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龍三と七人の子分たち

2015年05月15日 | 邦画(15年)
 『龍三と七人の子分たち』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)本作は、北野武の監督作品(注1)ということで映画館に出向きました。

 本作の冒頭では、主役の龍三藤竜也)が、ランニングシャツ姿で玄関先で木刀の素振りをしています。



 息子(勝村政信)が「何か羽織ってくれないか」、その妻が「世間体がありますから」と言い、また息子が「指サックを付けてよ。子供に、指を噛んでてなくなったとか、泳ぐとタッチの差で負けたとか言わないで」等と言います(龍三は、体に大きく刺青をしていますし、左手の指が2本ありません)。
 挙句、「今日から妻の実家の方に行きます」と言って、息子の家族は出かけてしまいます。
 龍三は、「何が世間体か!ブクブク太りやがって」と悪態をつきます。

 次いで、パチンコ屋のシーン。
 男(下條アトム)が龍三のところにやってきて、「玉ください」と言うものですから、「股ぐらに持ってんじゃないの」と応じた上で、「出ないけど、この台使っていいよ」と違う台に移ると、元の台で男がたくさん玉を出します。
 そこで、龍三が「玉貸して」と言うと、その男は「腕の差でしょ、僻まない」と応じるものですから、龍三は怒って「鬼の龍三を知らないのか」とばかりに喧嘩が始まり、とどのつまりは店員に追い出されてしまいます。

 結局、家でもパチンコ屋でも邪魔者扱いされた龍三は家に戻って、マサ近藤正臣)に電話で「飯でも行かないか」と声をかけ、駅前の公園で会うことになります。
 龍三がマサを待っていると、オレオレ詐欺の電話がかかってきたりとてんやわんやになるのですが、やがて元の仲間が集まってきたりして物語が動き出さいます。



 さて一体どんなことになるやら、………?

 お話は、藤竜也扮する龍三以下70歳超えの元ヤクザ8人が集って再度一家を結成し、悪事を働く現役ヤクザに目に物見せるという次第。最近、こういう老人パワーを見せつける映画が多くなってきているのも、社会の著しい高齢化を反映しているのでしょう。従前のタケシ映画らしいところはあまりみかけないとはいえ、それなりの笑いはあり、まあこんなものかなというところです(注2)。

(2)確かに、笑える場面がいろいろあります。
 例えば、上記のオレオレ詐欺ですが、息子を騙る男が「500万円失くした」と言うと、龍三は「500万円あるわけないだろ、50万円ならなんとかなる」と答え、その男が「カードは?」と訊くと、龍三は「吉田や水原ならある」と応じ、その男が「野球カードじゃない」と言ったりします。
 挙句、50万円を受け取ろうと公園に現れたその男に対して、龍三は、バックルを取り出し「金だ」、さらに昔の組のバッチについて「プラチナだ」と言い、さらには天皇陛下記念コインまで持ち出し、挙句は「メンツが立たない」と指を詰めようとするものですから、その男は大慌てて逃げ出してしまいます。

 また、競馬場で、馬券を買いに行く“はばかりのモキチ”(中尾彬)に対し、龍三が両手を開いて「5-5」を指示したところ、龍三の2本の指が無かったことから、“はばかりのモキチ”は「5-3」と勘違いして馬券を購入してしまい、残っていたなけなしの10万円をスッテしまいます。

 ところで、こうした、老人がパワーを見せつけるという筋立ての映画は最近増えているように思います。
 例えば、ドイツ映画『陽だまりハウスでマラソンを』は、80歳間際の老人がフルマラソンに挑むという作品ですし、『カルテット! 人生のオペラハウス』も、とっくの前に引退している歌手などが資金集めのためにコンサートを開くというストーリー。

 とはいえ、本作で描き出される老人は、マラソン選手であったり音楽家だったりと正統的で大人しい職種に以前就いていたというのではなく、昔はれっきとしたアウトローのヤクザ屋だったという点でユニークです(注3)。

 そうしたヤクザ屋が8人も集まるのですから、老人ばかりとはいえなかなかの迫力となります。
 例えば、“神風のヤス”(小野寺昭)が搭乗するセスナ機が映し出されたり(注4)、ラストの方では、悪事を働く京浜連合の幹部が乗ったベンツを追って、商店街の狭い道を龍三以下が乗ったバスがものすごいスピードで突っ走るシーンが映し出されたりします(注5)。 

 全体として、映画で描き出されるのは、年寄りの冷水的な所業だったということになるのでしょうが、一般の人なら、いきなりこんな格好のいいことをやらないで、まずは例えば、桂文枝の創作落語『じいちゃんホスト』で“じいちゃんホスト”たちが唱和する「ホスト10箇条」(注6)でも守ってみたらどうかと思うところです。

(3)渡まち子氏は、「藤竜也はじめ、ベテラン俳優たちの肩の力がぬけた名演で、老人映画の快作に仕上がっている」として65点をつけています。
 中野豊氏は、「元ヤクザじいさんvs詐欺集団のガキという基本ラインから台詞の応酬からなるジェネレーションギャップの可笑しさが湧き出してきます」として75点をつけています。
 中条省平氏は、「北野武という芸術家の端倪すべからざる個性を映しだす移植の怪作であり、快作だ」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)北野監督の前作は『アウトレイジ ビヨンド』。

(注2)『アウトレイジ』についての拙エントリで申し上げましたが、本作についても、「従来の映画では必ず見られたワケノワカラナイ場面が、今度の映画については1か所も見られ」ず、「少しぐらい「アートっぽい」ところがあったらな、とないものねだりをしたくなってしまいます」。
 また、本作でも「女性の役割があまりにも限定的なこと」は変わりがない感じがします〔京浜連合のボス・西安田顕)の女でもあるキャバクラのママ(萬田久子)が登場するとはいえ、さしたる活躍はしません―萬田のマンションで龍三と西とが鉢合わせして暴力沙汰がという寸前で、龍三が女装して逃げ出してしまうのですから―〕。

(注3)内訳は、龍三、マサ、“はばかりのモキチ”、“神風のヤス”の他に、“早撃ちのマック”(品川徹)、“ステッキのイチゾウ”(樋浦勉)、“五寸釘のヒデ”(伊藤幸純)、“カミソリのタカ”(吉澤健)。

(注4)「特攻」にあこがれている“神風のヤス”が武運長久の鉢巻を締めてセスナ機に乗り込んだからには、京浜連合のビルに突っ込むのかなと思いきや、進路を思い切り替えて横須賀港に停泊中の米軍空母に着陸してしまい、観客の方はずっこけてしまいます。
 まあ、CGを使いたくない北野監督の方針の下では、仕方のないところでしょうが、だとしたら役柄を変える必要はないでしょうか。

(注5)老人がバスを走らすという点からすれば、昨年末頃見た『まほろ駅前狂騒曲』での麿赤兒)たちによるバスジャック事件を思い起こさせます。

(注6)桂文枝の落語に出てくる「ホスト10ヵ条」は次のようなものです。
・テーブル拭いても鼻拭くな。
・店が混んでも咳込むな。
・飲んで吐いてもパッチを履くな。
・アレアレばかりで話をすな。
・テーブル近くに杖置くな。
・スルメ、オカキに手を出すな。
・席を立つ時よろけるな。
・カレー食べても加齢臭出すな。
・売上伸ばせ腰伸ばせ。
・生きて閉店迎えよう。

 無論、ホストたちに向けてのものであり、とても一般化できないでしょうが、その精神(?!)はどこでも同じではないかと思います(「じいちゃんヤクザ10箇条」も作成可能かもしれません?!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:龍三と七人の子分たち


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6 コメント

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Unknown (クマネズミ)
2016-05-15 06:17:16
「陸」さん、再度のコメントをありがとうございます。
クマネズミは、ヤクザの世界については、映画などを通じてイメージ的にごくごくわずか知っているに過ぎず、実態についてはよくわかりません。
そんな茫漠としたイメージからすると、「陸」さんは「今や少数者」と述べておられますが、「やくざ者の時代」(いつのことを指しておられるのかよくわかりませんが)であってもいつであっても、いつもヤクザは日陰に生きる「少数者」ではないかと思われます。彼らは一般社会からのあぶれ者であり、同じように社会からあぶれた「夜の街を徘徊する輩」(今では「風俗嬢」でしょうか)などと“くっ付く”のでしょう。としてもそれは、「水は低きに流れる」というよりも、むしろ、前回おっしゃっていた「同胞を得る」という感じかもしれません(ただ、こういうことは一般社会でも見られるでしょう)。
この場合、ヤクザが「弱者」かどうかはわからない感じがします。確かに、彼らは一般社会の眼からしたら「ろくなキャリアも能力もない人々」でしょう。でも、彼らの社会においては立派な「キャリアも能力」も備えているのかもしれません。その「能力」は一般社会に寄生するところで発揮されているにせよ、なにしろ、一定人数を抱える集団がそれなりの生活をしているのですから。さらに言えば、彼らが「弱者」然としていないからこそ、警察が組織を上げて取り締まろうとしているものと思います。
そして、彼らは、「言葉の暴力も、腕力も、最後の手段であって、簡単には行使されてはならない」とされる「堅気」(一般社会のことでしょう)の外の世界にいるのですから、そこでは「一龍会」が「最後の切り札である戦争」に猪突猛進しようと何しようと勝手なはずです。
その際に、京阪連合は悪であり「自分達は正道」と考えて「一龍会」の面々が「計算」外れの行動をしたにしても、それは彼らの社会における「正道」に殉じようとしたのであり、「勘違い」というのは一般社会の眼から見てのことのように思います。
普通のヤクザ映画であれば、このようにヤクザが「演技」(「陸」さんの用語を使わせていただきますが)することで彼らの行動に「いつよりも輝」いている様を見出して、観客はカタルシスを得るものと思います。
ただ、本作は、今や一般社会からのあぶれ者であり、なおかつ正真正銘の「弱者」である高齢者(無論、元気に活躍している勇者もいますが)の一員がそうした行動をとったことで、「輝き」よりもむしろ「笑い」を誘うコメディになっているように思います。
あるいは、本作は、格差社会の底辺に蠢いている者(彼らは、一般社会に組み込まれているものの「弱者」でしょう)たちへ決起せよとエールを送っているのかもしれません。としても、よほど肝を据えて行動に出ないと、本作のラストのように留置場送りになるだけに終わってしまうでしょうが!
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Unknown ()
2016-05-14 22:16:21
クマネズミさん。

やくざ者の時代とか、化石の物語をする気はありません。今や少数者であって、夜の街を徘徊する輩も、弱者だと思っています。だから、そんなろくなキャリアも能力もない人々がくっ付くのは、社会における、水は低きに流れる、の例通りだと思うだけですね。

この爺さんたちの救いのないところは、弱者であるのに、自分達は正道だと勘違いして、最後の切り札である戦争に進んでいく事ですね。堅気にとって、言葉の暴力も、腕力も、最後の手段であって、簡単には行使されてはならないし、あまりそういう好戦的な狂人も、幸い、自分の友人の中にはいません。

やくざは、死を覚悟すると、死出の旅人然り、いつよりも輝く時があると思います。演じる、というのは、その覚悟の見事さに対する、誉め言葉です。そもそも、仁義には、演じる事、自らの大義がある事を、装い、組織として、敵との抗争に対して、構成員を勇気づける事があると思います。これに一切の演技が無いのであれば、龍三は義侠だという事を、こちらが認める事になるだけでしょう。
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Unknown (クマネズミ)
2016-05-14 21:04:01
「陸」さん、TB&コメントをありがとうございます。
とはいえ、コメントされている内容を十分には咀嚼できない状況です。
例えば、「やくざ者の時代」であっても、彼らはその時代時代の「風俗業の女性」と“くっ付いて”いたのではないでしょうか(ヤクザ映画を余り見ていませんのでよくわかりませんが)?
また、本作に登場する「弱い爺さんたち」は、「予備役に回る」というよりも、むしろ「予備役」だったのをかなぐり捨てて「現役」に戻って京阪連合に立ち向かったのではないでしょうか?
そして、その際には「計算と演技、綱渡りの処世術で乗り切る」というよりも、むしろあっけにとられるほどキチガイじみた行動(言ってみれば「計算」外の行動)によってではないか、という気がするのですが?
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Unknown ()
2016-05-14 10:20:18
やくざ者の時代ではなく、裏の社会の住人として、風俗業の女性と、やくざがくっ付くというのは、あり得る話だと思いました。

彼らの強みというのは、同じ理由ありの身として、同胞を得る事だと思います。やくざ映画といえば、主人公は当然彼らでしょうが、この作品では、弱い爺さんたちが、予備役に回る、それでいて、ストーリーの屋台骨として、やくざが腕力で道を拓く定番ではなく、計算と演技、綱渡りの処世術で乗り切るのだから、大したものだと思いました。

やくざ映画というより、エンターテイメントですね。
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Unknown (クマネズミ)
2015-05-17 05:52:44
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
一人の女優を使い回しして省力化を図っているかもしれませんが、そしていくら萬田久子が歳より若く見えるといっても、おっしゃるように、「自分の母親と同じくらいの女性と恋人関係になるってのはキツイ」と思います。
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Unknown (ふじき78)
2015-05-16 22:41:25
> 本作でも「女性の役割があまりにも限定的なこと」は変わりがない感じがします〔京浜連合のボス・西(安田顕)の女でもあるキャバクラのママ(萬田久子)が登場するとはいえ、さしたる活躍はしません

安田顕と萬田久子の年齢差は15歳。親子みたいな年の差である。萬田久子と藤竜也の年の差は17歳。こっちも親子くらいの年の差。どっちとねんごろになってもおかしくないバランスの女優を当てたんだろうけど、やっぱり普通に自分の母親と同じくらいの女性と恋人関係になるってのはキツイと思う。
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