団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

富士山

2012年06月18日 | Weblog

 2012年6月16日の午後成田国際空港で一人のアメリカ人女性が日本の土に初めて足を下ろした。その女性は70歳代後半の日系3世である。3年間に渡る骨の癌の治療から奇跡的に復帰した。離婚後、私は長女をアメリカのシアトルの彼女の家族に預けた。私のカナダ留学時代の先輩家族である。敬虔なキリスト教信者である。

 今までに何回となく夫妻を日本へ招待を繰り返した。そのたびに夫妻は笑って「あなたの気持だけで充分。ありがとう」と首を縦に振らなかった。そして夫は癌で先立った。JR東日本主催のエッセイコンテストで最優秀賞に選ばれて副賞50万円を得た。この賞金は、夫妻の招待に間に合わなかったが彼女だけでも日本招待に使うと決めた。招待を申し出た。彼女の心が動いたかに思えた。「イエス」の答を心待ちにしていた。彼女からの手紙は思いもしなかった癌宣告を受けた報告だった。あれから7年経った。

 今回彼女の来日の決心に彼女の子どもたち5人全員が一番驚いた。彼女は私たちからの招待の申し出を受けず、飛行機の切符も自分で手配した。彼女は日系であっても日本人ではない。それどころか日本に対して拭いがたい影を持つ。彼女が日系人収容所に収監されたのは、彼女がまだ5歳の時だった。両親も祖父母も親戚一同が日系人というだけで全財産を没収され、シアトルから強制的に収容所に入れられた。多感な少女は収容所での過酷な生活で日本に対する愛国心も母国への想いも、どうしようもないトラウマとなって、心の奥深くに終い込んだに違いない。彼女が日本に対しての気持を吐露したことはない。それどころか私の離婚後、自分の5人の子どもとの7人家族に日本から来た私の娘を預かり育ててくれた。トイレが一つしかない家に一時8人で暮らした。

 私の娘は、彼女をマミーと呼び、彼女の夫をダディと呼んだ。私をパパと呼ぶ。そして私の妻をお母さんと呼ぶ。私の娘の英語の話し方は、マミーそっくりである。話す途中、ところどころ語尾に微かな舌打ちのような音が混じる。話し方が似るには相当な時間生活を共にして多くの会話を交わさなければならない。娘がまだ中学生だった時、娘の将来について話したことがある。娘はきっぱりと「マミーのように子どもを大切に育てるお母さんになりたい」と言った。

 結婚した娘には男の子がいる。この7月で1歳になる。1年間の産休を終え、会社には復帰したばかりである。「マミーのように」は、いろいろな面で壁にぶつかっている。20日まで会社を休み、娘の夫とマミーをもてなす。19日から24日まで、マミーは我が家に滞在する。

 私の頭の中は、どう、この日本滞在でマミーへの恩返しをするかでいっぱいだ。何故か、どうしても富士山を見てもらいたい。でも長期天気予報では全期間雨の予報である。20、21日には台風4号の上陸も予報されている。富士山を見られないかもしれない。どうしよう、と悩み、へこむ。それが行動にも出るらしい。この数日「おかしい」と何回も妻に指摘された。あれもこれもと考えてしまう。妻は「普通が一番よ」と言う。

 決めた。マミーは第二次世界大戦を自分だけで受け止めた。私の娘を5人の自分の子どもと同じように受け入れ、育てた。それほどの人に私ごとき者が何の恩返しができるものか。妻が言う通りだ。普通に毎日暮らしている中に、たとえ6日間であっても、マミーを迎えよう。毅然と生きてきたマミーに私は富士山を重ねる。


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