久しぶりに会った友人と取りとめもない話に花が咲きました。
何年ぶりかな~
「へへ。なんだかあんまり久しぶりだから見つめるとちょっと恥ずかしいね。」なんてまるで恋人同士のようなことを言いながら、それでも話し始めるとその時間経過はどこへやら、昨日も会った人かのようになめらかに話が始まりました。
こういうときですね。
何だか意味もなくふふっ、って嬉しくなるのは。
友人ってこういうことなんだな~なんて。
とりとめもない話といってもそれは実に豊かなおしゃべりでした。
話題はあっちへ飛び、こっちへ戻りしつつ・・・
それでも私たちが話していたことは常に変わりなく一本筋が通っていたのです。
「いかに自分が自分らしくあるべきか、ということで日々戸惑ったり、もがいたりしている。」という諸々の話。
そんななか、私は彼女が話してくれた1つの話にとても感じ入りました。
彼女は、誰がどうみても穏やかな人柄です。
いつも穏やかで微笑んでいるので、人からは悩みがないように見えたりも、します。
だから気軽に、「いいね~、Eさんは。いつもわが道を行く、って感じで。ゆらゆらふわふわしている感じで何にもとらわれていない感じね~」なんて言われるそうです。
事実、彼女は何にもとらわれたくない人なんです。
誰にも迎合せずに、なんの派閥やグループにも所属せずに、わが道を行く。
自分の心に従ってだけ動く。
確かに一見それはとても自由で気楽そうです。
けれど、その姿勢を守り抜くということがいかに大変なことか。
そんなちっぽけなことにもそんなにもエネルギー使うなら、もう自由である自分を守らなくてもいいや、って私なら思ってしまいそうなことを、彼女は必死に自分に嘘をつかず守り抜いている。
彼女がそんな話をしたわけではなかったのですが、話のはしばしを目地を埋めていくセメントのように勝手に私が補って聞いていて、そう思いました。
例えば、友人にある集会に誘われたとします。
「どういう集会なの? それって?」と聞きますよね。
そしてそれが何か自分が信仰しない宗教の集まりであるとか、自分の意とはそぐわないビジネスのグループの宣伝活動のようなものであったとしたら、それはさすがにたいていの人が用心し、及び腰になり、
「申し訳ないけれど、それは私は行かないわ。」と言うことができるわ、そうよ、ちゃんと断るべきなのよ、ということには賛同する人が多いかと思います。
けれど例えばこんなもう少し軽い誘いであったとしたらどうでしょう。
敬愛し、尊敬している人からの「今度、私の企画でこういうことを行うの。是非、一度来てね。」という誘い。
その人のことはとても大切にしている。
そしてその人の生き方も応援したいと思っている。
けれど・・
今回のその人の企画というものには、どことなくちょっとだけ自分の生き方とは違うものがある。
何か違和感を感じる。
実に立派でまともな企画なんですよ。ただ、自分がちょっとついていけない感があるだけ。
もし、自分がチケットを購入してその企画展に行くか、と言われればちょっと今回はご遠慮しとくかも、というような感じ。
こんなとき、多くの人が真っ先に心配するのが、「ここで断ったら、この人との関係性が悪くなるのではないか?」ということではないでしょうか。
そして「ここで私ならこの企画には・・と異を唱えている場合ではない。そもそもそんなに深く考え込むようなことではないもの。
1度見に来てね、って言ってるだけなんだもの。
期間にも余裕はあるし、チケットもたいした金額ではないし。」と関係性維持のためには行く、という人が多いんじゃないでしょうか。
でも彼女はそうはしない人なんですね。
彼女だってもちろん、せっかく良い関係を築いていた敬愛する人にこれを機に嫌われたくはない。
けれどそれ以上にどーしても自分の心が「それ、違う。」って言ってる小さな声に耳を傾けることをやめられないんですね。
その人に誘われたとき「わぁ! ステキ。面白そうですね。ぜひぜひ、行きます。」と言っておいて、直前になってから「用事が出来ちゃって・・」と嘘をつくこともできない。
だからニコニコした笑顔を絶やさないまま、「え~、ちょっと・・・ 私、行けません。」と言う。
「自由でいいね~って言われるけど、そこを貫くためにはどんだけ大変なことか。」という一言をふっと彼女が漏らしたとき、私は例えばこんなことかな、と上記のような場合を考えたのでした。
もっとわかりやすい例で言えば、裁判もそんなことが多いのではないでしょうか。
絶対に自分が正しい、白黒はっきりさせたい、と訴訟を起こし裁判に持ち込もうとする。
けれど色々と調べていくうちに、裁判を起こすということがどれだけ大変なことか、というのがわかってくる。
それにかかる費用、時間、そして何より何があっても真実を明らかにするんだ、と言う揺らがない信念、そのためには何だってする、という気概のテンションを持ち続けられるかどうか。
そういう試練を受けて行くうちに「・・・もう、いいや。ちょっと私には無理。
悔しいけれど、それ以上に自分の人生の時間のほうがもっと大切だもん。」と裁判を起こすこと自体を諦める。
これは相手が大企業だったりしたらその立ちはだかる壁に個人の無力さを感じて告訴自体を取り下げることになる、というのって世の中にそんな例はゴマンとある気がします。
これは何を選択するほうが正しい、ということではありません。
確かにその人の人生なのですから、この何年かかるかわからない裁判にそんなにもお金も月日も費やしてられっか、その間、自分の人生どぶに捨てるようなものじゃないの、と思う気持ちはもっともです。
けれど、どこまでそうやって妥協していくのか、と考えたとき、「これは誰が考えたって妥協しても仕方のないことだろう。」と「これはもうちょっと踏ん張ってみなくちゃいけないな。」という間の線引きは誰がするのでしょう?
それも自分です。
となれば、1ミリでも妥協した、という思いが自分の中に残るなら世間のすべての人が許しても自分が許せない。
それこそ何のために生まれてきたの、生きてきたの、わたし、と思ってしまう人の気持ちというのもまた、共感できるんです。
それが、「これくらのことなら・・」という日常のなかに潜んでいるようなことであっても。
そういう1つ1つを大切に選択し決心して生きないのであれば、妥協で積みあがって出来ている“わたし”って何者? それってもう“わたし”じゃないじゃん、ってことにはなりはしないか。
きっと彼女はそういうなかで毎日”自分”と葛藤しながら生きているんでしょう。
「あ~、行く、行く!」と嬉しそうに見せて行くほうが簡単なことです。
でも彼女はその人に断るとき非常に居心地の悪さを感じながらも、自分の心に嘘はつけないから頑張って、「ごめんなさい・・ 今回、私はちょっと・・いけません。」と断る。
自分らしくあるためにこれを機にその人からは「なんだ、あの子。もうちょっと好意的かと思ったのに。」とがっかりされるリスクを負っても妥協しない。
自分らしくある、というのはちょっとしたことにも妥協しない、ってことの日々積み重ねなんだな~と思いました。
私がそこまで出来るかどうかと言われるとちょっと自信がありませんが、「自分らしくある」というのは、決して人のことをかまわずにのほほんと自分勝手に生きているということではなく、そういう風に見える人こそ、けっこういろんなことと戦ったりして頑張ってるんだな、と思いました。
そして逆に言えば、
「いいな~ あの人の感じって。風のようにゆらゆらと、何にも束縛されない感じで自由に生きられてて。私もあんなふうでありたいな。」などと簡単に憧れてはいけない、と自分をいましめました。
その覚悟もないくせに「いいな~」と言うのは失礼だと思ったからです。
自由に生きる、っていうことはその自由を獲得するために不自由さも味わうことだ。
そしてそれをわかっていても、自由を得たい、自由のなかで生きていたい、という人だけが自由でいられるんだ、と思いました。
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