映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ディア・ドクター

2009年07月15日 | 邦画(09年)
 有楽町のシネカノンにて「ディア・ドクター」を見ました。

 予告編などから、もしかしたらこの映画はニセ医者の話で、最初は周囲に気づかれなかったもののある時点でその事実が明るみになって云々、という筋立てなのではと思っていました。
 ところが、鶴瓶扮する主人公がニセ医者であることは、映画を見ているとそんなに時間が経過せずとも観客に分かりますし、看護師(余貴美子)や営業マン(香川照之)もハナから知っているように描かれています。そればかりか、村の人々がある程度気づいているような素振りをします。
 そうだとするとこの映画は、いつどういう経過で真実が明かされるのかというサスペンス的な要素は重要ではなく、何か別の狙いを持っているのではと見る者に思わせます。
 予告編でも強調されているように、一つは“嘘”を巡るお話といったことでしょう。主人公は、ニセ医者という大きな“嘘”をつきながらも―毎日の診断が、細かい“嘘”の集積となるでしょう―、八千草薫の病状について周囲に“嘘”をつき通そうとする、という具合に“嘘”の中にさらに“嘘”があるという構造になっているようです。

 とはいえ、主人公の人間性・人柄によって、それが悲惨な状況に陥る前に事態が丸く収まるように描かれている点で、訴えかけるものがやや弱いような感じがしてしまいます〔「ゆれる」の場合には、香川照之は本当に真木よう子を殺したのかどうか等に関する解釈は、観客が様々に受け取ることが出来るように描かれていました〕。

 それに、この映画は、主人公を演ずる鶴瓶の演技力というよりも、むしろ鶴瓶という落語家自身の人間性・人柄に相当依存しているように思われます。
ですが、程度問題ながら、フィクションとしての映画に“地”が全面的に出てしまうのは“禁じ手”ではないのか、“嘘”を演技力で“真実”らしくみせるのが映画ではないのか、演技力という点では研修医を演じる瑛太がかなり優れているな、などと余計なこと事を考えてしまいます。
 〔なお、『週刊文春』の「本音を申せば」で小林信彦氏は、「テレビでちらちらと見かける風貌からして、人気はあるのだろうが、この人は善人ではない、と思っている。その暗さが、「ディア・ドクター」では、アップの眼鏡の奥の細い目に生かされている」と述べて、普通の受け取り方とはかなり違う人物像を提示しています!こちらは、撮影ロケ地の村人全員と親しくなった、などというマスコミ情報を鵜呑みにしているだけで、小林氏のような、長年鋭く人を見てきた情報通の話の方が信用できるのかもしれません!〕

 しかしながら、ラストの入院シーンでお茶を配るところがあります(それも鶴瓶が八千草薫に)。私が一時入院していたときにも、マッタク同様に朝昼晩3回、お茶が派遣職員によって配られました(その後暫くしてから食事が始まります)。
この場面がキチンと描かれていたことから、何はともあれ私にとっては、この映画は○となりました〔ですが、このシーン自体は、見る者に一意的な解釈を迫っていて、蛇足ではないかと思っているところですが!〕。

 それから、八千草薫と井川遥との親子関係において、親は子供が立派になるよう最大限のサポートをしながらも、だからといって子供の負担になるようなことはしたくない、というように描かれているところ、その点は随分と共感するところがありました(マア当たり前と言えば当たり前の親心なのでしょうが)。

 総じて言えば、この映画では、八千草薫の存在感と演技力に一番目を惹きつけられました〔小林信彦氏が鶴瓶について言うのを真似ると、彼女は、いつまでも“可愛らしく弱々しいお嬢さん俳優”で通っているものの、実は随分と強かな計算の出来る女性ではないか、と思っています〕。

 なお、NHK番組「鶴瓶の家族に乾杯」で、大女優で年齢もかなり離れている八千草薫に対し、鶴瓶が随分親しそうに接していたのにチョット違和感を感じていたところ、この映画を見て腑に落ちました。