団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

砂漠と苔

2018年09月19日 | Weblog

  アフリカのセネガルで生まれて初めて砂漠に行った。もう20年近く前のことである。その規模に、その砂だけの荒涼さに圧倒された。自分はここに居ることはできないと感じた。

 9月9日から11日まで友人夫婦と福井県滋賀県を巡る旅をした。10日に私の妻の希望で勝山市にある県立恐竜博物館と平泉寺白山神社を訪れた。まず恐竜博物館で度肝を抜かれた。その後平泉寺白山神社へ向かった。苔庭が有名だと妻が言っていたが、私は京都の西芳寺を思い浮かべていた。ところが百聞は一見に如かず。まったく違った。平泉寺白山神社は遺跡であった。その面積に驚いた。総面積は15万平方メートルあるという。両側に樹齢千年と言われる杉やブナが並ぶ。総延長は1.5キロというから驚いた。友人の妻はナビに従って車を運転していた。ナビは、融通が利かない。でもそれがかえって良かった。普通、相互交通ができない狭い道なので、車が通らない。まさに何百年も時間をさかのぼったようだった。平泉寺白山神社の歴史が凄い。717年に開山されかつて、東西1.2キロ、南北1キロもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成したという。その形跡がほとんどない。残った寺や建物も改修されないままだった。

 苔も手入れをしているというより自然のままという感じで、大きな樹木の根元に広がっていた。観光客は私たちだけ。土産物屋や茶屋も数軒、入り口にあっただけ。石畳や石の階段を本堂に向かって進んだ。

 多くの観光客でざわついていた恐竜博物館から静寂の平泉寺白山神社に足を踏み入れた。深呼吸した。肺の中が洗われるように感じた。鼻に洗浄された空気の香りが通った。目に入る緑色の苔、太い幹の樹木の森。ここにかつて巨大宗教都市があった事実。

 私はセネガルで見た砂漠、チュニジアで見た古代ローマ遺跡を訪ねた時を思い出した。私は自分を異教徒であり外国人だと感じた。日本に帰りたいとさえ思った。砂塵が目に入る。のどがいがらっぽくなる。砂漠に畏敬を感じ、そこに生きる人々を称賛できたが、自分がここで生きることはできないと思った。

 生まれて初めて自分が葬られても良いと思う場所を見つけた。以前和歌山県の高野山へ行った。そこには墓の博覧会のように多くの著名人、企業の墓があった。私は冷静にそれらの墓を巡り、首を垂れた。しかし私はあそこに自分の亡骸を埋葬して欲しいとまったく思わなかった。平泉寺白山神社でここならと思った。墓はいらない。焼却したらその灰を苔の下や太い樹木の根元に置いて欲しい。

 平泉寺白山神社は現在、過去のような繁栄も栄華もない。そこがいい。すべて苔や樹木が覆い隠している。その片隅に私もいさせてもらえたら嬉しいと思った。友人夫妻のおかげで思わぬ素晴らしい旅ができた。

 妻に平泉寺白山神社の苔に私の遺灰を置いてくれと頼んだ。妻は言った。「やってほしいことはすべてきちんと文章にして、手続き書類と費用をちゃんと準備しておいてね」 私はあっという間に現実に戻された。簡単には死ねない。


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