ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

”役割のわたし”に何を言われても傷つかない

2018-09-06 09:00:37 | 身辺雑事
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NEW! モニターさん募集

 「潜在意識書き換えカラーセラピー」
   近くリリース!

9月以降のモニターさんを募集します。
※モニター体験は1回限定でお願いいたします。

<潜在意識書き換えカラーセラピーって?>
ヒプノセラピー×カラーセラピーの融合、と思ってください。
自分の潜在意識を可視化できるカラーセラピーで自分の意識を確認しながら、過去、あるいは前世に戻って自分のインナーチャイルドを癒します。
ショックや辛い経験を新たな記憶に書き換え、戻ってきます。
自分にはショックや辛い経験なんてない、と思ってらっしゃるでも、私たちはある意味「生まれてきたことそのものがショック」ですから(羊水のなかで呼吸していたものをいきなり肺呼吸しなくてはならない、というだけでも人生で一大のトピックスです!)、必ずトラウマになっているようなことはあります。
よりよい未来を創りあげるために、ぜひ「潜在意識書き換えカラーセラピー」を体験ください。

120分  ¥25000   ⇒ モニター価格  ¥5000                   
 ※アンケートにお答えいただくことが条件となります。

 岐阜市 ヒーリングサロン 些々羅 にて(JR岐阜駅から徒歩12分、バスで5分)

 お申込みは、chakra@aura-soma.name

<9月の受付可能日時>
9月21日(金)   10:00~
  22日(土)             14:00~
  26日(水)   10:00~    14:00~
  27日(木)   10:00~    14:00~



<10月の受付可能日時>

10月 9日(火)  10:00~    14:00~
    10日(水)  10:00~    14:00~
11日(木)  10:00~    14:00~
    12日(金)  10:00~ 
13日(土)  10:00~    14:00~
    15日(月)  10:00~    14:00~
    16日(火)  10:00~    14:00~
17日(水)  10:00~    14:00~
    18日(木)  10:00~    14:00~
22日(月)  10:00~    14:00~
   23日(火)  10:00~    14:00~
24日(水)  10:00~    14:00~
   25日(木)  10:00~    14:00~
  26日(土)  10:00~   

    
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本を出版しました!

  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

ご購入はamaon.から → こちら




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朝起きてテレビをつけて、びっくりしました・・・!
今度は台風一過のあとの北海道を震度6強の地震!?
液状化してしまっている地区とか、倒壊した家屋に生き埋めになっているとか、もう辛くて見ていられなくて、でも、状況を把握したくて、みたいにせめぎあう気持ち・・
いったい日本はどうなってしまうんだろう、という暗雲たちこめる胸。
ともかく今は一刻も早い救助を祈るばかりです。



さてちょっと昨日は台風のことを書いたので、いったん途切れましたが、今日も、介護職の友人と話していての気づきです。
彼女の仕事の現場を聞いていてなかなかに壮絶だなぁ、と思いました。



単に忙しくて身体が疲れるとかクライアントさんとの対応で悩んだ、ということであればそれは変な言い方ですが、「ありがたい悩み」だったり、「悩み甲斐のある悩み」かもしれません。
けれど、たいていの職場に多くある話ですが、彼女の場合も、上司や同僚からによるパワハラ的なものでした。
ええっ! そんな言い方されることがあるの? とか、それは相手の人が自分の感情のはけ口にあなたを選んでいるってことね、それはひどすぎるわ・・と聞いている私の方が辛くなったり、ハラワタが煮えくりかえるようなものも多かったです。
そして、そういえば、私は“組織”で働かなくなって久しいからその感覚を忘れかけていたけれども、以前の会社でもそういうことはあったなぁ、なんてある意味懐かしく思い出したりもしました。
でも、そのさなかにいるときにはそれが傍から見ればかなりのレベルの「それ、パワハラだよ」ということにも気づかないんですね。
神経が麻痺しているのか、こんなことぐらいあるだろうと思っているのか、これを受け容れなくてはこの会社には居られなくなるのだから耐えるしかない、と思っているのか、どう思っていたのかもう自分でもよく思い出せません。
でも、私の場合は陰湿ないじめのようなものにあったことはなく、必ず味方もいてくれたので
「へん、いざとなったらこっちから喧嘩売ってやらぁ」
ぐらいの気概でいたからかもしれませんね。
いずれにしても、「企業戦士」とはよく言ったもんだ(もう、死語かしらん?)、なんだかんだ言っても組織のなかで働いている人のほうが人間関係では辛い思いをしているなぁ、と思い、
「毎日毎日そんな中でよく耐えてるよねぇ」
と感心しきりに言うと、彼女は意外にも
「あら、私ってね、そういうのには強いのよ。あんまり何とも思っていない」
と言いました。
それは強がりでもなんでもなさそうでした。
本当に芯からそう思ってる感じでした。



というのは、1つには彼女のお父様という方が私もよく存じ上げているのですが、かなり声を荒げるタイプの人でした。
人前だと多少は和らぎますが、それでも私のいるところで
「おい! お前、何やってんだぁ!」
と彼女を怒鳴るぐらいのことは平気でおっしゃってましたね。
そういうお父様をうまくかわすワザを生まれたときから身に着けてきた彼女にとっては、単に“声を荒げる人”ぐらいは、「弱い犬ほど吠える」ぐらいにしか思っていないようです。
否が応にも訓練を積んできているからそのくらいでは動揺しない、ということでしょうか。



これだけでも、私よりずっと穏やかで温厚な彼女が怒鳴られても、スゴまれても平気、と言ったことが意外でしたが、私は次に彼女が言ったことが印象に残りました。
「それにね、私はその場では『介護の○○さん』という役割の人よね。その“役割のわたし”に何を言われても傷つかない。」
そう彼女は言ったのでした。
それ以上突っ込んで、
「それはこういう意味に解釈していいのかな?」
とはもう聞きませんでしたが、私は勝手に、
「では逆に言えば、これが“素のわたし”という人格否定のようなことを言われたら傷つくわけだな」
と思いました。
きっと彼女が言いたかったのは、
「私に暴言を吐くこの人も“介護職 部長の○○さん”という役割のもとにこういうことを言ってるだけ。
その役割に対しては敬意を払っている部分もあるし、言われている内容的にはごもっとも、と思う部分もあるから、全然腹も立たないし、傷つかない。
そして、それを聞いている私も“介護職 の○○さん”。
お互い役割で話している。
そこには傷つく、というような感情は存在しない。ロールプレイング(役割演技)なのだから」
ということなのでしょう。
また、そのように自分に言い聞かせ、
「だから私は傷つかないし、傷つく必要もない」
と暗示をかけているのかもしれません。



私はむかし、今は亡きヌラ・クラフト女史の「レインボー・ウーマン」という講座を受けました。
その冒頭で女史は、
「私達はいくつもの役割で生きている。
母であるわたし、娘であるわたし、妻であるわたし、○○さんの奥さんという角度からみられるわたし、職場でのわたし・・・。
もっとあるかもしれません。
でも、女性のほうがその役割の種類が圧倒的に男性より多いと思います。
それらを脱ぎ捨てたただの○○がほんとうの私なのに。」
と言いました。
だから、いろんな仮面を脱ぎ捨てて楽になりましょう、ただの○○と向き合いましょう、というような講座だったと記憶しています。
そのときはひたすら役割を玉ねぎの皮をむくように脱ぎ捨てることに意義がある、という授業でした。
けれど、この日彼女と話していて思ったのは、
「私たちはいろんな役割の自分があり、そのときどきのTPOに応じてその顔を使い分けなければならないけれども、だからこそ、ある1つの役割を演じているときにはそれ以外の自分は守られているのだ」
ということでもあるな、ということです。
「これはすべての役割を取り去っても残る、ただそこに在るわたしではない。
だからその役割のことで責められても平気。直すべきところは是正して、反論できなくてもただ黙ってやりすごせばいい。だってしょせん役割の私のことを言ってるんだもん。私はそれでは傷つかない。」
というようにね。
脱ぎ捨てるばかりが必要なわけでもないな、と改めて思ったことでした。


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