ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ビリチン

2019-09-08 09:01:53 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/16(月・祝)10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席 
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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心理学やセラピーではよく取り上げられることのある「依存」という問題について、ふと我が身のことで思い出したことがありました。
なんで思い出したか、っていうと、今私は「接触冷感」という敷きパッドを敷いて寝ているのですが、朝晩めっきり涼しくなってきて、この「接触冷感」が
(必要ないな・・ ちょっとひんやりしすぎるな・・)
と夢の中で感じながら寝るようになりました。
そしてこの寝ている間の「ひんやり感」ということで思い出したことがあったからです。



私は一人っ子で、両親ともに夜遅くまで仕事をしていましたので、当然、寝るのも一人部屋でひとりでした。
別にそのことを寂しいと思ったことはありません。
むしろ、友人の家に遊びに行って姉妹で2段ベッドだったり、勉強机が並んでいる光景を目にすると、
「うへぇ、あんなんで自分のペースが守れるのかな」
なんて思っていたくらいです。
そんな私が、寝るときに必ず肌身離せないものがありました。
それは表面がサテンのような布で出来ていた、薄い夏用の上掛けのようなものの古くなったものでした。
もうボロボロで、ところどころビリビリに破れていたところがあったので、私はそれを「ビリチン」と呼んでいました。
「ビリ」はビリビリに破れたところがある、というのから来ていたと思うのですが、「チン」はなんだったんだろう・・?
「ちりめん」の「チン」だったのか、人のことを愛称的に呼ぶとき、「やっちん」とか「たけちん」とか呼ぶことがあるように、擬人化したものだったのでしょうか・・。
そう、それほどに私はその布に愛着を感じていました。
それはただひたすらに「ひんやり」していたからです。
当時、「接触冷感」なんてものは売っていませんでしたからね。
子どもって体温高いじゃないですか。
おまけにいくら冬で寒くても、頭や頬は火照ったりしてひんやりしていたほうが気持ちが良いものです。
なので、私はこの布をいつも頬にあてがうようにして握りしめながら寝ていました。



そんなある日、小学校高学年に入ったころだったでしょうか、突然母親が、
「その布、もう捨てるよ」
と言ったのです。
私は、
「え? なんで?」
と驚いて聞き返しました。
「もう、ボロボロで捨て時だから」
と言います。
「ボロボロでもいいじゃん。別にほかのことに使うわけじゃないし。こうしてひんやりさえすれば事足りてるんだから」
と言うと、
「でも、もう汚いし」
と言います。
「じゃあ、洗えばいいじゃん」
とさらに反論しても、
「洗うほどでもない」
と取り合いません。
かくしてビリチンとはおさらばの時がやってきたのでした。



しかし、ふと今さらながらあの時のことを振り返ると、あれは私がビリチンという布に依存しすぎてしまい、あれがないと寝られない、という人間になっては困るから、ということで父が
「もう小学校も高学年になるんだから、いつまでも赤ちゃんのようにあんな布にしがみつかせていたらおかしいだろう。もうやめさせろ」
と言ったに違いない、と思うのです。
どうしてそう思うか、と言えば、確か
「じゃあ、今月末でもうやめるからね」
というように、期限を設けられた記憶があるからです。
カウントダウンのように。
執行猶予のように。
でもね、今でも思うのですが、小学校高学年になってひんやりとする布をいつも頬にくっつけて寝る習慣の何がそんなにいけないんでしょう?
では、中学生になったらさすがにやめるべきか?
高校生ならどうだ?
いくつになったって構わないじゃないか、と思います。
だってそんなの依存じゃないもん。
そりゃあまりにも長年使って来たから愛着はありましたよ。
でも、それだけのことだった。
だからおとなしく母の言うことに従って、すんなりやめて、それでも寝られたけれども、
(ビリチンがあったら冷たくて気持ちよくて、もっと快適なのになぁ)
とはずっとそれからも思っていました。



そして思えば、いくつもいくつもそのように私は自分のお気に入りのモノや習慣を親から無残に取り上げられてきたように思います。
電気をつけていないと寝られなかったのですが(それは恐かったのではなく、なんとなく明るいほうが当時は安らぎを感じたから。今は逆に真っ暗じゃないと寝られません)、それもある日突然打ち切られたような記憶があります。
まぁ、これは電気代ももったいないですからね・・ やめるにあたって文句はありませんが・・。
親としては一人っ子だから甘やかせてはいけない、甘えて独りよがりな子に育ってはいけない、というしつけや配慮だったのでしょうが、今になってみて思うのは全部、「取り上げる必要なんてなかったのに」と思うことばかりです。
必要がなかった、より一歩推し進めて、
「私って親に信頼されずに育ってきたんだな」
と少し悲しい思いを覚えたりさえします。
すべて、母はこのビリチンのときのように優しい嘘を通しました。
「単に汚くなったから」
というようにね。
でも、私ははっきりとした意図と目的を小さな子ども相手にも本当のことを言うべきだった、と思います。
「あのね、このままあなたがこの布がないと生きていけない、というほどになってしまってはいけないと思うから、ちょっとなくても大丈夫、っていう練習していこうか」
というように。
そうしたら私は
「え! そんなのなくったって大丈夫に決まってるじゃん。でも冷たいのが気持ちいいんだから、なんかほかにないの?」
と言ったかもしれませんし、
「そんな理由はいやだ!」
と反抗したかもしれません。
でも、少なくとも親は真っ向から私に本当のことで向き合うべきだった、と思います。



もし、そのまま使い続けたからといってそれで自分がとんでもない人間に育ってしまっていた、とはとうてい思えません。
よけいな過干渉だったなぁ、あれは、やめさせないほうが私はもっとのびのびとしていたろうに、と思うことばかりです。
親は親でよかれ、と思って手を出すことばかりなんでしょうけれども、たいていはもっと放置のほうが良いのになぁ、と思います。
と言うと、今は、「ネグレクトにならない良い感じの放置」というものをまたどこかへ学びに行こう、としちゃうんだろうなぁ、という気がします。
親が一生懸命学んで仕入れた知識で自分に向き合おうとする姿勢がわかるだけで子どもって息がつまるような思いをするときもありますよ。
難しいことですけれども、やっぱり親が自分自身を癒してどっしりと構えて、自分の内側から湧き上がった判断で話す、ただ居てあげることが1番良いと思うんですよね。




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