日航ジャンボ機123便の事故から20年たった。
1985年8月12日の夕方、わたしが外出先から帰ってくると、「日航のジャンボ機が行方不明になった」と、テレビもラジオも報道しているところだった。ジャンボ機などという大きなものが、消えるはずがない??誰もが事故を予想した。夜になって「墜落した」との一報が入ったが、今度は墜落場所が確定できない。結局、墜落位置を自衛隊機が確認したのは、翌朝の日の出のあとだった。
13日のお昼近くになって、生存者がいるというニュースが入った。4名が奇跡的に生存。520名が死亡。
生存者の証言により、墜落直後には他にも生存者がいたことがわかって、当局の対応の遅れが批判された。なぜなら、地元の人間や一部の機関が、早い段階で墜落場所を突きとめていたのにもかかわらず、そして航空自衛隊が救助活動のために早い時期からスタンバっていたにもかかわらず、救助要請をすべき機関による救助要請が遅れ、しかも墜落場所についての情報が混乱し、実際の救助活動が不必要に遅れたからだ。
事故後、しばらくはこの事故のニュースばかりが流れた。回収されたボイスレコーダーが公開され([追記]参照)、各テレビ局は検証番組を流した。(検証番組には、ノンフィクション作家の柳田邦男氏がひんぱんに登場した。)ボイスレコーダーからは、パイロットたちが絶望的な状況のなかで、最後まで何とか機体をコントロールしようと、最大限の努力をしていた様子が聴いてとれた。わたしはボイスレコーダーの中の、機長の「気合を入れろ」と「これはだめかもわからんね」という言葉、そして事故直前の自動音声による無機質な "Pull up"の連続警告音が耳に残っている。
[追記] 2005.08.13
ボイスレコーダーは正式には公開されず、わたしたちが聴いたのはメディア各社が独自に入手した「ボイスレコーダーの録音の一部」だった。ボイスレコーダーの全録音は、いまもって公開されていない。そのため、これが「実はボイスレコーダーには、公けになってはまずいことが録音されていたため、公開できないのだ」と、「陰謀説」の根拠のひとつにもなっている。
以下の箇条書きは、わたしが覚えているあの事故に関するいくつかの情報だ。確固たる事実も、証言はあっても事実かどうかの確認がされていないものも、噂レベルのものもある。
事故の正確な原因は、いまもって不明だ。事故調査委員会は修理ミス原因となった圧力隔壁の損壊が原因であると結論づけたが、生存者の1人であった客室乗務員は、圧力隔壁の破損が原因であれば起こるはずの急減圧はなかったと証言している。
そして、今でも遺体の一部は出てくるらしい。
あらためて合掌
1985年8月12日の夕方、わたしが外出先から帰ってくると、「日航のジャンボ機が行方不明になった」と、テレビもラジオも報道しているところだった。ジャンボ機などという大きなものが、消えるはずがない??誰もが事故を予想した。夜になって「墜落した」との一報が入ったが、今度は墜落場所が確定できない。結局、墜落位置を自衛隊機が確認したのは、翌朝の日の出のあとだった。
13日のお昼近くになって、生存者がいるというニュースが入った。4名が奇跡的に生存。520名が死亡。
生存者の証言により、墜落直後には他にも生存者がいたことがわかって、当局の対応の遅れが批判された。なぜなら、地元の人間や一部の機関が、早い段階で墜落場所を突きとめていたのにもかかわらず、そして航空自衛隊が救助活動のために早い時期からスタンバっていたにもかかわらず、救助要請をすべき機関による救助要請が遅れ、しかも墜落場所についての情報が混乱し、実際の救助活動が不必要に遅れたからだ。
事故後、しばらくはこの事故のニュースばかりが流れた。回収されたボイスレコーダーが公開され([追記]参照)、各テレビ局は検証番組を流した。(検証番組には、ノンフィクション作家の柳田邦男氏がひんぱんに登場した。)ボイスレコーダーからは、パイロットたちが絶望的な状況のなかで、最後まで何とか機体をコントロールしようと、最大限の努力をしていた様子が聴いてとれた。わたしはボイスレコーダーの中の、機長の「気合を入れろ」と「これはだめかもわからんね」という言葉、そして事故直前の自動音声による無機質な "Pull up"の連続警告音が耳に残っている。
[追記] 2005.08.13
ボイスレコーダーは正式には公開されず、わたしたちが聴いたのはメディア各社が独自に入手した「ボイスレコーダーの録音の一部」だった。ボイスレコーダーの全録音は、いまもって公開されていない。そのため、これが「実はボイスレコーダーには、公けになってはまずいことが録音されていたため、公開できないのだ」と、「陰謀説」の根拠のひとつにもなっている。
以下の箇条書きは、わたしが覚えているあの事故に関するいくつかの情報だ。確固たる事実も、証言はあっても事実かどうかの確認がされていないものも、噂レベルのものもある。
- 機長の家には、その後何年も嫌がらせの電話が続いたらしい。
- 現在までに見つかっている機長の遺体は、顎の骨の一部だけらしい。
- 生存者の1人だった少女は、その後ストーカーのようなマスコミや「ファン」から追い回され、「自分もあのとき死んでいたほうがよかった」と、一時は語るほどになっていたらしい。
- 遺族がもらう補償金目当てに、「再婚してほしい」「融資して欲しい」などと遺族に近づいて人などがいたらしい。
- 当時の日航のシンボルがツルのマークであったことから、のちに千羽鶴を折って慰霊碑に持っていった遺族が、他の遺族に「ツルなんて非常識だ」と非難された。
- 新聞記事の現場の写真に、遺体をそのまま写したような写真はほとんどなかった。(記憶が正しければ、1971年のばんだい号の事故のときは、たしか相当悲惨な写真??例えば遺体の一部が樹に引っかかっているような写真??がそのまま、大きく掲載されていたはずだ。このときに新聞各紙は、このような悲惨で残酷な写真を掲載したことでかなりの批判を受け、その後、あまりにも悲惨な事故現場の写真は載らなくなった。)
- 新聞は悲惨すぎる写真を掲載しなかったが、週刊誌はまさに遺体の一部が樹に引っかかっている写真を含めた、悲惨な状態の遺体の写真を続々と掲載した。(現在でもそのような写真はネットで閲覧することができるが、あえてURLは載せないでおく。)
- 事故後のマスコミの傍若無人なふるまいは、かなりひどかったらしい。
- 当時のラジオで聞いた話だが、遺族の中にも上野村において「いくら遺族だといえ、そんな態度をとっていいのか」という状態の人もいたらしい。もちろん遺族の方々の悲しみと怒りがそうさせたものだろうが。
- 事故より10年後に、当時横田基地にいた米国の元軍人が、日航機事故についての爆弾発言をした。彼の発言によると、日航機事故の2時間に、米軍ヘリは事故現場に到着した。そこでそのヘリからロープによる隊員降下が行われようとしたが、日本側の要請で中止になったという。(空安全国際ラリー組織委員会の「日航ジャンボ機御巣鷹の尾根墜落事故」参照)
- 犠牲者の中に、「スキヤキ」で世界に知られている坂本九氏がいた。
- あの混乱の32分(事故発生から墜落までの時間)の中で、「本当に今迄は幸福な人生だったと感謝している」と妻や子供に遺書を書いた男性がいた。この話は、乗客たちが最後まで冷静に対処した証拠として、当時ひんぱんに取り上げられた。
事故の正確な原因は、いまもって不明だ。事故調査委員会は修理ミス原因となった圧力隔壁の損壊が原因であると結論づけたが、生存者の1人であった客室乗務員は、圧力隔壁の破損が原因であれば起こるはずの急減圧はなかったと証言している。
そして、今でも遺体の一部は出てくるらしい。
人の骨片か 御巣鷹の尾根でみつかる
慰霊登山が続く群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」で12日朝、人の骨らしい骨片が見つかった。長年、墜落現場周辺で残存機体を回収している地元の関係者や歯科医師が目で見て確認し、「人の頭蓋骨(ずがいこつ)に間違いない」と述べた。
[朝日新聞]2005.08.12
http://www.asahi.com/national/update/0812/TKY200508120222.html
あらためて合掌