♪ピーチクパーチクスズメの子
生まれたときは丸裸
耳も聞こえず、目も見えず
頭ふりふりピーチクパー♪
最近妻はよくこの歌を口ずさむ。私はこの歌をまったく知らなかった。理由を尋ねた。裏山の鳥のさえずりが彼女に自然にその歌を口ずさまさせると言った。妻は何かの折にこうして多くの歌、詩、文言を完璧に暗誦する。鳥の名前はミソサザイ。姿を見たことはない。毎朝早くから「ピピスクスケスチルチルヒョロヒョロピリピリリリルリリル」と楽しそうに鳴く。
22日の午後、シアトルからの日系3世の客人を小田原にある『二宮尊徳記念館』へ案内した。本当は北名古屋市の『歴史民族資料館』へ行こうかと私は考えた。私の体力を考慮した妻が小田原の記念館を提案した。1800年代の日本の農家がどんなであったかを見て欲しかった。尊徳の生家が復元されている。家は萱葺きである。家を見て本館の中に入った。そこには古い農機具、生活用品などが展示されていた。アメリカへ渡った彼女の祖父は群馬県の出身だった。日清戦争が終った後、まだ州にもなっていなかったシアトル近郊へ移住すれば、広大な農地が与えられるとの広報を知って応募した。三男だった彼女の祖父に群馬の農地は兄弟で分けるにはあまりに小規模だった。彼女の祖父がアメリカに渡ったのは1896年だった。当時の農家はきっと二宮尊徳の復元された家とたいして変わりなかったであろう。
展示品を見ながら彼女が突然「トヨトミヒデヨシ・・・トクガワイエヤス・・・」と日本語でとうとうと語り始めた。(録音してもらったので、後日聞き取り書き写し全文を掲載する)一気に暗誦を終えると、けげんそうな顔の私に言った。「意味は全く分からない。でもこれは大学で外国語に日本語を選択した時、先生から暗記させられた。いまから60何年も前なのにここへ来たらスラスラと出てきた」
客人は24日成田からシアトルへ帰国した。おそらく最初で最後の訪日であろう。滞在中、私は常にアレモコレモの誘惑に突き動かせられそうになり、その度に妻が注意してくれた。客人が一番希望した私たちとの会話と時間の共有を最優先できた。それでも私は昨日今日と、もぬけの殻のようになっている。
何か大仕事を終えるたびに、全身全心でもぬけの殻になる。何もない宇宙空間を浮遊しているようだ。もぬけの殻になれるのは、それだけそうなる前が充実し満たされていた証拠である。感謝の光がきっと私のもぬけになった殻を占領してくれる。私はその時が訪れるのをじっと待つ。