団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

お盆休みと甲子園

2014年08月15日 | Weblog

  妻は、お盆と正月には帰省するという母親との約束で12日13日と田舎へ行った。私は留守番。子供や孫たちは今年も来ない。

  台風の影響で2日開幕が遅れた全国高校野球大会が始まった。普段午前8時15分から夕方6時までの間にテレビを観ることはない。野球といってもプロ野球にはまったく関心がない。そんな私でも甲子園の高校野球観戦は好きである。

 NHKテレビの放送なのでまずコマーシャルがない。下手な新米で個性も話術もないアナウンサーと高校球児の裏取材も知識もない解説者には我慢を強いられる。立て板に水を流すような喋りができる名アナウンサーとか、解説もせめてソチ冬季オリンピックでの三浦豪太さん並の解説者がいればもっと楽しめる。毎日4試合天候さえ良ければ完全中継される。だから朝から夕方までいつでも好きな時に高校野球が観られる。私はどの試合も高校野球なら楽しめる。特に応援する学校はない。長野県出身だから長野県代表を応援する義理人情にも欠ける。出身高校が出場すれば違う気持ちになるが、まだ2度しか出場したことがない。とにかくどこの県のどの学校でも観る。なぜならそこには必ず予期せぬドラマがあるからだ。観戦中、何が起こるか分からないのがたまらない。

 13日の第二試合、市立和歌山高校と広島広陵高校の試合にもドラマがあった。市立和歌山の二塁手山根選手。小柄ながら抜群の守備、打席に立てばバットをブルンブルンと回して打ち気満々。目立とうと思っているのではない。気迫がひとつひとつの動作に現れてしまう。最後の最後の出来事だった。9回裏2対2の同点。市立和歌山の9回表の攻撃は0点。広陵が1点取ればサヨナラ勝ちとなる。2アウト満塁。打者の打ったボールは二塁の山根のグラブに吸い込まれた。誰もが山根がバックホームの捕手か2塁へ送球すると思った。山根は1塁へ送球。その前に3塁にいた走者はホームイン。広陵のサヨナラ勝ち。山根は自分が何をしたのか知り、号泣しグランドに伏した。

 高校野球の楽しみはいくつかある。私はメモ帳片手に珍しい苗字や名前を探す。今年の逸品は二十八(読み方は文末参照)である。他にもいちいち帽子を脱ぎ頭を下げる選手監督の礼儀正しさ、アルプススタンドで展開される両校在校生の応援合戦、ベンチ入りできなかった部員たちのちょっと切ない大声を出しての応援、毎年改良されるユニフォーム、ヘルメット、防具、野球帽、グラブ、スパイク、金属バット。無名の選手の美技に(写真参照:捕手のアクロバットのような捕球)、チームワークの良さに、監督の采配に、バッテリーの駆け引きの上手さに、応援団の女子チェアリーダーのリズミカルな身のこなしに、吹奏楽部の演奏に、グランド整備員の芸術的な整地に、審判の判定に、耳も目も奪われる。

 何万人というグランドの周りをぐるっと取り囲む、まるでローマ時代の競技場のような雰囲気を醸し出す球場。すり鉢の底のようなグランドに観客の熱と直射日光によって温度は砂漠のように上昇する。選手も審判も観客にも家の中でテレビ観戦する私にとっても体力を必要とする。

 どの出場校も各都道府県での優勝校である。試合は勝ち負けのどちらかしかない。無情。

 全国高校野球選手権大会を観るたびに思うことがある。一校で130人もの部員がいる学校もある。これだけの部員がいてもベンチ入りできるのは、18名である。日本では早いうちから野球、水泳、サッカー、柔道などスポーツを特定して一筋に頂点目指してポジション取りに邁進する。どのスポーツも競技人口が多いほど良い選手を輩出できる。野球は恵まれたスポーツである。スポーツ振興を考えればモッタイナイ話である。野球が盛んなのはアメリカ、日本、韓国、キューバなど世界でも限られている。

 私がモッタイナイなどと思いながらも選手たちは野球に全身全霊で打ち込んでいる。だからこそ見応えがある。私も雑念を払い応援する。私のお盆休みに高校野球は、なくてはならない大切なものである。

 (参照:二十八はツチヤと読む。ツズヤとも読むこともある)

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