映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヤング・アダルト・ニューヨーク

2016年08月05日 | 洋画(16年)
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』を有楽町のTOHOシネマズスカラ座/みゆき座で見ました。

(1)ナオミ・ワッツアマンダ・サイフリッドが出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、イプセンの戯曲『棟梁ソルネス』(The Master Builder、1892年)からの引用です(注2)。
 そして映画が始まり、主人公のジョシュベン・スティラー)と妻のコーネリアナオミ・ワッツ)が、友人のフレッチャーアダム・ホロヴィッツ)とマリーナマリア・ディッジア)の夫婦の家に行って、彼らの赤ん坊を見ています。
 コーネリアが、赤ん坊に向かって『3匹の子豚』の話をします。「3匹の子豚がいて、木の枝を集めて家を作ったところ、狼がやってきて、…」と言ってジョシュの顔を見ると、彼は「狼はそれを吹き飛ばした、だっけ?」と言います。コーネリアは、「その前よ。子豚は家を建て直しました」と話を続けようとしますが、結局、話の続きがわからなくなってしまい、赤ん坊も泣き出します。
 そこへ母親のマリーナがやってきて、赤ん坊に乳を飲ませます。

 コーネリアとジョシュは自分たちの住まいに戻ります。



 コーネリアは、「とにかく3匹の子豚の話は覚えていない」「あなた、子供欲しいの?私はいらない」「魔法で子供が生まれるならいいけど」などとジョシュに言い、ジョシュも「今のままの生活でいいよ」と答えます。
 ジョシュが「ローマに行ったのは?」と訊くと、コーネリアが「2006年」と答え、ジョシュが「もう8年も経ったのか!」と言い、コーネリアも「あの頃は2人ともずっと若かった」と応じます。
 コーネリアが「去年は旅行していない」と言うと、ジョシュが「自分のドキュメンタリーを完成させる必要があたった」と答え、コーネリアは「でもまだ出来上がっていない」と応じます。
 そして、コーネリアは「あの2人はこのところセックスレスよ」とジョシュに言います。

 こんな風なジョシュとコーネリアの夫婦は、この後ジェイミーアダム・ドライバー)とダービーアマンダ・サイフリッド)の若い夫婦と出会うのですが(注3)、さあどのように展開していくのでしょうか、………?



 本作は、ニューヨークで暮らすドキュメンタリー映画監督の夫と映画プロデューサーの妻の中年夫婦が、監督志望の夫とアイスクリーム職人の妻という20代の若い夫婦と知り合って、ジェネレーション・ギャップを感じつつもお互いに影響を与え合うというお話。いつもながらのニューヨーク物(それもブルックリン物)ながら、今のそこでの人々の生活ぶりがいろいろとこちらに伝わってくる感じがして(注4)、会話の量の多さに少々辟易としながらも、まずまず楽しんで見ることが出来ました。

(2)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」に、「(ノア・バームバック監督は、)本作でも同じく等身大のミドルエイジ、アメリカで言うところのジェネレーションXの夫婦を主人公にしながらも、彼らをかき乱すミレニアル世代の若者たちとのモラルや価値観のズレ、成功への夢と野心のぶつかり合いにリアルかつユーモラスに迫り、誰もが共感できるエンタテイメントに結実させた」と述べられてもいるように、本作はジェネレーション・ギャップを巡る物語と受け取るのが一般的ではないかと思われます。

 でも、クマネズミには、アメリカの人々の生活ぶりを幅広く知らないせいでしょう、本作でジェネレーション・ギャップがそんなに明示的に描かれているようには思えませんでした。

 確かに、本作においては、ドキュメンタリー映画の監督である主人公のジョシュは、妻の父親で同じようにドキュメンタリー映画の監督であるブライトバートチャールズ・グローディン)と上手くいってませんし、自分に擦り寄ってきた監督志望の若者のジェイミーとも、結局は良好な関係を築けなくなってしまいます。
 こうなるのは、60代の義父や20代のジェイミーと40代のジョシュとの間にあるジェネレーション・ギャップによるものだと見ることもできるのでしょう。

 ですが、そんなに大仰なものではなく、単に、ドキュメンタリー映画制作を巡ってそれぞれが持つ考え方の相違によるものではないかと、クマネズミには思えてしまいます。

 ジェイミーは、映像の時系列が事実と異なっていても作品自体が面白ければそれでいいのではないかと考えているのに対し、ジョシュは、ドキュメンタリー映画はあくまでも事実のとおりでなくてはいけないと考えます(注5)。
 また、義父のブライトバートは、ジョシュがその編集に四苦八苦しているドキュメンタリー作品を見ていろいろ批判をし(注6)、また自分の業績を称える記念祝賀会に乗り込んできてジェイミーの映画制作の姿勢を批判するジョシュに対して、「異なるアプローチによって世界にアプローチをするのはいいことではないか」などと言います。
 ですが、映画を見た限りでは、そうした発言はそれぞれの個人的な見解であって、それがジェネレーション・ギャップからもたらされているようには思えないところです(注7)。

 更に言えば、ジョシュがジェイミーとダービーが暮らす家に行くと、アナログレコードが壁際に設けられた専用戸棚にぎっしりと並べられていたり、古い映画のVHSテープがいくつも置かれていたりします。
 これらも、若いニューヨーカーの最近の暮らしぶりについてクマネズミが無知なためなのでしょうが、ジェイミーの世代の特色が描かれているというよりも、むしろ、単にジェイミーの個人的な趣味のようにしか思えませんでした。

 また、映画のはじめの方では、上記の(1)で書いたように、子どもの問題が取り上げられています。ジョシュとコーネリアは、随分と努力したにもかかわらず子どもが出来ません(注8)。それで、親しかったフレッチャーとマリーナの夫婦とも幾分離れた感じになってしまいます(注9)。
 これは、ジョシュとコーネリアの夫婦が、同世代の仲間とは距離をおいていることを意味しているのかもしれません。でも、子どものいない夫婦など世代にかかわらずいくらでも存在するわけですから、これもジェネレーション・ギャップに関連付けて捉える必要もないように思えます。

 とはいえ、同時代の空気を吸って生きてきたということは人の考えの中で一定の意味を持つことでしょうから、具体的にそれがどんなものなのか提示するのは難しいにしても(注10)、「ジェネレーション」「世代」という捉え方を無碍に否定するわけにもいかないでしょう。
 それに、本作の中でなされている個々の会話はなかなか面白く、またジェイミーらに誘われてジョシュとコーネリアが参加する「アヤワスカ」(注11)の儀式などの風俗とか、登場人物が装う様々のファッションといったものはとても興味深いものがありました。

(3)渡辺祥子氏は、「中年世代と若い世代の出会いを通して描かれる出来事を見ながら、ウディ・アレンの作品群を思い出したのは、両者の持つ悩めるインテリ・ニューヨーカーの匂いに通じるものを感じるからだろうか?」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督・脚本はノア・バームバック
 原題は「While We’re Young」
 なお、邦題の意味するところがわかりません。どうして、3つの単語が併記されているのでしょうか?特に、『ヤング≒アダルト』についてのエントリの「注1」に書きましたように、「Young Adult」は「少女向け小説」という文学ジャンルをも表しているようですし。

 また、出演者の内、最近では、ベン・スティラーは『LIFE!』、ナオミ・ワッツは『ヴィンセントが教えてくれたこと』、アダム・ドライバーは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』、アマンダ・サイフリッドは『親愛なるきみへ』で、それぞれ見ました。

(注2)引用された箇所では、棟梁のソルネスと不思議な少女ヒルデとの会話がなされていて、ソルネスが「若者たちは私を動揺させるので、ドアを閉めて閉じこもっている」と言うと、ヒルデは「ドアを開けて若者たちを中に入れるべきと思う」と答え、それに対しソルネスが「こっちから開ける?」と言うと、ヒルデは「そうすれば、若者たちは優しく静かに中に入ってくることが出来、それはあなたにとっても好都合なはず」と答えます(概要)。
 なお、この記事によれば、このイプセンの戯曲からの引用と、エンドロールで流れるポール・マッカートニーの「Let ‘Em In」の「Someone's knockin' at the door / Somebody's ringin' the bell / Do me a favor, open the door and let 'em in.」とが、約90分の間隔をおいて対応しているようです。

(注3)ジョシュはアートスクールの講師をしていますが、ある時、講義を聴き終わったジェイミーとダービーがジョシュのところにやってきて、「あなたの映画『パワーエリート』が大好きです」と持ち上げるので、彼らの間で話が弾みます。
 なお、『パワーエリート』は世評が高かったものの10年前の作品であり、その後ジョシュは作品を発表していない(次作の編集に長いこと取り組んではいますが)、という設定になっています。

(注4)と言っても、本作のアメリカでの公開は2014年ですから、「今」といっても3年ほど前のことになるのでしょうが!

(注5)突然連絡のあった高校時代の友人のケントブラディ・コーベット)のところにジェイミーが行くと、ケントは自殺未遂で入院していて、さらに彼がアフガン帰還兵なことまでもわかってきます。ジェイミーは、ケントに関する情報がこうした順序で明らかになっていったように映画を制作するのですが、ひょんなことから(病院でのケントの映像の中に、ダービーが作ったアイスクリームが写っていたのです!)、映画の撮影に入る前からジェイミーがこうした情報を予めすべて把握していたことを、ジョシュは突き止めます。
 そうだとすれば、ジェイミーの映画で描かれている物事の展開の仕方は作り物だということになります。ジョシュは、ドキュメンタリー映画はあくまでも真実を追求するものでなくてはならないという考え方に立って、嘘をついている映画を制作するジェイミーを非難します。
 これに対し、ケントに関する個々の情報は全て正しいのだし、単にその並べ方が事実とは違っているだけであり、でもその方が面白いのだからこれでいいではないか、というのがジェイミーの考え方です。

(注6)義父のブライトバートは、「いい素材を揃えたな」と言いながらも、「トルコの政治に関するところや、シャツ工場火災に関するところは必要なのか?」、「長すぎて理解するのに時間がかかる」、「退屈した」などと批判します。

(注7)現に、ジョシュは、義父がそうした批判をするのは「コーネリアと私の間に子どもがいないせいだからでしょう?」と、実に個人的なことを言い出してしまいます。

(注8)コーネリアは2度ほど流産したとされています。

(注9)ある晩、ジョシュとコーネリアが親しい友人のフレッチャーの家に行くと、子どもを連れた夫婦が集まってパーティーが開かれていました。こういうパーティーが嫌いだと思われて、ジョシュとコーネリアは招待されていなかったのです。

(注10)元々、ジェネレーションに関する議論は、日本人論とか血液型論などと同じように、対象が広大すぎてアバウトでいい加減なものになりがちなように思えるところです。

(注11)Wikipediaの記事によれば、「向精神性の飲料。服飲すると、嘔吐を伴う強力な幻覚作用をもたらす」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:ヤング・アダルト・ニューヨーク