、ちゅーの)
まあ、こんな怖い話はこれくらいにして、しかし、ひどい雨というのはほんとに人の気力を萎えさせる、って言うか、奪いますよね。
先日も、ランチを食べに会社からほんの5分の定食屋さんに出かけて食べ終えて外にでてみると大雨。
帰ってきたら、傘をさしていたのにもかかわらずびしょぬれでおまけにパンツの裾は絞れるくらいにぐしょぐしょで、ソックスも靴もずっくずく。
気持ち悪いったらありゃしない。
もうそれで、仕事に集中できやしません。
替えを買おうにも会社の近くにはそんな店はありませんし、とにかく降り続いているので、外出する気にもならないし。
こんなぐしょぐしょに濡れたままの服を着て、終業まで働かなくてはならないのかと思ったとたん、もう気力が萎えていました。
気力って簡単に萎えちゃうんだなあ、と思いつつ、ぼんやりと仕事をしていました。
こんなときにも出かける気持ちになれる人っていうのは、ひとつには濡れるのが同じ条件だとしたら、やはり体力に自信がある人のほうが強いでしょうね。
ぐしょぐしょに濡れそぼって、衣服が体に張り付いて体温を奪い、冷えても、なんのこれくらい、普段から鍛えてるから全然こたえないぜ、っていう人。
こう考えると、気力というのは体力にやはり左右されますよね。
逆に、体力の条件が同じ程度なら最後は気力の問題となるんでしょうけど。
でも、体力が人より劣っても、気力を振り絞ることのできる一番の対象は、「この人のためなら」って思うときです。たとえば、こども。母は強し、って言いますけれど、どんなに自分が疲れていたってこどもが熱をだしたりしたら、気力を振り絞ってあちこち駆けずり回れますもんね。
「この人のため」っていうのが何も現存している人でなくてもいいと思います。
「亡くなった恩師が草葉の陰から私を見ているかと思うと」なんていう場合もありますよね。
ルネッサンス期になぜあれほどの芸術性の高い作品が数多く生み出されたのかというと、当時の人々が「これは神のため」と信じていたからだ、という見方もあります。
「神のため」。
こういった信仰は何よりも強力でしょうね。だからこそ、昔から宗教戦争が絶えない、ともいえる。
しかし、先日読んだカバラの教えからすると、「神は自分のうちに内在する」わけですから「神のため」、というのは結局「自分のため」ということでもあるわけですね。
ただ、自分のため、と思ってみたり、つぶやいてみたりしてもあまり気力は出てこない気がします。明らかに実名をあげて、できるだけイメージしやすい対象で「○○のため」というのが、一番気力がふりしぼれそうです。
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