『ウォルト・ディズニーの約束』を新宿武蔵野館で見ました。
(1)タイトルからはパスしようと思っていたものの、評判が良さそうなので映画館に行ってみました。
本作は、映画『メリー・ポピンズ』(1964年)の原作者であるパメラ・トラヴァース(エマ・トンプソン)の幼いころの光景から始まります。
時は1906年とされ、場所はオーストラリア(注1)。
映し出される女の子の姿に大人の女性が次第にかぶさってきて、画面は1961年のロンドンに。
部屋の中央に置かれた机に置かれたタイプライターを前にして、トラヴァースが、昔を思い出しています。
そこにドアのベルの音が。
彼女がドアを開けると、代理人・ラッセルが部屋に入ってきます。
ラッセルが、「あなたは、本が売れず収入がないにもかかわらず、本を書かない」、「それでいて、脚本を承認しない」(注2)と文句を言うと、トラヴァースは「彼女は私の全て。ロスなんてとても行けない」と答えますが、さらに彼が、「2週間だけのこと、気に入らなければ承認しなければいい」と押すと、彼女も「この家を手放したくない」と言ってロス行きをしぶしぶ認めます。
次いで、画面は再び昔のオーストラリアに。
父親(コリン・ファレル)が、娘のギンティ(アニー・ローズ・バックリー)(注3)に「王女を見かけませんでした?」と尋ねると、ギンティは「私よ」と答えます。すると父親は、「良かった、王女を見失って死刑かと。準備はいいかな?では、旅が始まるぞ!」と叫び、娘を肩に抱いて進んでいきます。
ここから、一方では、ロスに向かう飛行機に搭乗したトラヴァースが、他方ではオーストラリアのマリーボローからアローラに移り住むトラヴァースの一家が交互に描かれます。
そしてついに、トラヴァースは、ロスのディズニー・プロダクションで、ウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)や、脚本家・ダグラディ(ブラッドリー・ウィットフォード)、作曲家のリチャード・シャーマン(ジェイソン・シュワルツマン)、作詞家のロバート・シャーマン(B.J.ノヴァック)たちと、映画化に向けての話し合いをすることになります。
でも、万事につけて頑なな態度をとるトラヴァースとディズニー側との話し合いは、はたしてうまくいくのでしょうか、………?
本作は、邦題(注4)からするとウォルト・ディズニーが主役のように思えますが、むしろパメラ・トラヴァースに専ら焦点が当てられ、幼いころのオーストラリアでの生活が何度も途中で回想され、それが映画『メリー・ポピンズ』と絡まり、なぜ彼女がディズニーの映画化に積極的になれないか(交渉に20年もかかりました)を次第に明らかにしていくという構成をとっていて、他愛ないディズニー物という先入観を吹き飛ばしてくれるなかなかの出来栄えの作品だなと思いました。
主演のエマ・トンプソンは、『新しい人生のはじめかた』では実年齢よりも5歳~10歳若い役柄を、本作では逆に7歳ほど上の役柄を、どちらも実に巧みにこなしています。また、トム・ハンクスは、『キャプテン・フィリップス』で達者な演技を見たばかりですが、本作でもウォルト・ディズニーをごく自然に演じていてすごいなと思いました(注5)。
(2)本作を見て、コリン・ファレルが扮するトラヴァースの父親の興味を持ちました(注6)。
劇場用パンフレットに掲載されている森恵子氏のエッセイ「P.L.トラヴァースと映画『メリー・ポピンズ』を結ぶもの」によれば、父親のトラヴァース・ゴフは、「ロンドン生まれ。海運業者の次男で、オーストラリアに移住して砂糖きび農園の監督などを経て、マリーボローでオーストラリア合資銀行の支店長になった」そうです。
その彼は、大のアイルランド贔屓で、「自分をアイルランド人と称し」、アイルランドの「神話や伝説を愛し、アイルランドのすることで悪いことはひとつもない」と思っていたようです。
上記の(1)で紹介しましたように、映画でも、自分の娘をアイルランドの王女に見立てたり、さらには、「アルバート叔父さんを魔女が馬に変えたんだ」と言ったり、娘と馬にまたがって空を駆け巡ろうとしたりします(注7)。
どうやらトラヴァース・ゴフは、『LIFE!』のウォルターとか、『白ゆき姫殺人事件』の城野美姫のように(さらには、TV番組をドラマ『花子とアン』の花子のように)、空想癖の随分と強い人物のように思われます。
そうした性向を娘のトラヴァースも受け継ぎ、魔法を使うナニー(ベビーシッター)が活躍する児童文学『メアリー・ポピンズ』のシリーズ(1934年~1988年)を書くことになったものと思われます。
そして、その映画化の交渉に20年にわたって取り組み続けたウォルト・ディズニーもまた、斬新なアニメを次々と制作したり、ディズニーランドを作ったりと、やっぱり偉大な空想家といえるでしょう(注8)。
本作は、もしかしたら、この三つ巴(トラヴァース・ゴフ―パメラ・トラヴァース―ウォルト・ディズニー)の構造を一つの作品の中で描き出したものといえるのではないかと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「傑作ミュージカル映画「メリー・ポピンズ」誕生秘話を描くヒューマン・ドラマ「ウォルト・ディズニーの約束」。映画製作の裏話としても十分に楽しめる」として65点をつけています。
森直人氏は、「建築に喩(たと)えると、シンプルな外観のわりに意外と込み入った内装まできっちり構築された秀作だ」と述べています。
宇田川幸洋氏は、「過去のトラウマが小出しにされていくあたりは単調だが、「メリー・ポピンズ」製作・完成に近づいていくと、やはりこころおどる」と述べています。
安部偲氏は、「全体としては柔らかな雰囲気の出来上がり。そこに実話というエッセンスがふりかけられ、あのウォルト・ディズニーにこんなエピソードが、『メリー・ポピンズ』にはこんな製作秘話がと、知識欲も満たしてくれる点が嬉しい。見終わったあとの満足度はかなり高いに違いない」と述べています。
(注1)「東の風が吹き、何か不思議なことが起きそうな予感がする」との歌声がはいってきますが、これは映画『メリー・ポピンズ』と同じような出だしです。
(注2)ディズニーは、トラヴァースが書いた『メアリー・ポピンズ』(1934年)を映画化しようと、それまで彼女と20年近く契約交渉をしていました。
(注3)ギンティ(Ginty)はアイルランドの名字で、父親は娘のパメラ・トラヴァースのことをこう呼んでいました。
(注4)邦題は、ウォルト・ディズニーが、『メアリー・ポピンズ』を映画化するという約束を自分の娘との間でしたこと、さらにいえば、作者の意を汲んだ映画にするという約束をトラヴァースとの間でしたこと(「あなたのメアリー・ポピンズを私に託して欲しい」)を踏まえているのでしょう。
(注5)トラヴァースの父親役のコリン・ファレルは、『ウディ・アレンの夢と犯罪』で見ました。
また、トラヴァースがロスの空港に降り立った時に出迎える車の運転手・ラルフを演じるポール・ジアマッティは『スーパー・チューズデー』や『それでも夜は明ける』(奴隷商人役)で見ました。
(注6)映画『メリー・ポピンズ』に登場するバンクス氏のモデルは父親であり、例えばトラヴァースは、そのバンクス氏にヒゲを付けることに反対します。なにしろ、トラヴァースの回想によれば、父親はヒゲを剃りながら「お前のためにヒゲを剃るんだよ。キスをするのに、ヒゲがあるのとないのとではどっちがいい?」と娘に言うくらいなのです。
(注7)さらには、トラヴァースが、学校で褒められた詩を父親に見せると、彼は「イェイツには程遠いな」と言ったりするのです。
(注8)だからこそ、本作におけるウォルト・ディズニーは、「実は、私にもバンクス氏はいる」と話し始め、ナニーのメアリー・ポピンズは子供たちではなく、トラヴァースの父親(トラヴァース・ゴフ)を助けにやってきたんだということを理解し、さらに「もうヘレン・ゴフ(トラヴァースの本名)を許してあげるべきだ」とトラヴァースに言ったのではないでしょうか?
そして、トラヴァースの父親をモデルとするバンクス氏を映画の中で描くことによって、父親を救うことにもなると言ったのでしょう。
そういったことを踏まえて、本作の原題が「Saving Mr. Banks」となっているものと思われます。
(注9)むろん、本作は、事実に忠実な伝記作品ではなく、大部分はフィクションでしょうが、事実に基づく部分もかなり取り込まれているようです(例えば、エンドロールでは、『メリー・ポピンズ』の脚本についてトラヴァースとディズニー側との間で行われた実際の話し合いの録音記録が流れますが、本作でもかなりそれに近い会話がなされます)。
★★★★☆☆
象のロケット:ウォルト・ディズニーの約束
(1)タイトルからはパスしようと思っていたものの、評判が良さそうなので映画館に行ってみました。
本作は、映画『メリー・ポピンズ』(1964年)の原作者であるパメラ・トラヴァース(エマ・トンプソン)の幼いころの光景から始まります。
時は1906年とされ、場所はオーストラリア(注1)。
映し出される女の子の姿に大人の女性が次第にかぶさってきて、画面は1961年のロンドンに。
部屋の中央に置かれた机に置かれたタイプライターを前にして、トラヴァースが、昔を思い出しています。
そこにドアのベルの音が。
彼女がドアを開けると、代理人・ラッセルが部屋に入ってきます。
ラッセルが、「あなたは、本が売れず収入がないにもかかわらず、本を書かない」、「それでいて、脚本を承認しない」(注2)と文句を言うと、トラヴァースは「彼女は私の全て。ロスなんてとても行けない」と答えますが、さらに彼が、「2週間だけのこと、気に入らなければ承認しなければいい」と押すと、彼女も「この家を手放したくない」と言ってロス行きをしぶしぶ認めます。
次いで、画面は再び昔のオーストラリアに。
父親(コリン・ファレル)が、娘のギンティ(アニー・ローズ・バックリー)(注3)に「王女を見かけませんでした?」と尋ねると、ギンティは「私よ」と答えます。すると父親は、「良かった、王女を見失って死刑かと。準備はいいかな?では、旅が始まるぞ!」と叫び、娘を肩に抱いて進んでいきます。
ここから、一方では、ロスに向かう飛行機に搭乗したトラヴァースが、他方ではオーストラリアのマリーボローからアローラに移り住むトラヴァースの一家が交互に描かれます。
そしてついに、トラヴァースは、ロスのディズニー・プロダクションで、ウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)や、脚本家・ダグラディ(ブラッドリー・ウィットフォード)、作曲家のリチャード・シャーマン(ジェイソン・シュワルツマン)、作詞家のロバート・シャーマン(B.J.ノヴァック)たちと、映画化に向けての話し合いをすることになります。
でも、万事につけて頑なな態度をとるトラヴァースとディズニー側との話し合いは、はたしてうまくいくのでしょうか、………?
本作は、邦題(注4)からするとウォルト・ディズニーが主役のように思えますが、むしろパメラ・トラヴァースに専ら焦点が当てられ、幼いころのオーストラリアでの生活が何度も途中で回想され、それが映画『メリー・ポピンズ』と絡まり、なぜ彼女がディズニーの映画化に積極的になれないか(交渉に20年もかかりました)を次第に明らかにしていくという構成をとっていて、他愛ないディズニー物という先入観を吹き飛ばしてくれるなかなかの出来栄えの作品だなと思いました。
主演のエマ・トンプソンは、『新しい人生のはじめかた』では実年齢よりも5歳~10歳若い役柄を、本作では逆に7歳ほど上の役柄を、どちらも実に巧みにこなしています。また、トム・ハンクスは、『キャプテン・フィリップス』で達者な演技を見たばかりですが、本作でもウォルト・ディズニーをごく自然に演じていてすごいなと思いました(注5)。
(2)本作を見て、コリン・ファレルが扮するトラヴァースの父親の興味を持ちました(注6)。
劇場用パンフレットに掲載されている森恵子氏のエッセイ「P.L.トラヴァースと映画『メリー・ポピンズ』を結ぶもの」によれば、父親のトラヴァース・ゴフは、「ロンドン生まれ。海運業者の次男で、オーストラリアに移住して砂糖きび農園の監督などを経て、マリーボローでオーストラリア合資銀行の支店長になった」そうです。
その彼は、大のアイルランド贔屓で、「自分をアイルランド人と称し」、アイルランドの「神話や伝説を愛し、アイルランドのすることで悪いことはひとつもない」と思っていたようです。
上記の(1)で紹介しましたように、映画でも、自分の娘をアイルランドの王女に見立てたり、さらには、「アルバート叔父さんを魔女が馬に変えたんだ」と言ったり、娘と馬にまたがって空を駆け巡ろうとしたりします(注7)。
どうやらトラヴァース・ゴフは、『LIFE!』のウォルターとか、『白ゆき姫殺人事件』の城野美姫のように(さらには、TV番組をドラマ『花子とアン』の花子のように)、空想癖の随分と強い人物のように思われます。
そうした性向を娘のトラヴァースも受け継ぎ、魔法を使うナニー(ベビーシッター)が活躍する児童文学『メアリー・ポピンズ』のシリーズ(1934年~1988年)を書くことになったものと思われます。
そして、その映画化の交渉に20年にわたって取り組み続けたウォルト・ディズニーもまた、斬新なアニメを次々と制作したり、ディズニーランドを作ったりと、やっぱり偉大な空想家といえるでしょう(注8)。
本作は、もしかしたら、この三つ巴(トラヴァース・ゴフ―パメラ・トラヴァース―ウォルト・ディズニー)の構造を一つの作品の中で描き出したものといえるのではないかと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「傑作ミュージカル映画「メリー・ポピンズ」誕生秘話を描くヒューマン・ドラマ「ウォルト・ディズニーの約束」。映画製作の裏話としても十分に楽しめる」として65点をつけています。
森直人氏は、「建築に喩(たと)えると、シンプルな外観のわりに意外と込み入った内装まできっちり構築された秀作だ」と述べています。
宇田川幸洋氏は、「過去のトラウマが小出しにされていくあたりは単調だが、「メリー・ポピンズ」製作・完成に近づいていくと、やはりこころおどる」と述べています。
安部偲氏は、「全体としては柔らかな雰囲気の出来上がり。そこに実話というエッセンスがふりかけられ、あのウォルト・ディズニーにこんなエピソードが、『メリー・ポピンズ』にはこんな製作秘話がと、知識欲も満たしてくれる点が嬉しい。見終わったあとの満足度はかなり高いに違いない」と述べています。
(注1)「東の風が吹き、何か不思議なことが起きそうな予感がする」との歌声がはいってきますが、これは映画『メリー・ポピンズ』と同じような出だしです。
(注2)ディズニーは、トラヴァースが書いた『メアリー・ポピンズ』(1934年)を映画化しようと、それまで彼女と20年近く契約交渉をしていました。
(注3)ギンティ(Ginty)はアイルランドの名字で、父親は娘のパメラ・トラヴァースのことをこう呼んでいました。
(注4)邦題は、ウォルト・ディズニーが、『メアリー・ポピンズ』を映画化するという約束を自分の娘との間でしたこと、さらにいえば、作者の意を汲んだ映画にするという約束をトラヴァースとの間でしたこと(「あなたのメアリー・ポピンズを私に託して欲しい」)を踏まえているのでしょう。
(注5)トラヴァースの父親役のコリン・ファレルは、『ウディ・アレンの夢と犯罪』で見ました。
また、トラヴァースがロスの空港に降り立った時に出迎える車の運転手・ラルフを演じるポール・ジアマッティは『スーパー・チューズデー』や『それでも夜は明ける』(奴隷商人役)で見ました。
(注6)映画『メリー・ポピンズ』に登場するバンクス氏のモデルは父親であり、例えばトラヴァースは、そのバンクス氏にヒゲを付けることに反対します。なにしろ、トラヴァースの回想によれば、父親はヒゲを剃りながら「お前のためにヒゲを剃るんだよ。キスをするのに、ヒゲがあるのとないのとではどっちがいい?」と娘に言うくらいなのです。
(注7)さらには、トラヴァースが、学校で褒められた詩を父親に見せると、彼は「イェイツには程遠いな」と言ったりするのです。
(注8)だからこそ、本作におけるウォルト・ディズニーは、「実は、私にもバンクス氏はいる」と話し始め、ナニーのメアリー・ポピンズは子供たちではなく、トラヴァースの父親(トラヴァース・ゴフ)を助けにやってきたんだということを理解し、さらに「もうヘレン・ゴフ(トラヴァースの本名)を許してあげるべきだ」とトラヴァースに言ったのではないでしょうか?
そして、トラヴァースの父親をモデルとするバンクス氏を映画の中で描くことによって、父親を救うことにもなると言ったのでしょう。
そういったことを踏まえて、本作の原題が「Saving Mr. Banks」となっているものと思われます。
(注9)むろん、本作は、事実に忠実な伝記作品ではなく、大部分はフィクションでしょうが、事実に基づく部分もかなり取り込まれているようです(例えば、エンドロールでは、『メリー・ポピンズ』の脚本についてトラヴァースとディズニー側との間で行われた実際の話し合いの録音記録が流れますが、本作でもかなりそれに近い会話がなされます)。
★★★★☆☆
象のロケット:ウォルト・ディズニーの約束
おっしゃるように、邦題では「見る前には判断を誤りかねないタイトル」だと思いました。
もちろん、原題の「Saving Mr.Banks」ではクマネズミには何のことかわからなかったでしょうが、かといって、「ウォルト・ディズニーの約束」とされると、またぞろディズニー叔父さんが子供たちにするお約束のことなのかな、と思って足が遠のいてしまいます。
私も邦題にはずいぶん違和感を持ってました。
鑑賞後には、こういう邦題もありかなとは思いましたが、
見る前には判断を誤りかねないタイトルだと思います。
おっしゃるように、映画の原題を「Walt Disney's promiss」(→「The Promise of Walt Disney」)として、娘との間では「約束」、パメラ・トラヴァースとの間では「契約」だと解釈すれば、随分と意味深長なタイトルを持った映画となるかもしれません!
邦題は「ウォルト・ディズニーの約束」。これを英語に直訳すると「Walt Disney's promiss(ウォルト・ディズニーの契約)」になってしまう所に眩暈を感じたり感じなかったり。