ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

再び宗教について

2015-09-13 09:05:12 | 宗教
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 秋のぴーちゃん祭り

  踊るオーラソーマ レベル3」と「楽しいワークショップ2日間
10月9日(金曜)から14日(水曜)の連続6日で レベル3を、京都・伏見で開催いたします

ぴーちゃんが、生命の木・タロットなど古代の知恵を楽しく 判りやすく
お伝えしていきます。自分自身の叡智と繋がり、 みんなで生命の木になりましょう♪
ぴーちゃんはレベル3が教えたくってティーチャーになった、というくらいですから
熱がはいってますよ~
皆さん生命の木の名前と場所、なかなか覚えられませんよね。
ぴーちゃんなら踊って覚えられます。

受講料は144000円、再受講は半額の72000円
一日参加は25000円、再受講は、半額の12500円

特別なポイント♪ 6日間のワンプレートランチがついての価格です。
また遠方の方の宿泊の相談にも乗ります。
サロン最寄駅までの送迎も無料です。

レベル3の後は、ワークショップを開催します。
15日 些々羅の恵津子先生とぴーちゃんのコラボで アロマオイルで万能バームを作ります。

16日 ぴーちゃんと秋のリースを作ろう♪
ぴーちゃんが沖縄から持ってきてくれる木の実などを使います。

どちらもオーラソーマのスピリットが流れているワークショップです。

ワークシッョプ
1日参加-13000円(モーニング、おやつ、スペシャルランチ、材料費を含みます)
2日参加の場合は、22000円になりまぁす。
レベル③+ワークショップの場合も割引がありますので、個々にお問い合わせくださいね。

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何日にも渡って書いてきました中津川での3日間のセミナーのことですが、いよいよそれも今日が最後になるかな、と思います。
この3日間というもの、「宗教とはなんぞや?」から始まって、「宗教とはなんぞや?」で終わるというくらいそれについては結論はないものの、お腹いっぱいになるくらい感じさせていただきました。



それは9月7日の記事で書かせていただきました「信仰の根拠」でもおわかりのように一緒に車で同乗していった人とたまたま車のなかで「宗教ってなんだろうね?」ということに話を咲かせることになったのが発端で、帰りの車のなかでもやはりそんな話になったからです。
私がその方に、
「どうだった? 今回のセミナーは。」
と尋ねると、その方は、
「う~ん、今回は今、自分が抱えている問題があったから自分がその問題に取り組むことだけで精一杯で、真我に目覚めるとはどういうことかとか求道を人に薦めることとか何にもそのほかのことは考える余裕がなかった。」
とおっしゃったのです。
私はびっくりしました。
私ははじめから自分がどうあるべきかが見つかるきっかけになるかもと思ってこのセミナーに参加しました。
しかしこの人は自分の事しか考えることが出来なかったことを申し訳なさそうに言っている。
セミナーに出て感じることって自分のことしか考えなくって当たり前だと思っていた私とはえらい違いだわ、と思いました。
常に「他人に対して何が奉仕できるか」ということが頭のなかに在る人と私とでは、ハナから人間の出来が違うかもしれない、と自分を恥じ入りました。
そして、宗教の1つの本質である他人のために「功徳をほどこす」ということについてまた思いを馳せたのでした。



それは2日目のときだったと記憶しています。
3日間のうちに何度もあった、グループシェアの時間になりました。
そのときは、いろんな年代の人があえて混じる、という構成になって分かれました。
司会の方がおっしゃいました。
「では今のテーマは、いま疑問に思っていること、についてです。時間中に各グループでその結論まで出すようにしてください。」
とおっしゃいました。
やったーと私は思いました。
疑問に感じていることならいっぱいある。
それは言い方に気をつけないと批判に聞こえてしまうようなこともあるかもしれないけれども、ここの方がたなら右も左もわからずにただ楽しそう、というだけでこのセミナーに初めて参加した私の疑問についても優しく答えてくれるに違いない、と思ったから思い切っていろいろ聞いてみよう、と思いました。



しかし、
「じゃあまずは順番に自己紹介していきましょうか。」
と1人の方がおっしゃり、うん、そうしようということになって年齢の高い順から口を開いたとたんにそれは吹っ飛んでしまいました。
その方は自己紹介でとうとうと自分がいかに多くの人を求道の道に入るよう誘っているかということについてのお話をされたのです。
そしていかに功徳を積んでいくか、ということについて心を砕いているか、というお話をご自身の経験してこられたエピソードも交えて話されました。
もうそこだけで時間が来てしまうというほどの時間が経過しました。
年配の方っていったんまっすぐにそのことを突き詰めだすとそもそものテーマってなんだっけ?って吹っ飛んでしまう、というか、気にしないようなところがおありだと思い、私は途中で、
「ちょっと待って下さい。今のテーマは、これまでに感じた疑問についてグループで結論まで出す、という時間じゃないんですか。」
と横やりを入れようかとさえ思いました。
けれど皆さん黙って「うんうん」と引き込まれるようにして聞いておられるので、つい気おくれしてそれはやめました。



1回だけ「弥勒様が・・」とその方の発言から出てきたときがあったので、ここが唯一のチャンスかも!と思って、
「その弥勒様なんですが・・」
と割って入ろうとしました。
弥勒様とは、ここ「道徳会館」でお釈迦さまに変わってこれからの世、私たちの救世主だと言われている存在です。
私はそれが真実かどうかはどうでもいいし、ふぅん、そうですか、それならそういうことでもいいですよ、全然そこに異を唱える気持ちはないですよ、という程度の感覚でした。
けれど、お釈迦さまから弥勒様に変わることで、お釈迦さまと弥勒さまとでは何が違うのか、彼らの持っている特質の違い、違わないなら違わないでなんでお釈迦さまから弥勒様に変ったのかということを知りたいと思ったのでした。
けれど私が「弥勒様のことなんですが・・」と言ったとたん、その方はすぐに私の言葉を引き取り、
「それよ! 
お釈迦様から弥勒様の時代に変わったっていう事をみんな知らないでしょう。
だから教えてあげなくちゃ! そのためには求道が必要なのよ。」
とおっしゃったのです。
へ? と目が点になりました。
それはこの方が「これからの時代、今までとは何が違うのかを知らない人に説いて行かなくては」というより、「違う」ということそのものが重要なのだ、と言ってらっしゃるように聞こえたからでした。
そしてまた自分の話に戻って行かれました。
私の質問は宙に消えました。



もう1つ私にはこんな疑問もあったのです。
この会館の説法として「宗教とは教え。道とはただそこにあるもの。」と言うことなのですが、“ただそこにあるもの”やそれに対して日々自分が生かされていることに感謝の念がふつふつと湧いてきて祈りをささげたい気持ちになることもそりゃもちろんあるでしょう。
けれどその場合なら、毎日毎日決まった時間に“何か”対象物に対して頭を下げる、という礼拝をおこなうことはないように思います。
だって、”ただそこにあるもの”にどう礼拝の焦点を合わせていいかわかりませんから。
けれど今回3日間のセミナーでは毎日毎日決まった時間に現代の救世主である弥勒様の像がある仏堂で礼拝をしました。
言葉では「老ぼ様」(「ぼ」という字がIMEパッドを使っても出てきませんでした。「中」という字に似ているんですけれどね。「老ぼ様」とは「道徳会館」で宇宙の創造主のような存在を差して言います。)に一礼などというように、決して弥勒さまだけに礼拝しているわけではないんですが、巨大な弥勒像がまつられていますから、やっぱり気持ち的にはこれに向かって礼拝しているような気になりますわね。
私は、それまで「宗教なら“何か”を崇め祀ったりする、けれどそうでないならそれはない。」のかな、と思っていました。
ここ「道徳会館」ではでも、弥勒像に向かって礼拝をする。
礼拝をする、何かに対して頭を下げるということはそれに対する畏敬の念を起させるための行為ですよね。
”道”を説きながら、あっちこっちに大きな弥勒像があり、拝むのはそれに対してこそだ、というかのような設定となっている会館のつくりにも何か違和感を感じてきました。
弥勒様が現代における救世主ならそれはそれでいいんです。
でもそうなら、イエス・キリストを神の子としているキリスト教だって同じだし、モハメッドをメシアとしているイスラム教だって同じことじゃないでしょうか。
弥勒様を救世主として拝んで、「私たちはもっと大元の“道”をやっているから宗教ではない。」というのは道理が通らない、と感じてもいました。
イエス・キリストなら、そのあとにつづく全人類の原罪を背負ってむごたらしくも死んでくださったということがあるので、たとえ彼が神でもなんでもなく私たちと同じ人であっても「ありがたや」とつい頭を下げたくなる気持ちはわかります。
弥勒様には何をありがたいという気持ちが心底沸き起こってこの人たちは拝んでいるのだろう?
それが不思議でした。
そこがクリアにならないと「求道」の意味もよくわからないし(第一、私は「チャクラが開く儀式があるのよ。」の一言だけで何も深く知らないまま求道を受けてしまいました。)、よくわからなければそれが本当に素晴らしいものだと思って人にも求道をすすめ、功徳を積むことだってできないと思うんだけれど・・と思いました。



さて、オーラソーマでもシェアの時間となるとやたら自分だけものすごい時間を使っていつまでも話される方って時々みえます。
けれどそれをティーチャーも止めるようなことはあまりしません。
やはりそれは「必要なことが今、起こっている」という気持ちでみんな受け容れる、という心の持ちようになっているからでしょう。
このときも私はそう思うようにしよう、とあきらめました。
きっとこの方の話は私にとって必要なことが語られるんだ、もうどこまでも付きあっちゃえ、と開き直りました。



その方は自分がこれまでに自分の身内から始まっていかに求道を薦めてきたか、を語られました。
「だって1人に求道してもらうことが出来れば、それは7つお寺を建てたと同じことだって言うでしょ。
お金のある人は大きなお布施をしてお寺を建立されるのもいいし、私らのようにお金のない者はそうして求道者を増やすことによって功徳を積むしかないからねぇ。」
とおっしゃるのを聞いて、あぁ、そうなのか、と私はどうしてこの方がこれほど一生懸命に求道者を増やすことをされているのかの合点がいきました。



求道がほんとにすばらしいから、という気持ちだけで求道をすすめる人もいるでしょう。
この方のように求道を薦めることによってそれがイコール自分にとっても功徳を積んだことになるから、つまり平たく言えば自分が良いことをしたんだ!とすかっとして自分がより上の段階にいけるからという人もいらっしゃるでしょう。
自分がこの世で役割があると思うことは喜びに違いありません。
求道を薦めるという役割が自分にはあって、しかもそれで徳を積んだことになるならば一石二鳥だ、と素直にそこにまい進しようとする人がいるのもわかります。
実際に今回初日の沙盤で月慧師母があらわれ人の手を借りて砂に聖訓を書かれた文のなかにも何回も「今回の理楽笑塾に参加した人たちは先駆者として人々に伝える役割のある人たちだ」という意味のことがありました。
しかし、私はそう素直に「だったら私も一生懸命求道を人に薦めよう!」とは思えませんでした。
それはほかでもない、求道をした人だけが救われる、だからそれを知らない人には早く教えてあげなくちゃ!とは思っていないからです。
一部のキリスト教を曲解している人たちが「そのうちハルマゲドンが起きて、そのときに生き残る人と滅ぶ人がいる。生き残るためにはキリスト教に入信しなくてはならない。」という言い方をするように、末世思想で不安をあおるというやり方はもってのほかですが、「求道をした人だけが救われる」というニュアンスがここにもあるように感じました。
ここの方たちを好ましいと思う1つに、一度道徳会館の信者になったら究極の目的は求道者を増やすことだから!とそれを強烈にすすめている空気がみじんもないということがあります。
「エホバの証人」などではこつこつと各家庭を回って自分たちの教えを学ばないか、と言いますが、いったん「エホバの証人」になるとその家庭訪問を拒否することはまずできないという仲間内の空気があるように思います。
「自然にそれをもっともっとやりたい、という気持ちになるはず」というプレッシャーがかけられます。
それがイヤでした。
でもここの方たちにはまったくそれがない。
だから居心地がいい、と思っていました。
けれどやっぱり「求道をしないと!」とか「した人だけが」という選民思想みたいなものが根っこにはあるのかな、と思えてきました。



それに対して私は今回、何度もブログで書いてきているように非常に違和感を感じるのです。
それは私には「これっきゃない!」とオンリー1を信じる気持ちがないからです。
今回もこの「道徳会館」で「老ぼ様」と呼んでいるものは、キリスト教では「神」のことだし、エホバの証人では「エホバ」のことだし、無宗教の人にとってみたら単なる「宇宙の創造主」のことと全く同じだなぁ、と思いました。
だったら名づけ方こそそれぞれの団体で違うかもしれないけれど、みんな同じでいいじゃないか。「うちだけが正しい! 素晴らしい!」って声を張り上げなくても。
人はそれに見合うタイミングで必要なもの、その数々に出会っていく。
その中で気付いて行けばいい。
だからこの「道徳会館」の教えが唯一無二のものであって、求道しなくてはあなたの人生開けないよ!というような言い方はとてもできない。
もっと漠然と「あれはあれで確かに良いものだと思うよ。」という程度の言い方でしか薦められないことでしょう。
「道徳会館」の教えの言ってらっしゃることそのものには何の異を唱えることもありませんから。
でももし薦めた人が、「私は○○というものをやっているの。それとはどう違うの? それでもそれを受けたほうがいいの?」と言われたら、
「そう、あなたは○○に出会ったのね。では、それでいいんじゃない。もし、求道もさらに興味がある、っていうならお連れするけれども。」と言う程度の言い方になることでしょう。
そんな自分でいいとさえ思っているわけですが、そうしたらたいていの人は「ま、いいか・・」と思っちゃうでしょうね。
人には人のパワーに引っ張られるところがありますから。「どっちでもいいよ~」みたいに薦めていても誰もそのあとに続こうとは思わないでしょう。
で、それで求道者を作れなければ私は功徳を積めないわけでしょうか。
そんなはずはないですよね。
なにかわからないけれど違う方法で功徳を積む方法もあるはずです。(「そりゃああると思うよ。でもそれだと遠回りだよ。」とも言われたくないなぁ、と思います。功徳を積むことに遠回りも近道もないと思うからです。)
だけど宗教というものは、その宗派によっていろいろと具体的なカタチで「これをこうすると功徳を積んだことになるのだよ」という方法や手順がきっちりと固まっている。
そういうカタチが明確な功徳の積み方が好きな人にとっては、それが宗教の大きな意義の1つかもしれないな、と思いました。



私は自分が“死ぬほどの悩み”や“理不尽だと思えるような体の障害”に悩まされていないからか、そもそも大前提として、「自分の辛く苦しいこの現状を救ってくれるのが宗教だ」という宗教が嫌いです。
現世利益をうたうものが嫌いです。
それらは全部自分以外の何か別の存在に救ってもらうものではないと思っていますし、だからそれを餌のようにして勧誘する宗教も嫌いです。
第一、自分の辛く苦しい状況を救ってくれるものが宗教なら、もし本当にその状況が一掃されることがあったらその宗教は役目を終え、そこからもう離れてもいいということになりますよね。
そんな自分にとって都合のいいときだけ利用するものが宗教だなんてことはないはずでしょう。
信仰ってそんなものではないだろう、と思うし。
また自分が藁にもすがりたいと思うほどの“死ぬほどの悩み”や“理不尽だと思えるような体の障害”に悩まされるようになったら考えも変わるかもしれませんから大きな口は叩けませんけれどね。



では自分が苦しくて助けて欲しいのでなければ、人に奉仕する、つまり功徳を積むということで宗教にかかわっていくのか? というと、それぞれの宗教が自分のところの教義を広めることこそ功徳を積むという事なのだ、と言うならそういうことの片棒をかつぐのも何か違うような気がするな~というのが正直な気持ちです。



多くの人の話を聞いていると、たいていその方がその宗教に帰依することになるにはその方にとってのある“奇跡”的な出来事が介在しているのだな、ということに気付きました。
「こんな不思議なことがあったの。だからそれまでは私も半信半疑だったんだけれどそれ以来さすがに信じるようになったわ。」とか、
「こんなありえないことが起こった。もう誰が何と言おうと信じるしかない。」とか・・。
確かにそういうことが私の身に起こったら、私もそれを信じるようになるかもしれません。
でも“奇跡”と言うならば、何十億分の1の確率ですか? で、精子と卵子が出会って人間として生まれてきた、ということ自体がもう1番の奇跡であり、すでにそれを体験しちゃってるわけですし、私にとってはオーラソーマに出会って初めてフルボトルをそろえたとき、いきなり直立したままミカエルが割れた、ということが奇跡かな。それも羽根のカタチに。
だから言い方を変えればそれは奇跡でもなんでもなく、自分自身のなかに神がいる、と思えばそれさえ当たり前のことですから何が起こっても、「あぁ、そういうこともあるかもね」とあまり驚かないかもしれません。



では、もうおまえは「道徳会館」には行かないのか? と言われるとそれは私にもわかりません。
っていうか、それを今決める必要がないと思っています。
おっしゃっていることは逐一その通りだ、という良いお話が聞けますし、それはまさに「道徳」を説くようなものです。
だから彼らが「宗教ではない」というのとはまた違う意味で、私はこれまでここを「宗教ではない」と思ってきました。
だから軽い気持ちで、「自分の心の定め方などの良いお話が聞けるならそれでいいじゃん」という感じで参加していたのですが、そのままでいいと言われたらまた参加するときもあるかもしれません。
けれど究極の行き先はもっともっとここに帰依する気持ちが強くなって、人に求道をすすめることなんだよ、と言われたらやめるかもしれません。



いずれにしてもこの3日間の中津川でのセミナーの参加はとても有意義なものでした。
第一、これだけ何日にも渡って私がその“気付き”を書くことができたというだけでも、ものすごく大きな意味があったわけです。
オーラソーマに対することや親の店の継承などについての自分の気持ちを整理することもできましたし。
気付きとは心が動くこと。
すなわち「感動」。
感じて、心が動くこと。
ぱあっと心が開けて楽し~い、というだけの動きではなかったとしても、それは心がとても揺さぶられた感動であることには間違いない。
ですから数々の感動をくれたこの3日間のセミナーに心から感謝の気持ちです。






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