映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

フローズン・リバー

2010年02月17日 | 洋画(10年)
 『フローズン・リバー』を渋谷シネマライズで見ました。
 予告編を見てこれは良い映画に違いないと思ったので、公開されたら早速見に行ってきました。

(1)実際にも、予想に違わず感動的な映画でした。
 映画は、アメリカ東部のセントローレンス川を間に挟んでカナダにも広がるインデアン保留地での物語であり、まさに初めて見る地域の様子ですからそれだけでも興味深いところ、画面に何度も登場する凍てついた川のように、描かれている二組の親子の生活も実に寒々しいものの〔アメリカにおける貧困の問題!〕、そんな中にあっても、映画に登場する二人の母親の人間性は土壇場で損なわれず、雪解けする春以降には光明が期待されるラストになっていて、観客には大きな感動がもたらされます。

 演じる俳優たちも、日本では余り知られていなものの、大層充実しています。
 この映画で女性の主人公レイを演じるメリッサ・レオは、働き口で得られるわずかな賃金を貯めて拵えた住宅購入資金を夫に持ち逃げされ、子供二人とトレーラーハウスに取り残されるという惨めな役柄を、素晴らしい演技力で演じています。
 また、レイと組んで東洋人の密入国をサポートするライラを演じるミスティア・アップハムも、インデアン・モホーク族の女性を、存在感のある演技で演じています。

 今少し内容に立ち入ると、この作品は、昨年見た韓国映画『母なる証明』の米国版とも言えるかもしれません。
 両者とも、男女の関係はほとんど描かれていません。二つの作品とも父親はまったく登場しないのです。といっても、『フローズン・リバー』では、長男が何度も「父親はどうした、なぜ探そうとしないのか」と母親につめよったりするので、マイナス要因としては存在しているかもしれないところ、『母なる証明』では全く何の言及もされません〔ただ、『母なる証明』では、息子の友達と愛人の関係が、若干描かれてはいます〕。
 いずれにせよ、二つの作品では、母親の子供に対する大きな思いがじっくりと描かれています。そうした思いが強すぎるのでしょう、どちらにおいても母親は犯罪に手を染めてしまいます。
 
 とはいえ、むしろ、違う点の方が多いとも思えます。
 『母なる証明』の方は、一組の母と子の関係が描かれているところ、『フローズン・リバー』の方は、二組の母と子の関係が映し出されています。
 さらに、『母なる証明』における母親は殺人事件を引き起こしてしまいますが、『フローズン・リバー』では、レイによって犯される罪は密入国の幇助に過ぎません。ただ、前者では、殺人の事実は明らかにされないために母親は警察に捕まらない一方、後者においては、レイは簡単に捕まって、4か月の刑務所入りになってしまいます。
 また、『母なる証明』における息子は知的障害者で、自分がやったこと〔女子高生を殺害〕を十分に認識できません。他方、『フローズン・リバー』における長男は、なんとか家計を助けようと売れる見込みのないメリーゴーランドを作ったり、詐欺事件を引き起こしたりしますが、マア普通の男の子でしょう。
 加えて、なんといってもやはり、『母なる証明』における母親と息子の関係には、東洋的な粘度の高さが強く感じられる一方、『フローズン・リバー』の母親・レイは、息子の将来における自立を考え、できるだけ一個の人格として扱うようクールに対応していると言っていいでしょう〔いわゆる西欧的なのでしょうか〕。

(2)ところで、この映画を見た直後に、吉村仁著『強い者は生き残れない―環境から考える新しい進化論』(新潮選書、2009.11)を読みましたら、その中に「個体選択」と「集団選択」という概念が論じられていました。
 すなわち、進化論では、集団選択(「生物は種全体に有利になるように行動する」という考え方)は極めて限定的とされ、個体選択(「生物が行動する動機は、必ず個体の利益になり、自分の子孫をヨリ多く残すことにつながらなければならない」とする考え方)による見方が一般的には定着している、とのことです。
 要すれば、身の危険を冒してまで溺れている他人の子を助けようとする「利他行動」は、一般の進化論では排除されてしまうようなのです。

 ですが、進化論からは排除されていても、実際には様々の生物がイロイロな利他行動をとっているのを目にします。そこで、「集団レベル選択」(「種」というレベルではなく、「村落」などのレベルで「集団選択」を考える)とか「血縁選択」(血縁度の高い相手に対しては利他行動をする)といった考え方も提起されています。

 では、映画『フローズンリバー』で、主役の母親レイがラストでとった“利他的”な行動(自分が刑務所に入るという犠牲を払うことによって、もう一人の母親ライラが自分でその赤ん坊を育てられるようにした)は、どのように進化論的な見地からは説明されるのでしょうか?

(3)評論家の皆さんは、総じて高い評価を与えています。
 山口拓朗氏は、「クライマックスで用意される究極の選択において、レイとライラの思いは完全にクロスする。ふたりがそれぞれに下した決断が意味する"慈愛"と"救い"こそが、この映画の真価だと断言してもいい」などとして85点もの高得点を、
 渡まち子氏は、「全編、雪と氷の寒々しい映像が続くのだが、母として女性としてしっかりと前を向く彼女たちの姿に心が震えた」。「派手なアクション映画や、TVの延長のようなドラマが悪いとは言わない。だが、地味でハードだがクオリティは極めて高いこんな秀作を見てこそ映画ファンだ」として75点を、
 福本次郎氏は、「女の友情、弱い者同士の互助精神、そして何より子を想う母の気持ち。そこでレイは己にできる最善の道を選ぶことで、ライラ母子も自分の息子たちも幸せに暮らせるように計らう」。「ラストシーンは、貧しさの中でも世の中捨てたものではないという希望に満ち溢れていた」として70点を、
それぞれつけています。

 山口氏の評点はあるいは高すぎるかもしれませんが、いずれの評論家もラストシーンにいたく感動したことは間違いないようです。

★★★★☆


象のロケット:フローズンリバー