ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

映画「グリーンブック」を観て

2019-03-05 09:01:14 | 映画
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本年度のアカデミー作品賞をとった「グリーンブック」を観てきました。
しかし、主演男優賞をとった「ボヘミアン・ラプソディ」といい、この「グリーンブック」といい、ミュージシャンのいわば“伝記もの”です。(そう、この「グリーンブック」も実話に基づいたお話でした)
ミュージシャンの伝記ものほどヒットしないものはない、と言われた時代はいずこへ、って感じですね。
この映画もたいそう良い映画でした。



「グリーンブック」とは、かつて(映画では1962年、と最初にありましたので、まぁそのあたりの、今から50年ほど昔は、ということでしょうね)アメリカ、とくに南部では、黒人が移動するときには通行手形のようなものが必要だった時代があり、それを通称「グリーンブック」と呼んでいたということです。
人種差別が色濃く残っている時代でしたが、今でも大して実情は変わっていなくてこんなものなんだろうなぁ、と差別についてちょっと違う角度から考えさせられました。
「ちょっと違う角度から」というのは、この物語では、主人公の1人である黒人のほうが、地位も名誉も教養も財産もある、という立場だからです。
決して虐げられた存在の人ではありません。
逆にもう1人の主人公、この黒人の運転手をつとめる白人のほうが粗野で教養のない人物として描かれています。



物語は、イタリア系白人のトニー・リップが用心棒のようにして雇われていた、大きなキャバレーのようなクラブが改装のためしばらくの間閉鎖になったため職を失ったところへ、たまたま黒人ピアニストのドクター・シャーリーが南部へ演奏旅行をするときの運転手を探しており、2人は知り合う、というところから始まります。
さまざまな偏見に満ちたエピソードを乗り越えていくうちに、2人は固い友情で結ばれていく、というお話。



黒人であるドクター・シャーリーは身なりもちゃんとしているし、どこからどう見ても身分の高そうな人とうかがい知ることのできる洋服を着ているのに、それでも南部を旅すると実にさまざまなイヤな思いをしなくてはなりません。
演奏会場へ着くと、「これはこれは・・」とゲストとして下へも置かぬVIP待遇のお出迎えをされるにもかかわらず、
「トイレはどこですか?」
と訊くと、ホテル内のトイレは使わせてもらえず
「黒人のトイレはあそこです」
と庭に無造作に置かれた汚い小屋を指さされたり、楽屋が物置だったり、通常のレストランでは食べることができなかったり・・。
「黒人は夜は出歩いてはいけない」という州の法律をもうけているところもあるので、夜道を車で走らせているとそれだけで警官に呼び止められたり。
呼び止められるだけならいざ知らず、ブタ箱行だったり。



しかし、この映画を観ていて初めて私もこの育ちのいい才能のある黒人ピアニストの気持ちがわかったのですが、彼がたぶん1番辛かったのは、白人から差別をされることではなく、同じ黒人からも偏見の目でみられ、行き場のない気持ちを味わっていたことに尽きるでしょう。
当時は「黒人」というだけで、貧しい人々が多かったので、彼のようにある分野ですでに成功をおさめ財を成している、という黒人のほうがマイナーな存在でした。
それだけに彼は行く先々で、同じ黒人からも差別的な眼で見られたり、実際にそういう扱いを受けたりするのです。
道端に車を停めて立っているだけで、身なりのいい彼は、畑でクワをふるう黒人たちから異端視されてしまったり、黒人専用ホテルに泊まっても、「なんだ、あいつは?・・・」という目で見られたり。
つまり彼は白人社会からも黒人社会からも締め出しを食ってしまい、行き場がありません。
カーネギーホールの上の高級アパートメントに住んでいても孤独だったことでしょう。
実際に映画のなかでも、
「俺はいったい誰なんだ!」
と苦悩のあまり叫ぶシーンがあります。
そのせいで、彼の演奏を万来の拍手を持って聴いてくれる観客のことも、
「自分たちは物わかりのいい白人なんだ、と言いたい自分たちのステータスのためだけに聴きに来ている」
と信じることができません。
この孤独は底なし沼のような、ずぶずぶとどこまでも足もとを掬われるような救いのないものだったことだろうなぁ、と思いました。



現代でもスポーツの世界などでは秀でた黒人の選手が多いですよね。
彼らはそのスポーツファンから、地元のファンから、その所属チームのファンから、まるで家族のような温かい目と拍手でもって迎えられているかのように、テレビなどの画面を通しては、見えます。
けれど、いったん試合を離れて1個人として街へ出たらどんな目で見られているのか、どんなひどい扱いを受けたことがあるのか、あるいは成功していない同じ黒人からはどんな眼差しを浴びているのかを考えるといたたまれないような気持ちになります。
逆に言えば、二重差別ともいえる扱いを受けてこんな孤独にも耐えなくてはならないくらいなら“ただの貧しい黒人”として生きたほうがましだった、とさえ思えてくるのではないだろうか、と思いました。
少なくとも同じ貧しい黒人たちとは同志となり、白人たちにだけブゥブゥ言っていればいいという立場に身を置けるのですから。
精神的にはそのほうがなんぼかラクだわ、という気がします。
そこから抜け出たい、自分の才能を生かしたい、自分の個性に嘘は付けない、と思ったら、普通の人が感じなくても済むようなこれだけのことを乗り越えなければならないのか、というものを「グリーンブック」は見せてくれました。



最後にもう1つ、私がなんとなく感慨にふけったことを1つ。
映画は長い演奏旅行を終え、クリスマスイブにはニューヨークに無事帰りつくことが出来た、というところで終わりますが、エンドロールが流れるなか、ホンモノのドクター・シャーリーとトニー・リップの写真が何枚か映し出され、テロップが流れます。
「その後、トニー・リップは改装が終わったクラブ『コパカバーナ』に戻り、支配人にまで上り詰めた」
「ドクター・シャーリーとトニーは2013年に数か月の違いでこの世を去ったが、彼らの友情は生涯つづいた」
あぁ、良かった、良かった、彼らの友情はホンモノだったんだなぁ、というところでシャンシャンです。
映画ではトニーのことを心から信用したドクター・シャーリーが、1演奏旅行の運転手から格上の自分のマネージャーをやってくれないか、と持ちかけるシーンがあります。
しかし、トニーはこの申し出をすぐに断りました。
映画のなかではそれは、このような何か月も家に帰ることができない演奏旅行に付き合うことも多いとしたら、俺はまだ子どもも小さいし、家族をそれだけ放ったらかしにすることはできないから、というのが理由かのように描かれています(いや、実際にそういうセリフがあるわけではありませんが)
しかし、私はそうではなかったろうな、と思いました。
ドクター・シャーリーがどれだけイヤな思いをしてもプライドを持った1音楽家としての人生を辞めることが出来ないのと同じように、またこのトニー・リップも自分の生きる世界というものをわきまえていたのではないでしょうか。
一流の音楽家に常に寄り添い、行く先々で自分もまるで上流社会の人間かのように扱われる人生よりも、彼は「コパカバーナ」のような、もっと良くも悪くも人間臭い夜の社会のほうが自分には似合っている、という選択をしたのだ、と私にはそう思えました。
実際にもし、トニーがドクター・シャーリーのマネージャーを勤めたら、彼らは一生を通じての友人であったかどうか疑わしいとさえ思います。
お互いがそれぞれ水を得た魚のような世界を生き切り、つかず離れずの関係を続けたからこそ、彼らの友情はより揺るぎないものになったのではないかと思えるのです。
私自身も、そんな関係のほうが好きです。
お互いが四六時中べたべたと一緒にいて、金魚のふんのように過ごすよりも、それぞれがそれぞれの持ち場で生き切るために、その姿を確認しあうために、時々会う、というくらいの友人関係のほうが長くつづいているし、好みです。