『レヴェナント 蘇えりし者』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)主演のディカプリオがアカデミー賞主演男優賞を受けたというので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夜、横になっている主人公のヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)が、先住民の言葉で息子のホーク(フォレスト・グッドラック)に、「大丈夫だ、息子よ。早く終わって欲しいとお前は望んでいる。父さんが付いている。ずっとそばにいる。諦めてはいけない。いいな。息が続く限り戦うのだ。息をしろ、息を続けるのだ」と語りかけています。
その際に、グラスが妻(グレイス・ドーヴ)や息子と一緒にいるシーンや、家に火がつけられて燃え上がってしまうシーンが挿入されます。
そして、ディカプリオの顔が大写しになって、タイトルが映し出されます。
次の画面では、流れる水で樹の根元まで覆われている森の中を、銃を持った者が数人歩いています。
グラスがホークに「前を見ろ」と言うと、前方に大きな鹿が見え、グラスが銃で撃ち倒します。
宿営地では、毛皮ハンターのグループが、採った毛皮を束ねて出発の準備をしています。
銃声がしたので、「銃はマズイのでは?」などと話していると、矢が飛んできて仲間が倒れます。
大鹿の革を剥いでいたグラスらも異変があったことに気付き、急ぎ宿営地に戻ります。
宿営地には先住民のアリカラ族がたくさん現れ、毛皮ハンターたちを次々矢で射倒します。
生き残った毛皮ハンターたちは、大急ぎで毛皮を船に積み込み、乗船してその場所を離れます。
毛皮ハンターを襲った先住民の族長のエルク・ドッグ(デュアン・ハワード)は、「毛皮をフランス人に渡し、代わりに馬をもらい、それで娘・ポワカ(メラウ・ナケコ)を探すのだ」と仲間に向かって言います。
どうやら、グラスは、息子を連れながら、ヘンリー隊長(ドーナル・グリーソン)の率いる毛皮ハンター団の道案内役としてミズリー川中流域にいて、その宿営地がアリカラ族に襲われてしまったようです。
この後、グラスはハイイログマ(注2)に襲われ瀕死の重傷を追うことになるのですが、さあ、グラスの運命はどうなるのでしょうか、………?
本作の舞台は、1820年代のアメリカ中西部。毛皮ハンター団のガイドを務める主人公が、熊に襲われたりするなど様々な危難に遭遇しながらも、息子を殺した男に復讐を遂げるという物語。広大で魅力的な雪景色が何度も映し出され、さらにはどうやってこんな危険な場面を撮影できたのだろうと思わせる箇所がいくつもあり、加えて主演のディカプリオが渾身の演技を披露するので、物語は単純で2時間半を超える長尺ながらも、最後まで全く飽きずに見ることが出来ます。
(2)本作については、いくつか問題点を上げることが出来るように思います。
例えば、主人公のグラスは、あれほど大きく獰猛なハイイログマに傷めつけられ瀕死の重傷を負うわけですから、例え生き返るにしても、息子を殺したフィッツジェラルド(トム・ハーディ)を追跡できる体力を回復するまでには、相当の医療知識とかなりの治癒期間が必要となるのではないか、にもかかわらず本作ではそこらあたりが曖昧なのではと、思ってしまいます。
また、グラスは、先住民を妻とし、その間に子どもを設けてしまうような白人としては異端的な存在にもかかわらず(注3)、白人のヘンリー隊長がなぜあそこまでグラスのことをかばい続けるのか(注4)、よくわからない感じです。
さらに言えば、死んだ妻のことをあれほど何回も思い出すのであれば、息子のホークもさることながら(注5)、グラスはなぜ妻を殺したフランス兵にまずもって復讐しようとしないのでしょうか(注6)?
でも、それらのことはどうでもいいように思われます。
何よりも、本作は、自分の息子を殺された男が、息子を殺した男に復讐しようとする実にシンプルな物語を、広大な大自然の中でたっぷりと描き出すことに主眼があるように思われます。
ただ、シンプルな話とはいえ、グラスは何度も窮地に追い込まれます。
例えば、迫ってきたアリカラ族から身を隠すために冷たい川の中に入りますが、流れが大層急で、グラスはどんどん押し流されてしまいます。
また、アリカラ族に追われ、グラスは乗っていた馬もろとも高い崖から落下してしまいます。
このように物語にいろいろ起伏が設けられている上に、こうしたところを描き出す画面は実にリアルで、いったいどのようにしてそのような映像を作り出したのか不思議に思えるほどです(注7)。
そして、絶体絶命と思える窮地に追い込まれながらも、不屈の闘志によってそれらを乗り切りフィッツジェラルドとの1対1の対決(注8)にまでたどり着くグラスを演じるディカプリオの演技は実に素晴らしく、見入ってしまいます。
ディカプリオの主演男優賞は、十分納得できるものと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「尊い自然への畏敬の念が、この壮絶なサバイバル劇を貫き、すべてが終わった後に魂の救済へと至る物語は、観客を大きな感動で包み込んでくれるだろう」として90点をつけています。
森直人氏は、「いま、インターネットやモバイル機器の発達でコンパクトな映画の視聴が進む中、新しい劇場対応型の表現とは何か?という問いが浮上しているように思う。そんな課題に応えるべく、実験的、前衛的とも言える手法で、プリミティブなパワーを志向した本作は、前人未到の領域を開拓した」と述べています。
藤原帰一氏は、「議論が分かれるところでしょうが、私には、「レヴェナント」のディカプリオは、無理な撮影に耐えたのが流石だし、役柄からいって致し方ないんですが、硬くて一本調子な印象が残りました。逆に目を見張ったのは、悪役のトム・ハーディ」と述べています。
(注1)監督は、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『BIUTIFUL ビューティフル』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ。本作で、アカデミー賞監督賞を受賞。
撮影監督のエマニュエル・ルベツキは、本作でアカデミー賞撮影賞を受賞。
また、音楽は坂本龍一。
原案小説は、マイケル・パンク著『蘇えりし者』(ハヤカワ文庫NV)。
なお、出演者の内、最近では、ディカプリオは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、トム・ハーディは『マッドマックス―怒りのデス・ロード』、ドーナル・グリーソンは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』、ウィル・ポールターは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』で、それぞれ見ました。
〔酷くつまらないことながら、邦題の副題「蘇えりし者」は、常識的には「蘇りし者」となるところ、『蘇える金狼』(大藪春彦)とか『蘇える変態』(星野源)などもありますから、どちらでもかまわないのでしょう〕
(注2)本作の中では「グリズリー」と言われています(なお、この記事が参考になります)。
(注3)昔見た『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1991年)の主人公のジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)が思い出されます。ダンバーも、先住民の女を妻とします。ただ、時代は、本作よりも40年ほど下って南北戦争の最中であり、またダンバーが接触する先住民は、本作のアリカラ族と対立するスー族なのです(さらに言えば、ダンバーの妻となる女の家族は、本作でグラスの妻となる女の出身部族であるポ-ニー族に殺されています)。
(注4)ヘンリー隊長は、瀕死のグラスを樹の枝でこしらえた担架に乗せて運んだり、グラスが死ぬまで付き添うよう、ホークのみならずフィッツジェラルドとジム・ブリジャー(ウィル・ポールター)に命じたりするのです(それに、300ドルもの報酬を与えると約束します)。
(注5)フィッツジェラルドは、このままだと共倒れだとして瀕死のグラスを早く殺してしまおうとし、それを見たホークがブリジャーに知らせようとしたために、まずホークを殺してしまいます。
無論、フィッツジェラルドの行為を正当化出来るわけでないとはいえ、アリカラ族と寒さが迫っている中、仕方がない面もあるように思えます(何しろ、当初は、ヘンリー隊長自ら、グラスを安楽死させようと考えてグラスに銃を向けたほどなのですから)。
そう考えると、グラスの復讐劇も、親子の情愛という面は無論あるにしても、クマに襲われてホークを守りきれずに死なせてしまったことに対する後悔の思い(あるいは、妻への謝罪の気持ち)によるところもあるのではないかと思えます。
(注6)グラスは、自分たちの暮らしていたにやってきて家に火をつけ、出てきた妻に銃を向けて撃ち殺すフランス兵らを、隠れた物陰から見ているのです(これは、グラスによる回想シーンで描かれます)。民間人のフィッツジェラルドに復讐する方が、軍人に復讐するよりも容易なのでしょうが、ホークの復讐をする執念をもってすれば可能ではないでしょうか?
(注7)最初の方に出てくるグラスとハイイログマとの闘いについて、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」では、「ハイイログマの攻撃のシークエンスでは、本物の熊は一頭も使われなかった。イニャリトウ(監督)はCGIを本作ではわずかしか使っていないが、ここではCGIを活用している」と述べられています。
急流の場面とか崖から墜落する場面などは、いったいどのようにして画面が作られているのでしょう?
(注8)ラストでは、グラスは、フィッツジェラルドを殺さずに川に流します。すると、川岸にいたアリカラ族の族長のエルク・ドッグがフィッツジェラルドを殺します。
その際、フィッツジェラルドが「復讐しても、お前の息子は戻ってこない」と言うのに対し、グラスは、「復讐は神の手に委ねるのであり、俺の手じゃない」と応えて、フィッツジェラルドの体を川に落とします。
ただ、そう言われたくらいで最後までの復讐をためらうのであれば、グラスは、初めから追跡などしなくともよかったかもしれないとも思えてしまいます(あるいは、グラスは復讐の念で頭が一杯になっていて、フィッツジェラルドにそう言われるまでその意味するところに気が付かなかったのかもしれませんが)。
また、この場合の神とはキリスト教の神でしょう(その前に、十字架のキリストや使徒が壁に描かれた教会の廃墟の中で、グラスは、ホークの亡霊に見えた樹木を抱きしめたりします)。でも、族長のエルク・ドッグは異教徒でしょう。その異教徒にフィッツジェラルドの処分を委ねるのはどういうことなのでしょう?
それに、エルク・ドッグの娘・ポワカをさらったのはフィッツジェラルドではなく、フランス人の毛皮商ではないでしょうか?ポワカは、父親のそばにいるのですから、人違いだと父親に告げてもよかったかもしれません。あるいは、先住民には、白人の見分けがつかないと言うのでしょうか(でも、エルク・ドッグは、グラスの傍らを通り過ぎる際に、グラスには手を出そうとしませんでしたが)?
(注9)さらに、公式サイトの「Introduction」では、「本物のフロンティアの再現に強くこだわったイニャリトゥ監督は、マイナス20℃の極寒の地でロケを敢行。人工的な証明を一切使わない自然光のみの撮影を行い、壮大な大自然を未だかつてないスケール感で映し出している」と述べられていますが、イニャリトゥ監督の監督賞とルベツキ撮影監督の撮影賞も充分に納得できます。
★★★★☆☆
象のロケット:レヴェナント 蘇えりし者
(1)主演のディカプリオがアカデミー賞主演男優賞を受けたというので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夜、横になっている主人公のヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)が、先住民の言葉で息子のホーク(フォレスト・グッドラック)に、「大丈夫だ、息子よ。早く終わって欲しいとお前は望んでいる。父さんが付いている。ずっとそばにいる。諦めてはいけない。いいな。息が続く限り戦うのだ。息をしろ、息を続けるのだ」と語りかけています。
その際に、グラスが妻(グレイス・ドーヴ)や息子と一緒にいるシーンや、家に火がつけられて燃え上がってしまうシーンが挿入されます。
そして、ディカプリオの顔が大写しになって、タイトルが映し出されます。
次の画面では、流れる水で樹の根元まで覆われている森の中を、銃を持った者が数人歩いています。
グラスがホークに「前を見ろ」と言うと、前方に大きな鹿が見え、グラスが銃で撃ち倒します。
宿営地では、毛皮ハンターのグループが、採った毛皮を束ねて出発の準備をしています。
銃声がしたので、「銃はマズイのでは?」などと話していると、矢が飛んできて仲間が倒れます。
大鹿の革を剥いでいたグラスらも異変があったことに気付き、急ぎ宿営地に戻ります。
宿営地には先住民のアリカラ族がたくさん現れ、毛皮ハンターたちを次々矢で射倒します。
生き残った毛皮ハンターたちは、大急ぎで毛皮を船に積み込み、乗船してその場所を離れます。
毛皮ハンターを襲った先住民の族長のエルク・ドッグ(デュアン・ハワード)は、「毛皮をフランス人に渡し、代わりに馬をもらい、それで娘・ポワカ(メラウ・ナケコ)を探すのだ」と仲間に向かって言います。
どうやら、グラスは、息子を連れながら、ヘンリー隊長(ドーナル・グリーソン)の率いる毛皮ハンター団の道案内役としてミズリー川中流域にいて、その宿営地がアリカラ族に襲われてしまったようです。
この後、グラスはハイイログマ(注2)に襲われ瀕死の重傷を追うことになるのですが、さあ、グラスの運命はどうなるのでしょうか、………?
本作の舞台は、1820年代のアメリカ中西部。毛皮ハンター団のガイドを務める主人公が、熊に襲われたりするなど様々な危難に遭遇しながらも、息子を殺した男に復讐を遂げるという物語。広大で魅力的な雪景色が何度も映し出され、さらにはどうやってこんな危険な場面を撮影できたのだろうと思わせる箇所がいくつもあり、加えて主演のディカプリオが渾身の演技を披露するので、物語は単純で2時間半を超える長尺ながらも、最後まで全く飽きずに見ることが出来ます。
(2)本作については、いくつか問題点を上げることが出来るように思います。
例えば、主人公のグラスは、あれほど大きく獰猛なハイイログマに傷めつけられ瀕死の重傷を負うわけですから、例え生き返るにしても、息子を殺したフィッツジェラルド(トム・ハーディ)を追跡できる体力を回復するまでには、相当の医療知識とかなりの治癒期間が必要となるのではないか、にもかかわらず本作ではそこらあたりが曖昧なのではと、思ってしまいます。
また、グラスは、先住民を妻とし、その間に子どもを設けてしまうような白人としては異端的な存在にもかかわらず(注3)、白人のヘンリー隊長がなぜあそこまでグラスのことをかばい続けるのか(注4)、よくわからない感じです。
さらに言えば、死んだ妻のことをあれほど何回も思い出すのであれば、息子のホークもさることながら(注5)、グラスはなぜ妻を殺したフランス兵にまずもって復讐しようとしないのでしょうか(注6)?
でも、それらのことはどうでもいいように思われます。
何よりも、本作は、自分の息子を殺された男が、息子を殺した男に復讐しようとする実にシンプルな物語を、広大な大自然の中でたっぷりと描き出すことに主眼があるように思われます。
ただ、シンプルな話とはいえ、グラスは何度も窮地に追い込まれます。
例えば、迫ってきたアリカラ族から身を隠すために冷たい川の中に入りますが、流れが大層急で、グラスはどんどん押し流されてしまいます。
また、アリカラ族に追われ、グラスは乗っていた馬もろとも高い崖から落下してしまいます。
このように物語にいろいろ起伏が設けられている上に、こうしたところを描き出す画面は実にリアルで、いったいどのようにしてそのような映像を作り出したのか不思議に思えるほどです(注7)。
そして、絶体絶命と思える窮地に追い込まれながらも、不屈の闘志によってそれらを乗り切りフィッツジェラルドとの1対1の対決(注8)にまでたどり着くグラスを演じるディカプリオの演技は実に素晴らしく、見入ってしまいます。
ディカプリオの主演男優賞は、十分納得できるものと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「尊い自然への畏敬の念が、この壮絶なサバイバル劇を貫き、すべてが終わった後に魂の救済へと至る物語は、観客を大きな感動で包み込んでくれるだろう」として90点をつけています。
森直人氏は、「いま、インターネットやモバイル機器の発達でコンパクトな映画の視聴が進む中、新しい劇場対応型の表現とは何か?という問いが浮上しているように思う。そんな課題に応えるべく、実験的、前衛的とも言える手法で、プリミティブなパワーを志向した本作は、前人未到の領域を開拓した」と述べています。
藤原帰一氏は、「議論が分かれるところでしょうが、私には、「レヴェナント」のディカプリオは、無理な撮影に耐えたのが流石だし、役柄からいって致し方ないんですが、硬くて一本調子な印象が残りました。逆に目を見張ったのは、悪役のトム・ハーディ」と述べています。
(注1)監督は、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『BIUTIFUL ビューティフル』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ。本作で、アカデミー賞監督賞を受賞。
撮影監督のエマニュエル・ルベツキは、本作でアカデミー賞撮影賞を受賞。
また、音楽は坂本龍一。
原案小説は、マイケル・パンク著『蘇えりし者』(ハヤカワ文庫NV)。
なお、出演者の内、最近では、ディカプリオは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、トム・ハーディは『マッドマックス―怒りのデス・ロード』、ドーナル・グリーソンは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』、ウィル・ポールターは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』で、それぞれ見ました。
〔酷くつまらないことながら、邦題の副題「蘇えりし者」は、常識的には「蘇りし者」となるところ、『蘇える金狼』(大藪春彦)とか『蘇える変態』(星野源)などもありますから、どちらでもかまわないのでしょう〕
(注2)本作の中では「グリズリー」と言われています(なお、この記事が参考になります)。
(注3)昔見た『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1991年)の主人公のジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)が思い出されます。ダンバーも、先住民の女を妻とします。ただ、時代は、本作よりも40年ほど下って南北戦争の最中であり、またダンバーが接触する先住民は、本作のアリカラ族と対立するスー族なのです(さらに言えば、ダンバーの妻となる女の家族は、本作でグラスの妻となる女の出身部族であるポ-ニー族に殺されています)。
(注4)ヘンリー隊長は、瀕死のグラスを樹の枝でこしらえた担架に乗せて運んだり、グラスが死ぬまで付き添うよう、ホークのみならずフィッツジェラルドとジム・ブリジャー(ウィル・ポールター)に命じたりするのです(それに、300ドルもの報酬を与えると約束します)。
(注5)フィッツジェラルドは、このままだと共倒れだとして瀕死のグラスを早く殺してしまおうとし、それを見たホークがブリジャーに知らせようとしたために、まずホークを殺してしまいます。
無論、フィッツジェラルドの行為を正当化出来るわけでないとはいえ、アリカラ族と寒さが迫っている中、仕方がない面もあるように思えます(何しろ、当初は、ヘンリー隊長自ら、グラスを安楽死させようと考えてグラスに銃を向けたほどなのですから)。
そう考えると、グラスの復讐劇も、親子の情愛という面は無論あるにしても、クマに襲われてホークを守りきれずに死なせてしまったことに対する後悔の思い(あるいは、妻への謝罪の気持ち)によるところもあるのではないかと思えます。
(注6)グラスは、自分たちの暮らしていたにやってきて家に火をつけ、出てきた妻に銃を向けて撃ち殺すフランス兵らを、隠れた物陰から見ているのです(これは、グラスによる回想シーンで描かれます)。民間人のフィッツジェラルドに復讐する方が、軍人に復讐するよりも容易なのでしょうが、ホークの復讐をする執念をもってすれば可能ではないでしょうか?
(注7)最初の方に出てくるグラスとハイイログマとの闘いについて、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」では、「ハイイログマの攻撃のシークエンスでは、本物の熊は一頭も使われなかった。イニャリトウ(監督)はCGIを本作ではわずかしか使っていないが、ここではCGIを活用している」と述べられています。
急流の場面とか崖から墜落する場面などは、いったいどのようにして画面が作られているのでしょう?
(注8)ラストでは、グラスは、フィッツジェラルドを殺さずに川に流します。すると、川岸にいたアリカラ族の族長のエルク・ドッグがフィッツジェラルドを殺します。
その際、フィッツジェラルドが「復讐しても、お前の息子は戻ってこない」と言うのに対し、グラスは、「復讐は神の手に委ねるのであり、俺の手じゃない」と応えて、フィッツジェラルドの体を川に落とします。
ただ、そう言われたくらいで最後までの復讐をためらうのであれば、グラスは、初めから追跡などしなくともよかったかもしれないとも思えてしまいます(あるいは、グラスは復讐の念で頭が一杯になっていて、フィッツジェラルドにそう言われるまでその意味するところに気が付かなかったのかもしれませんが)。
また、この場合の神とはキリスト教の神でしょう(その前に、十字架のキリストや使徒が壁に描かれた教会の廃墟の中で、グラスは、ホークの亡霊に見えた樹木を抱きしめたりします)。でも、族長のエルク・ドッグは異教徒でしょう。その異教徒にフィッツジェラルドの処分を委ねるのはどういうことなのでしょう?
それに、エルク・ドッグの娘・ポワカをさらったのはフィッツジェラルドではなく、フランス人の毛皮商ではないでしょうか?ポワカは、父親のそばにいるのですから、人違いだと父親に告げてもよかったかもしれません。あるいは、先住民には、白人の見分けがつかないと言うのでしょうか(でも、エルク・ドッグは、グラスの傍らを通り過ぎる際に、グラスには手を出そうとしませんでしたが)?
(注9)さらに、公式サイトの「Introduction」では、「本物のフロンティアの再現に強くこだわったイニャリトゥ監督は、マイナス20℃の極寒の地でロケを敢行。人工的な証明を一切使わない自然光のみの撮影を行い、壮大な大自然を未だかつてないスケール感で映し出している」と述べられていますが、イニャリトゥ監督の監督賞とルベツキ撮影監督の撮影賞も充分に納得できます。
★★★★☆☆
象のロケット:レヴェナント 蘇えりし者
「矛盾した正義と正義の争い」という点はよく理解できないところですが、グラスがフィッツジェラルドに復讐をするというのは、ハンムラビ法典のいわゆる「目には目を歯には歯を」の精神からではないかと思うのですが?
なお、ヘンリー隊長がグラスにどのような環状を持っていたのかは、映画からはよく理解できないのでは、と思いました。
西部開拓史に、矛盾した正義と正義の争いにも見えて、仲間の仕打ちに復讐するサバイバル・ドラマでした。
ヘンリー隊長があそこまでグラスを尊重するのは、よほど隊に貢献していたからではないでしょうか。
・「火事場の馬鹿力」によって、足が折れていても一瞬間は立つことが出来るとしても、長い時間敵を追って追跡できるとは思えないのですが。
・「BL」とは思い浮かびませんでした!
・フランス兵に関してはおっしゃるとおりと思います。ただ、息子の場合に復讐心があれほど燃え上がるのであれば、妻の場合であっても理性的な判断を超えて復讐心が強く湧き上がるのではないかな、と思った次第です。
「息子を奪われた事に対する怒り」からくるグラスの復讐心の高まりが見事に描き出された作品だと思います。ただ、グラスの「息子を奪われた事に対する怒り」は、フィッツジェラルドに向けられるだけでなく、身動きできない体になってしまってホークを守りきれなかったグラス自身に対しても向けられているのではないかと思っています。そうした後悔の念があるために、フィッツジェラルドに対する復讐を最後まで貫徹しなかったのではないでしょうか?
こういうのは「火事場の馬鹿力」という事にしておきたいのだけど、するとずっと火事続きになってしまう。
> 白人のヘンリー隊長がなぜあそこまでグラスのことをかばい続けるのか
BL
> グラスはなぜ妻を殺したフランス兵にまずもって復讐しようとしないのでしょうか?
推測ですが、フランス兵の行動は戦時行動であり、妻を殺した一人に対して責めを負う事はできないからじゃないでしょうか? 今回のフィッツジェラルドの行動は彼一人にのみ追わせる罪があるのですが、前回は違ったのでは?
アメリカ人のメンタリティの根底にある世界を、レオが演じたのは、良かったと思います。あの時代に共通するのは、銃と騎馬が開いた力の世界だという事でしょうね。
そして、息子を奪われた事に対する怒り、これは、家族に対する個の愛着が、今の時代と変わらないという事だと思います。
確かに本作は「事実ベース」とされていますが、原作小説との乖離も指摘されているようで、かなりの脚色がなされているように思われます。
いずれにしても、おっしゃるように、「ディカプリオに迫力を感じ」たところです。
事実ベースなんで、超人的な回復力も、そうだったんだ…というある種人間の強さも感じました。
スタントも多く起用していたようですが、それでもディカプリオに迫力を感じました。
TBこちらからもお願いします。