ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

この世は戦場へ行くようなもの

2019-03-04 09:01:16 | 精神世界
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  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

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先日、「はじめての透視リーディング」 まさよ:著 を改めて読み返していました。
そのなかで、自分のアカシックレコードにアクセスするというワークがあるのですが、それをやっていたとき、私にふっと
「私はほんとうはこの世に生まれてなんかきたくなかったんだ」
というメッセージがやってきました。
それは私自身からのものに違いありませんでした。
これまで私は、顕在意識では生まれてなんかきたくなかった、などと思ってみたこともなかったのでびっくりしてしまいました。
そしてなんだかものすごく寂しく、悲しくなってしまいました。
そして、チャネリングの練習をしようとしてただ寂しく悲しくなってしまうならこんなことはやめよう、とその言葉を断ち切るようにしてアクセスを解除しました。



しかし、どうしても寂寥感がぬぐえませんでした。
そこで、ここからは頭で、
「逆にいえば、私はこの世に生まれてなんかきたくもなかったのに事実、産まれてきた。つまり、一番の難関というか頑張りをもうここで見せたわけだ。あとはただリラックスして自分の好きなことだけをやればいいというように考えればいいのではないか」
と自分を奮い立たせようとしましたが、そういくら奮い立たせようとしても、ただただ「私はこの世に生まれてこない方が良かった」と思っていたという事実に打ちのめされてしまうのです。
それは「この世に生まれてこない方が良かった」と考えたほうが何もかも辻褄があうような気がするからでもありました。
すなわち、私は魂だけの存在であったあちらの世界でも優等生をやろうとしていたのか・・と思ったのです。
魂とは常に次元上昇、成長だけを目指している存在。
もう1つ成長するにはどうしてもまだ人間界を体験する必要がある、と思って、ほんとうは行きたくはなかったのだけれども、自分の成長のために無理して「行きたい!」「生まれていく!」と決めてやってきたのだ、と思った方が、今の私の志向性というか人間性をよく表しているな、と思ったのです。
青春時代を生きた高度成長時代という影響も大きいのかもしれませんが、どうしても私は
「頑張らなくちゃ!」とか、
「もっともっと自分に出来ることはないか」
と上を目指すクセが抜けません。
別にそれが悪いことでも何でもありませんから、“頑張って”「頑張らなくちゃ」をやめようとする必要もないとは思いますが、そこにどうしても「ほんとうの自分の気持ちを押し隠して無理をしている」部分もあるな、というのは薄々気づいているので、その折り合いをつけたいと思うのですが、それが魂だけの存在であったときからそういう性格だったのだ、と思えば納得もできます。
生徒会の役員を押し付けられて本当はそんなこと好きでもないのに、それを引きうけたほうが、たとえ困難があっても自分が成長できる、と思って嬉しそうなふりをしてまでも引き受ける性格。
「あなたはいかにもキャリアウーマンって感じで第一線でバリバリやる人だと思っていた」と言われたら、自分でもそれがカッコいいんだな、と言いきかせ、そう見せるように踏ん張ろうとする性格。
そんなものが全部、天から生まれ落ちる前から備わっていたものだとしたら、この世でもそういうふうに振る舞ってきて当たり前だと思えます。



私が自分の使命を「自己表現すること」だと思っているのも、それだけの気持ちでこの世にやってきたのだから、何かしらこの世に自分が生きた、ちゃんと成長したという爪痕を残したいからなのか、と思うとなんだか疲れることだよのぉ、と思ってしまいますし。



ほんとうは行きたくなかったのに自分の成長のために無理してそのときの世界よりずっと辛い世界を選んできたのだとしたら、それはまるで「戦場におもむく戦士」のような心境だったに違いありません。
わたし、可哀想だったなぁ、という気持ちになってしまい、どうしてもやはり胸のなかが悲しみの涙でたぷんたぷんと波打っているような感覚がぬぐえないのでした。



そして「あの世」のほうがずっとこの世よりラクでバラ色の世界だということがわかってしまったら、誰だってすぐにでもあの世へ行きたくなり、
「え? わたし、もう死ぬの? そりゃあ、バンバンザイ、嬉しいことこのうえないわ」
とあっさりと思われては困るので、私たちは肉体をもった瞬間にその肉のDNAに
“絶対的にこの世は素晴らしい”“この世でいつまでも肉体をもったまま楽しみたい”“死ぬのはいやだ”“この世にはいつまでも未練がある”というような信号をインプットされるのではないだろうか、とも思いました。



最近、以前よりずっと自己受容ができるようになって、
「私はありのままの私でいいんだ」
と思えるようになったと同時に、あんまり「何かを成し遂げたい」という欲望や使命感からも解放されてしまったような感じになってきたがゆえに、自分が勇ましい成長欲望を持ってこの世に生まれてきたのか、と思うと辛くて、もういいやん、とそのギャップに苛まされるような気がしてしまうのです。



ちょうどこの次の日、アニマルコミュニケーション講座があって、参加者の方にこの話をしていたら、
「そういう人、多いらしいですよ」
と言われて、またびっくりしました。
自分がこの世でなにか「生きづらい」思いを抱えている人が多いのだ、とは気付いていましたが、そういう人はみな、この世に頑張って戦場におもむくような決意をかかえて来た同胞たちなのだろうか・・



その夜ダーリンにまたこの話をしたら、
「なんか悲しくなっちゃってさ・・」
と言ったところで、
「そりゃあそうだろう。だから、そんなこと考えなくったっていいんだよ。何にも深く考えずに毎日生きていたほうがいいんだって」
と言いました。
何も考えずに毎日過ごす、ってことも私にしてみればまた地獄のような毎日のような気がするし、それもなぁ・・
それより私はダーリンが「ほんとうは私はこの世に生まれてきたいと思っていなかったんだ、と思ったら悲しくなってきちゃって」と言ったときに
「そりゃあそうだろう」
と寸暇を置かずに返してきたことが意外だったのでした。
どうして意外に感じたのかもわからないままに。
どうしてなんだろう?
私はダーリンの何も根本的にわかっていないのかもしれない。
全く人種が違う人を見るような、見知らぬ人を見るような面持ちでダーリンを見てしまったのでした。



それにしても、
「魂は常に成長だけを求めている」
ということをこれまではすんなりと受け容れてきました。
しかし、この日改めて、それはなんでだろう? と思ってしまいました。
「いやいや、私はもうこのへんでいいよ。そんなに成長、成長って騒がしいじゃないか」
という魂もいてもいいと思うんだけど。
猫も杓子も“魂”である限りは成長だけを目指すように神から信号をインプットされた存在だとしたら、それもまた操り人形のようで嫌だなぁ、と思うのでした。


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