団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

教師目線

2011年07月15日 | Weblog

 ジムで運動を終えて、暑い陽ざしの中を駅に向かっていた。駅前交番の横断歩道の信号は赤だった。紫外線よけの白ジャケットと白帽子、短パン、首からさげた電車の定期と家の鍵といういでたちは、すこし怪しい雰囲気があったのかもしれない。赤信号なのに一人の若い女性を二人の二十歳前後の若者が挟むようにして、迫り来るクロネコヤマトのトラックをも、まったく気にすることなく肩で風を切るように横切ってきた。左側の若者は、左目の上に金属の鋲のようなものを2個刺していた。まぶしい太陽の光に反射していた。左耳たぶにも大きなわっかがぶらさがっていた。その若者が私を睨みつけて「何見てるんだ」とすごんだ。私は確かに彼を見据えていた。昔から目つきがきついと言われている。カナダへ10代後半で渡り、話すときは人の目を見て話せ、と目を見ないで話す日本式の恥ずかしがりの仕草をうるさく矯正させられた。世界中から移民で異人種が集ってきた出来たカナダでは、自分が危険人物でないこと自ら示すために、すれ違う時、ニカっと微笑んだり、「ハ~イ」と挨拶を交わす。日本に帰国した当時、やっと直した目を見て話すことや挨拶代わりのニカっが原因となり、町でチンピラにからまれるようになった。まさに所変われば、人変わる、を実感した。学校の教師を目指したが、日本の大学を卒業していない人への機会は閉ざされていた。英語塾をひらいて英語を教えるようになった。多くの生徒から「睨みつけられる鬼のような怖い先生」と言われた。このころから私は教師目線になったと思われる。生徒の目を見て、理解しているかいないか、集中して授業を聞いているかいないか、目つき鋭く授業を続けた。そんなふうに20年ちかく教えた。

 再婚して塾をやめ、妻の配偶者となって海外勤務について行った。海外では再び人と話すとき、目をみつめるようになった。それで14年間そこそこ、どこでもその地に馴染んでうまく生活できた。2004年に帰国して、今住む町に終の棲家を購入した。静かに暮らしている。他人と問題を起こす機会はない。

 「何を見てるんだ」とすごんだ若者は、動物のようにカンの鋭い。私は、あきらかに彼を蔑みと哀れみの目で見据えていた。「何を見ているんだ」と問われ、あやうく「あなたが犯した交通規則違反と目の上の鋲と耳のわっかです」と言いそうになった。生徒に質問されると、いかにわかりやすく理解してもらえるようにその質問に答えるかは、教師の職業サガである。すっかり私に染み付いている。この若者は、親、学校教師、学生、若者とも、すれ違いざまにこのような一触即発の状況を生き抜いてきたのだろう。百戦錬磨のつわものなのだ。彼の研ぎ澄まされた動物的センサーは間違いなく私に反応した。他人がどのような気持で彼を見ているかをすばやく見抜くのだ。そして極めつけは、彼が察知した相手の態度に、即、言葉が口から出たことだ。私のような鈍感な者は、言いたいことをただちに、口に出せない。考えることが、気をまわすことが多すぎて、結局いつも機を逸してしまう。


 機敏に反応した若者だったが、近くで私をよく見ると、異常なのは目と風貌で、あとは普通の弱そうなオッサンで闘う相手にふさわしくないということで、それ以上の事が起こらなかったのだろう。私は、すっかりビビっていた。悪い心臓に負担がかかった。こんなことがあって、気分がよいわけがない。まわりの暑さもすっかり忘れ、首のあたりが冷え冷えとした。このような脅威は、熱中症対策になるかもしれない。電車に乗って家に向かった。降りる駅で電車が止まった。リュックに肩下げカバンに両手に買い物袋でドアの前で開くのを待った。私の後ろに降りる客が5,6人いた。開いたとたん、スキンヘッドで黒ずくめの太った若者が女性の手を引いて、乗り込んできて、私に胸からぶつかった。にらまれた。私はさっきの駅前での教訓をさっそく活かして、視線を床に向けた。一難去ってまた一難、大変な暑い日の外出だった。

 冷えた麦茶を片手に座って、テレビをつけると国会中継を放送していた。菅直人さんの目を思い切り見据えた。日本が心配だ。

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