ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「失敗図鑑」を読んで

2019-03-13 09:01:02 | 本と雑誌
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「失敗図鑑」という本を読みました。
古今東西の伝記が出ているような偉人たちを集めて、彼らの知られざる失敗ぶりをコレクションした本です。
この本はどうやら小中学生用のようで、すべての漢字にはふりがなが打ってあるし、「失敗の例」などで挙げてあるものも「学校に遅刻する」など明らかに児童向けやん!という感じなのですが、なかなかに考えさせられるところも多く面白く読みました。
そのなかで特に考えさせられた物件を今日はご紹介しますね。



まず、「偉人たちだってこんなに失敗してるんだから、凡人のあなたが多少の失敗したって安心してね」ってために書かれている本なんですから、その偉人たちの失敗というのは、
「あぁ、そんな失敗あってこそその後の偉業が成し遂げられたんだね」
ということばかりが書いてあるのかと思っていました。
まぁ、事実そういうことが多いっちゃ多いんですが。
例えば、ココ・シャネルはシンプルで動きやすい服をつくり一世を風靡したのですが、戦争がはじまりファッションどころではなくなり、彼女はいったん55歳で引退しています。
そして戦争が終わったあとにはなぜか再び、女性の服は動きにくく、華やかで、ウエストは細くしめつけ、胸元は広く開き、というものに戻ってしまっていました。
そこでシャネルは再び奮い立って、女性のこれからの生き方が服にも反映されているようなファッションを提唱しようと70歳で準備を重ねて、ショーを開くのですがこれが大失敗、というか大不評。
「昔の栄光を引きずった過去の遺物」
とこきおろされてしまうのです。
しかし、いったん火がついたシャネルはこんなことではめげませんでした。
次々にファッションを発表し、ついに母国フランスではなく、アメリカで認められたのです。
それは当時のアメリカでは女性が自由に働くことがブームになっていたということもあり、シャネルの服は大絶賛で受けいれられたのです。
そして逆輸入的にフランスでも彼女の服がもう1度認められるようになっていったのでした。
この“失敗談”なんかは失敗に値するとも思えないような、「挑戦の記録」ですよね。
もしかしたら自分が受け入れられないのは小さな井の中にいるからなだけかもしれない。
だからそんな声を気にせず、もっと大きな世界にどんどんチャレンジする。
すると自分のことを認めてくれる世界が現れる。
そんな風に考えたらいいと思います。



しかし、私がびっくりしたのは次の「失敗」。
まず、一人目は夏目漱石。(一人目は、と言っても今日は彼しかご紹介できないと思いますが)
彼は小説家であると同時に、英文学者でもあり、学校で教鞭をとる英語の先生でした。
あるとき、漱石は国から
「ロンドンに行って、英語についてもっと学んできてくれないか」
という依頼を受けます。
誰もが気軽に海外へ行ける時代ではなかったので、それは重責であるがゆえに国が費用を出したのです。
しかし、彼はロンドンについてから日本人の容貌に比べてイギリス人は背も高く、顔だちも整っている人ばかりだ、ということにまずはコンプレックスを抱きます。
そんなただでさえコンプレックスを抱いているところへ、自分の英語がなんと通じない! という憂き目にあいます。
それが発音のせいなのかキングスイングリッシュと言われる英語だったからなのかよくわかりませんが、とにかく漱石は容姿で引け目を感じたうえに知らない土地でまったく言葉が通じない、ということにショックを受け、部屋から一歩も出なくなってしまうのです。
今でいうところの「引きこもり」です。
そんな漱石の状況を知った日本のお偉方が、
「これでは漱石がおかしくなってしまうようだ。彼を日本に連れ戻さなければならない」
と考え、結局、彼は国にお金を出してもらいながら、何1つ成果をあげられないどころかそのお金をどぶに捨てるようなマネをして帰国しただけになってしまいました。
そのときの辛さをまぎらわすために書き始めた小説で成功するのですが、この「失敗」はちょっと笑えない・・と思ってしまいました。



まぁ、この本では漱石がロンドンに着いてから自分に失望しながらもどれだけの努力を続けたかまでは描かれていないのでわかりませんが、見知らぬ土地に行ってみたら、そこの土地の人たちが自分よりもうんと容貌が優れた人たちだったので落ち込んだ。
その落ち込んでいるところへさらに自信をもっていた英語が通じないのでさらに落ち込んだ。
それで引きこもることを選んでしまう、というのはちょっと精神的に弱すぎるような気もします。
私なら、なんの成果も持ち帰らずに国のお金を使った、という事実の重みのほうに耐えられない。
何が何でも「ほほぅ! ロンドンでの英語事情はそういうことか」と当時の日本では知られていない実態を1つでも持ち帰ろうとどれだけ自分の気持ちが不安定になり落ち込んできてもそこは努力を続けるほうを選ぶのではないかなぁ、と思うからです。
ロンドンで孤独を感じるのと、帰国してから冷たい目でみられずっと日本で孤独を感じたままロンドンでの失敗が一生ついてまわる人生とを比べたら、ロンドンでの孤独なんてなんとか我慢しよう、と思うわけです。



人のストレス耐性について云々言う権利なんてありませんから、漱石を責める気は毛頭ありませんが、少なくとも人に対して堂々と
「いいかね? こういう失敗をしてもそれが生きて後々偉業を成し遂げられることもあるんだから、君たちも失敗を恐れず堂々としていなさい」
という例としては私なら到底よう使わんわ・・とは思ったのでした。(もちろん、これだって漱石が自分で言ってるわけじゃありませんからね。この図鑑を書いた人が暴露しちゃっただけですけど)



以前に、ビジネスコンサルタントの先生に、
「ブログにはたまには自分の失敗談なんかも書くといいわよ。そのほうが親近感を持ってもらえるから」
と言われたことがあります。
先生はそのあとに、
「あ、もちろん可愛いやつよ。ほんとうのすごい失敗とかじゃなくて」
とおっしゃいました。
確かに“天然ボケ”を気取りながら、
「わたし、今日、こんな勘違いしちゃいました~」
とかのエピソードを載せる方っていらっしゃいますよね。
でもそれって、書き手の望む、読者獲得に向けての浅ましい心が透けて見えているようで、私はとても恥ずかしいものを見てしまったような気持ちになり、我が事のように「うわっ」と思って思わずページを伏せたくなります。(実際にはSNS上のことが多いですからページを伏せる、じゃなくて閉じるボタンをクリックする、って感じですけれどね)
自分の裸を見られるのと、自分の心の奥に潜んでいる浅ましさを見られるのとどちらが辛い? と言われたらそりゃ後者のほうでしょう、と思うタイプなので。(と言って、誰もお前の裸なんか見たかないわい!というのは置いといて、ね)
自分では他人のを見てそう思うのに、自分がそんなマネできるわけないじゃないの、と思います。
―――という私は、するとしたら漱石的な“致命的な失敗”をするパターンでしょうか・・