ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

”楽しむ”ことの本当の意味

2014-02-17 09:05:00 | うんちく・小ネタ

ソチ五輪・・

盛り上がってるんですかねぇ?

スノボでひょっとしたらメダルが狙えるかも、って言われていた角野選手が8位に沈み(でも、スロープスタイルっていうんですか、これは私、結構面白い競技だな、と思って見ていましたが、彼は実に彼が今居るべき順位に落ち着いたと思いましたよ。あわやメダルまで!?と言われていたとしたら、そんな“あわや”ってことは、オリンピックの舞台ではありえないんだ、ということがよぉくわかりました。彼も今の自分の持てる力を発揮した、とやりきったすがすがしい顔をしていました。これは、彼のことをメダル候補に入れていた予想屋さんが悪い!)、フィギュア団体で真央ちゃんがトリプルアクセルを失敗し、「あ~、やっぱりトリプルアクセルを本番で成功させるのは難しいのかな・・」という暗雲が立ち込め、モーグルの上村愛子選手が7位、6位、5位、4位とオリンピックの順位を確実にあげてきて今度こそ悲願のメダルを、と言われていたのがやはり今回も4位に沈む(あ~、それにしても彼女には取らせてあげたかったなぁ~!)という出だしだったため、盛り上がってないとしても仕方ないかもね・・(しかし、ここに挙げた競技・・ すでにひどく遠い過去のように感じるのは私だけでしょうか。)

そもそもがここ何回かの大会で、日本は常に「メダル10個」を目標にかかげては「1~5個」にとどまっています。

もうそんな絵に描いた餅のような目標、やめればいいのに。

や、ケチつけてるわけじゃないんですよ。

ウィンタースポーツは自分ではやらないにしても、スポーツ観戦は大好きですし。

少し前に「負けて己を知る。」というタイトルの記事を書いたことがありましたが、やっぱり私は健やかにスムーズにメダルを手にしていった若者より、メダルを取れなかった人のほうにドラマを感じるし気持ちも添うし、感じることが多いなぁ。

上村愛子ちゃんの「あのときはやり切った!という気持ちが強かったけれど、次の日になってみるとやっぱり悔しさも少しはあるかな。」というのはすごく正直な感想だと思うし、スピードスケートで6位に沈んだ長島選手がインタビューを求められて、初めはくしゃっとした苦笑いで登場したのがいざマイクを向けられるとウッと詰まって涙で何も言えなくなった姿とか、ジャンプの高梨沙羅ちゃんもたった17歳でいっぱい背負うものがあって、大変だったろうなぁ、とこっちが泣けてきちゃった。

「皆さんがこれまで応援してくださったことへの感謝としてここへきています。」なんてそんな優等生なこと言わなくっていいのに。

「私は自分が金メダルを取るためにここへ来ました。それを応援してくれるっていう人はしてください!」でいいのに。

そんななか、ある日、元スピードスケートの金メダリスト清水さんと元フィギュアスケート金メダリストの荒川静香さんが、テレビでいろんなシロウトの質問に答えているのを見ました。

そのなかで私にはとても心を惹きつけられたお話がありました。

それは荒川静香さんが、

「よく選手が試合前のインタビューなどで、『試合では楽しみたいです。』と言うことがありますよね。

そしてそれに対して、『なんだ、不謹慎な発言だな。楽しむより一生懸命頑張らなくちゃいけないだろうが。』という意見もあると思います。

でも、選手の言う『楽しみたい』はそういうつもりで言っているんではないんです。

選手の言う『楽しみたい』は、これまで自分が培ってきた技術を試合で思う存分自由にコントロールでき、自在に操ることができるようでいたい、っていう意味なんです。」

と発言されたときです。

私はこの、

「楽しむ=これまでに自分が培ってきた技術を思う存分自由にコントロールでき、自在に操ることができること。」

という定義に心底ほれ込んでしまいました。


私は一流を極めた何者かではないわけですが、それでもそんな一般人でも、「人生、楽しまなきゃ、損、損!」なんて思ったり、実際口に出したりします。

そうしてしばらくすると、ふと「そんなことばかりしてちゃ、食べていけないよな・・」とか「楽しんでばかりいて、ホントに人生それだけで暮らしていけるのか?」「ほんとうに楽しむっていうのは何かをやり遂げた人だけがたどり着ける境地ではないのか? そもそもボケーッと暮らしてちゃ楽しむことなんてできないだろうし、その権利もないのでは?」とかぐねぐね思ったりするのです。

要するに、「楽しむ」を「働いて生活費をひねり出す」ということの対義語のように捉えているのですね。

その考えはどこかでおかしいと思い、そんな思いは払拭しようとしてみたり、でもやっぱり働かなくちゃ食べていけないんだから、とどうしてもそこに舞い戻ってきてしまってそのループから逃れられることがありませんでした。

先日もある方とメールのやり取りをしたときに、自分が書いた文章に、

「思うに、オーラソーマって回収を考えずに興味のあるコースやシェアリングデーに出て、研鑽を積み自分が成長するためだけのもの、って割り切ったらこんなに楽しいものはないかもね。」というものがあり、そんな文章がすらすらと出てきたことに我ながら驚きながらもそれを噛み締めて、

「ほんとにそうだよなぁ・・」と思う自分と、

「ほんとにそれだけでいいのか?」と思う自分とが交錯し、なんだか整理がつかないでいました。


しかし、この荒川さんの定義は、それらのすべての思いを吹き飛ばしてくれ、ものすごくすっきりとしました。

厚い雲の層がさーっと両脇に分かれて、すがすがしい青空から一筋の太陽光が差し込んだかのようです。

私はいったい何になりたいのだろう?

私はいったいどうしたいのだろう?

このところ、ちょっとしたことでまた悶々として迷路のなかに入り込んでしまったような私がいました。


そして「何であれ、楽しむことは大事だよね。」とうそぶき、そうつぶやきながらもその本当の意味が自分でもわからずにいたのでした。

“楽しむ”ということに罪悪感を感じる自分。

“楽しむ”ということにただ焦りだけを感じる自分。

なぜか自分には“楽しむ”権利なんてないんだ、と思う自分。(そこまで突き詰めて取り組んだのか、という意味で)

でもやっぱり人生楽しむことが一番だよね、と思う自分。

それらすべてを包含してなお、その上に君臨する概念が、この荒川静香さんの、

「楽しむとは自分がこれまでに培ってきた技術を思う存分自由にコントロールでき、自在に操れること」だと思いました。

どの程度私がオーラソーマを大切にし、真剣にやってきたか、と言ったとてどこまで行ってもまだまだだなぁ、と思うことでしょう。

けれど、今の自分に出来ること、これまでにやってきたことは思う存分自在にコントロールできる自分でいたい。

それこそが“人生楽しんでいること”にほかならないだろう。

そこは誰に気兼ねすることもないし、自分だけの王国だ。

そう思ったのでした。






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