ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

究極のワークショップ

2014-02-02 09:05:00 | うんちく・小ネタ

昨日は、アルピニストの野口健さんの話を書きましたが、実はもう1つ面白い話だなぁ、と思った部分があったんです。

昨日は長くなってしまうのでそこまで手が回りませんでした。

昨日の話とはまたちょっと視点が違うことでもありましたしね。

今日、そちらのお話を書かせていただきたいと思います。

彼はいま40歳で9歳になるお嬢ちゃんがいらっしゃるそうです。

そのお嬢さんを山登りに連れていったときのことです。

山登りってこんなにも過酷なものか、と吹雪いてきて零下何十度という世界のなかで、

「痛い、痛い。」と言ってお嬢さんは泣き出してしまったそうです。

きっと吹き付ける雪が、寒いというよりはもう痛い、って感覚になってたんでしょうね。

そのとき父親である野口さんが娘にかけた言葉というのが、

「生き抜きたいなら、痛いなら、泣くのはやめなさい。泣くと涙が凍ってより寒いし、目の前がぼやけて余計に危険だから。」

というものでした。

冷静沈着というか、合理的というか、山という極限の生きるか死ぬかという局面に置かれたとき、自分の子どもにこう言えるかどうか・・

いや、極限の状況だからこそ出る言葉なのか・・

それでも娘さんは、

「パパは40年も生きてきたからいいかもしれないけど、私はまだ9年だから・・」と鼻をぐずぐず言わせながら泣いていたそうですが(笑)


このときインタビュアーは私と同様に、自分の子どもにこんな思いをさせてでもどうして山登りを教えるんだろう?ということを不思議に思ったんでしょうね。

次に、

「野口さんは、娘さんに山登りを通して何を教えたい、と思ってらっしゃるんですか?」と尋ねました。

すると野口さんは、

「う~ん、頭で考えることも大切だけれど、ただ身体の感覚を大事にする、ただただ感じるってことも大切なんだよ、ってことかなぁ。」

とおっしゃいました。

これって・・

オーラソーマみたいだなぁ、と思いました。

まぁ、オーラソーマに限らずいろんなスピリチュアルなワークショップでは、思考ではなく自分の直感を大切にするように、ということを教えるワークなどがよく行われますよね。

死ぬかもしれない、というほどの山に登ってそれを教えたい、とは究極のワークショップだなぁ。

人間、生きるか死ぬかという極限の状況に置かれると「何が何でも生きたい!」という本能にだけ基づいた選択をする。
        **********

ほぉ、自分はこういう状況に置かれるとこんな選択をするのかぁ。

普段えらそうなことを言っているけれど、自分ってこんな程度のものなんだなぁ。

何が何でも死にたくない、という思いがこんなにも強いものだとは知らなかった。

自分のなかにこんなにも力が残ってたんだな。

*********

いろんなことを感じるんだろうなぁ。

自分のマルクトのエネルギーを実感するには、確かに一番良い方法かもしれない。

なかなかそれを目的として、「じゃ、山に登ろう。」とは思いませんけれどね。

もともと私は山登りに全く興味がありませんし、山に魅せられて山登りをする人たちの気持ちも全く理解できませんでした。

トレッキングというレベルがすがすがしくて気持ちが良いのはわかりますが、ワンダーフォーゲルっていうんですか? ザイルやピッケルを使って登るというレベルの山登りとなるともうとてもとても・・

年に何件も遭難する人たちのニュースは後を絶ちませんよね。

そんなニュースを耳にするたびに、

「どうしてそのくらいの危険があることがわかっているのに、その危険を冒してでも登りたい、っておもえるのかなぁ。

自分の命をそんなに粗末にしたいのかなぁ。

救助隊なんかも出て、税金も使って。」

などとかなり批判的な目で見ていました。


けれど、究極の状況のなかで思考さえ強制的にストップをかけられたような瞬間に自分は何を感じるのか?

そこで初めて“自分”というものの正体が見えるぞ、という思いをした人たちというのは、やめられなくなるんでしょうね。


どこからアプローチするのかということが全く違うだけで、スピリチュアルを自称するような方々と、スポーツマンというのは根っこのところで目指すものは一緒なのかもしれませんね。

だからこそ、人は何をやっていてもそこに全力投球していれば、必ず魂の次元上昇はあるはずだし、それにともなう気付きもあるんだと思います。

そう思ったとき、その“全力投球するもの”を「仕事」にするか、「趣味」にするかは人それぞれでいいですよね。

いや、「仕事」と「趣味」が対極にある言葉でも選択でもないとは思いますが。

「仕事」にする限りには、よほどの意志と「私にとってこれを仕事にする、ということは天から与えられた使命だ。」と信じることができないと無理でしょうねぇ。

以前は、「天から与えられた使命」というと、「選ばれた人間だ。」というような選民意識があるように思っていました。

けれど今はむしろ、「辛いことを買って出てくれた方だ。」という気がしています。

だから自分がそこまで出来るか、というと疑問です。

もうちょっとフラフラと自分の楽しみの追究だけがしたくて世のため人のために「それに伴う辛いことまで引き受ける」ということを買って出てあげるよ!というほどの覚悟があるか、と言われると「うぅん・・・」と思ってしまうからです。


このブログを始めたときは、「オーラソーマを仕事としたとき、それだけやっていて食べていけるのか?」を私が体現してごらんにいれましょう!ぐらいの気負いでやっていました。

それが今、ちょっとずつ考え方が、質が変わってきているのを自分自身の中に感じています。

何をやっていたとしても、それが私らしければそれでいい、という感じで気負いを捨てたって感じでしょうか。

それを単なる逃げではないか、と密かに悩んだ時期もあったけど、今は「いや、ほんとにそうでもないんだよ。」って感じです。

何か今はうまくいえないけれど、語ると陳腐な言葉でしかなくなってしまってそれがイヤで、それなら語らないほうがいいかな、なんて思っていて・・

どうも歯切れが悪くてすみません。


今のところはね、こんな心情なんです。






メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)