ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

私がオーラソーマを手放そうと思った理由

2014-02-16 09:03:00 | オーラソーマ

昨日はちょっと思わせぶりな記事を書いてしまいました。

「私はオーラソーマを手放そうかな、と思っている。」という内容です。

そこには「いや、やめちゃうとかそういうことではなくって、ちょっと離れたところから見つめなおしてみようかな、というほどの意味です。」とは書き添えたものの、それではまだ説明が不十分だと思うので、今日はどうしてそういう気持ちになったのかについて書きたいと思います。

少し前にasiact japanより全ティーチャーあてに一斉メールが届きました。

この内容についても私には衝撃的で実に色々と思うこともあったのですが、それについてはここでは触れません。

なぜならほんとうにオーラソーマに関わるすべての人がその内容について知っておくべきだ、ということであれば、ティーチャーに対してだけの一斉メール送信という形ではなく、アザイアクトのHPでなり、ニュースレターでなり、テイーチャーズ&プラクティショナーアップデイトでなり語られることのはずだと思うからです。

だが、今回はティーチャー向けに配信された。

ということは、まずはティーチャーたちが知っておいてね、プラクティショナーの人たちには追い追いまた別のかたちで伝えるから、ということだと思うので、それを私が自分のブログで語ってしまってはいけないだろう、と思いまして。

ここでいう“別のかたち”というのが、そもそも全国にいるティーチャーからそれぞれの生徒さんへ伝わることを見越して、ということではないの?という考え方もあるでしょう。

そうなのかもしれません。

でもそれとて、ではきちんとした授業のなかで、ということでしょう。

ともかく私がこのブログの中で語ってしまうのは違うような気がして。(やれやれ。ほんとのこと言うと、こういうことで頭を悩ませること自体が私には非常に余計なことのような気がしてめんどくさい。)

前置きはこれくらいにいたしまして。

というわけで、内容には触れませんが、そのなかで1つだけ私にはとても気になる表記がありました。

それは「追記」と表された「あ、最後にちょっとだけ付け加えておきますけれど」という体裁をとったなかで、「――――ということについて、私はどうだろうかと思います。」とあった部分です。

これを読んだとき、どっと肩が重くなりました・・

どこが元凶かわからない肩こりに悩まされているときのようなだる~い、いや~な感じ。

最初は何が自分をそうさせているのか、その正体がはっきりとは掴めませんでした。

asiact japanからの正式な文書のなかに「私はどうだろうかと思います。」という個人的見解を持ち込んでいいのか、というレベルのことが私を重い気持ちにさせたのではありません。(それともそもそもasiact japanとは”組織”ではなくて、”個人”だと思っていいのか・・)

その是非についてはいろんな考え方があるでしょうけれど、私はむしろ、「ほぉっ、asiactさん、ヤル気になってんなぁ。」と思ったくらいでした。

これまでasiactに対する私の印象はといえば、「なんだかとっても事務的・・」「必要最小限の言い方でしか教えてくれない・・」という感じでした。

けれど、今度のasiactは改革精神にあふれてる、っていうか何かこのままではいけない、って思ってるんだね、という気概が伝わってくる、と思ったのでした。


もし私がasiactの理事に突然任命されたとしたら(朝、起きてみたら人間ではなく猫になっていた、という以上にありえないことなのでなかなか想像も出来ないことでしたが、一生懸命[if]を考えてみました。)、「よし! 私が任命された限りには、何か今までのままでいいということではないはずだ。私が、私らしい考え方で切り盛りしていっていいということのはずだ。自分を信じよう。まずは自分の考えをいっぱい発信していこう!」と考えて、こういうこともやりそうなことかもしれない、と思ったからでもあります。


では、いったい何が私をそんなにも重い気持ちにさせたのか・・?

それは、これを受け取った側の勝手な“萎縮”と“恐れ”を思ったからでした。

このときのasiactからの内容のなかで「ティーチャーとして具体的に行動を起こすべきこと、してはいけないことは何だ?」と言えば、それは1つでした。

逆に言えば、たったその1つだけだったわけです。

けれど、きっとこれを読んだティーチャー達の中には、この「私はどうだろうかと思います。」ということについても、そう言われたら「そのことについてもやめておいたほうがよさそうだな~」と考える人が多いのではないだろうか、と思います。

その理由はきっと2つ。

1つには、何であろうと“組織”に属するメンバーたちというものは、その「長」の意志にはできるだけ従いたい、と思うように出来ている、ということです。

よほど100人が100人、これはおかしいと思うことならともかく、「あぁ、リーダーがそう考えているなら、私たちもそれに添おうではないか。」というように考えるように出来ている、と思うのです。

それは良い、悪いじゃない、集団で生きている生物なら当然のことです。(もちろん、どんな集団のなかにも異端児というものはいますが)

私は長年接客講師をやってきていろんなショップを見てきましたが、もし、

「いろいろと人間性には問題があるが、非常に強い信念を持ってリーダーシップを発揮する店長が仕切るショップ」と、

「とても皆に慕われる良い人なのだが、いかんせん、リーダーシップの発揮には欠けるという店長が仕切るショップ」ではどちらがショップ全体がまとまり、売上も伸ばすことができるでしょう?と言ったら、圧倒的に前者なのだ、ということがわかっています。


人間性に問題があってもとにかくリーダーシップを発揮したほうが店はまとまり売上もあがるくらいなのですから、オーラソーマという全国に散らばったプラクティショナーやティーチャーをまとめるのにはよほど強いリーダーシップがないとまとまらないことでしょう。(asiactの人間性に問題がある、ってことではないですよ。ちょっと販売のショップンの例でたとえてしまったので、例が悪かったかもしれませんね。)

そしてそのことをメンバーもDNAで察知して、「受け容れてそのとおりに沿ってやっていったほうがまとまり成果もあがりそうなら、そうしてみようじゃないか。」と思うのでしょう。

もう1つの理由。

自分たちのほうから声をあげる窓口が用意されていないからそもそも声をあげるすべがない、ということ。

ここでは「――――私はどうだろうかと思います。」というasiactの“感想”について、「ハイ、私もそう思う。」とか「イヤぁ、私は違う考えを持っているよ。」という気持ちを披露する場がない。

このasiactからの「ティーチャー一斉メール」にしても、この追記のあとに、「ご意見・ご感想がある方は下記へご連絡ください。まだルールとして決めたことではないので、皆様のいろんな考えをお聞かせくださいね。」なぞと書いてあるわけではない。

求められてもいない感想を送りつけるオメデタイ人もいないだろう。

求められてもいない感想を送りつけた瞬間、それは単なる「こちらからもその件については感想を言わせてもらいますね~」ではなく、“エール”か“反論”かのどちらかでしかなくなるだろう。

こちらからの考えを述べる受け皿が用意されていないかぎり、これはまだ今の段階では個人的な“感想”の体裁をとっているけれど、結局“指示”なのだな、という重みのある文として受け取る人もいるだろう。

あぁ、こういうことが私はとってもイヤなんだな~ということに気付きました。

憶測や推測やそれぞれの思惑が飛び交う組織、というもの自体が。

オーラソーマと出会ってからこれまでにもこんなようなことは数限りなく経験してきました。

けれど、何でだろう・・?

自分がティーチャーになってから初めて経験したことだからかな。

プラクティショナーのときより、ずしんときた。


プラクティショナーの頃、あるティーチャーから「恵津子さんもティーチャーになったらわかるわよ。」とか、「そんなこと言ってられなくなるわよ。」とか意味深な発言をされたことがありました。

その意味するところが全くわかりませんでした。

そのとき、そのティーチャーは思わせぶりでそんなことを言ったわけではない、ということは雰囲気でわかりました。

ほんとうにどうやってこのことを伝えたらいいのかわからない、ということからこういう言い方になっただけ、というのが全身から滲みでていました。


その当時私は、「もし私がティーチャーになったって、『そんなこと言ってられなくなる。』とは思わない。だって、1つ1つ目の前にあることとその場その場で向き合っていけばいいだけのことでしょう? そこで何かしら疑問に感じたりすることがあれば、その場ですぐに質問し、解決していけばいいだけのことでしょう? どうしてそれが言えないっていうの? わからない・・ 私は少なくともそんなタイプではないし、そんなやり方は私らしくない。私はその場ですぐに声をあげていく。」と思っていました。

けれど・・・

今回「―――――私はどうだろうかと思います。」と言われて、私には違う考えがあったとしても、私は声をあげない。

そんな受け皿は用意されていないし、意見を求められてもいないし、求められてもいないことにしゃしゃり出るほど私はそこまでオメデタクもない。

でも意見は、ある。

誰にだってあるだろう。

みんな吐き出せない、吐き出す場所がないものを抱えたまま溜まっていくんだろうな。

誰が悪いとかそんなことではなく、こんこんと降り積もる雪のように溜まっていく想い・・

それは雪と同じように上のほうから徐々にまた光に照らされ溶けていくものでもあるだろう。

けれど、下のほうで凍結し氷になってしまうものもあるかもしれない。


そう思ったとき、なんだか全部がイヤになってしまって、「や~めた。もう、や~めた。」と思ってしまったのでした。

こんなことで気を煩わされるなんてバカみたい。

こんなことオーラソーマの本分でもなんでもない。

そんなことに自分の大切な時間や気持ちのもっていきどころを奪われるくらいなら最初からオーラソーマから少し離れたほうがいい、そう思ったのでした。

それは唐突な思いでした。

唐突なだけに、「あぁ、これが私の真実だな。」とも思いました。

B111を使って、あとほんの2mmくらいで1本使い終わる、という頃になって出た蕁麻疹・・

どんな“色”をまとっても、今の私は受け付けないのか?という気付き。

それはあまりにも「私はこの、“オーラソーマ”というものの中で生きていかなくちゃ。」と偏執的に考えていたからかもしれない。

オーラソーマの中だけで生きていかなくっちゃ、というのは自分の決めた道だから、という美談的なものとして大事にしてきた考えであったかもしれないけれど、でも人生、そんなものじゃないでしょう。

“私”というものの可能性をそんななかに丸め込まなくてもいいでしょう。

そう思ったのでした。






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