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教授のおかしな妄想殺人

2016年06月24日 | 洋画(16年)
 『教授のおかしな妄想殺人』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の最新作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公のエイブ(哲学科の教授:ホアキン・フェニックス)が車を運転しています。その内心の声が、「カントいわく、理性では片付かず、答えの得られない問題がある」云々と語ります(注2)。
 車は赴任先の大学に到着し、エイブは学部長に会い、彼女から「長旅だったのね。あなたの活躍を期待している」と激励され、その秘書によって教官用の家に案内されます。でも、その家でエイブがまずしたことはアルコール(シングルモルト)を飲むこと。

 それからエイブの歓迎会が開かれ、出席者の一人から「あなたの状況倫理に関する論文は良かった」などと言われ、またそこで科学科教授のリタパーカー・ポージー)とも出会います。



 次の場面では、教室で、エイブがカントの倫理学について、「カントは、“嘘をついてはならない”という道徳律を守るためには、“刺客に隠れ家を訊かれたら教えなくてはならない”と言っている。だが、アンネ・フランクを匿っている家にナチスがやってきて“ユダヤ人がいるか?”と訊かれたら、“Yes”と答えるべきなのだろうか?」などと話しています。

 その後も授業を続けるエイブですが、ある時、学生のジルエマ・ストーン)を呼び出して、「君のレポートは、思考が新鮮で、また構成も良い」と褒めると、ジルは「偶然性に関する先生の考えに刺激を受けた」、「先生の著書中の難解な部分を説明してください」などと返事をします。



 こうしてジルはエイブと出会いますが、さあ、これから二人の関係はどうなるのでしょうか、リタも絡んでくるのでしょうか、………?

 本作は、殺人事件を巡る実に他愛ない小話といった感じの作品ながらも、『her 世界でひとつの彼女』などで活躍しているホアキン・フェニックスが大学の哲学科教授となり、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』で主人公の娘役を好演したエマ・ストーンがその教え子になるというたいそう魅力的なキャストで見る者を惹きつけます。加えて、カントとかフッサールなどが台詞で飛び出し、またバッハの無伴奏チェロ・ソナタまで流れるのですから、随分と楽しんで見ることが出来ました。

(2)とはいえ、本作には、“irrational”と思えるストーリー展開が散見されます。
 例えば、科学科の教授のリタは、夫を持ちながらも、エイブを見た途端にメロメロになってしまいますし、教え子のジルも、提出したレポートを評価してくれただけで、ボーイフレンドのロイジェイミー・ブラックリー)を差し置いてエイブに走ってしまうのです。ですが、哲学研究者としていくら名が通っているとはいえ、エイブ御本人は中年すぎの男なのですから、このモテ男振りには驚きます。

 また、エイブは、レストランの後ろの席での話を盗み聞きしただけで(注3)、そこで話題になっていたスパングラー判事(トム・ケンプ)を亡き者にしようと思い立ってしまうのですから、呆気にとられます。殺人という重罪を犯すのであれば、まずは、関係者らに話をもっとよく聞いてみて、確かなことなのかどうか確かめようとするのではないでしょうか?

 それに、エイブが、判事を殺害したり(注4)、ジルを殺そうとする(注5)際のやり方は、とても杜撰な感じがします。

 しかしながら、本作は、殺人そのもの(注6)を巡るサスペンス作品というよりもむしろ、人殺しをする前後におけるエイブ自身や、彼とその周囲の人たちとの関係の変化といったことが中心的に描かれているのではないかと思えます。
 そうであれば、短い上映時間の中に収めるべくその他のことが省力気味に描かれていても、ある意味で当然なのかもしれません。
 例えば、エイブがリタやジルといい中になるのも、もっと時間の経過の中で描き出すこともできるでしょうし、エイブが完全犯罪に一層配慮した行動を取るように描くことだって可能でしょう。
 ただクマネズミには、ウディ・アレンは、わざとそうした方面はなおざりにして、殺人を犯す前のエイブの落込みよう(注7)とか、殺人を実行した後のはしゃぎよう(注8)といった方面に力点を置き、それにエイブとジルとの関係の変化とか、そこに哲学がどのように関係するのか(注9)といったことを描き出そうとして映画を制作しているのでは、と思えました。
 そして、それらのことは、なかなか興味深く描かれているように感じました。

 加えて、ジルが演奏会やピアノのレッスンでバッハの「前奏曲とフーガ」を弾き、またパーティーでは学生がバッハの無伴奏・チェロ・ソナタ(注10)を演奏したりしますし(注11)、またクマネズミには理解不能ながらも関心のある哲学者の名前がふんだんに台詞の中に飛び出したりするのですから(注12)、なかなか楽しく本作を見ることが出来ました。

(3)渡まち子氏は、「近年のアレン作品では「ミッドナイト・イン・パリ」と「ブルー・ジャスミン」が最高の出来なので、どうしても他作品は軽すぎ、甘すぎ、ユルすぎで見劣りがしてしまう。本作もそんな1本。「マッチポイント」ばりのサスペンスなのだが、テイストはあくまでもコミカルでライト感覚」として55点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「(ウディ・アレンが)殺人を得々と自慢する妄想男エイブをどう扱うのか。そこを見どころにして迎えるフィナーレにのぞくのは、齢80歳にして見せるウディ流の反省?罪には罰を与えるかそれとも勝利の喜びか。老いても意地の悪さは変わらない」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 金原由佳氏は、「本作では得意の会話劇をあえて寸断し、主人公ふたりの独白を挿入、会話の底に隠れる真意をシニカルに露呈する」とし、「それにしても、老境に入ったアレンの変化が気になる。会話の愉楽を再び撮る日はやってくるだろうか」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『マジック・イン・ムーンライト』のウディ・アレン(最近では、他にも『ブルージャスミン』とか『ローマでアモーレ』など)。
 なお、本作の原題は「Irrational Man」。

(注2)「その頃、エイブは心を病んでいた」、「とにかく変わっていた」といったナレーションが入ったりします。後の話からすると、親友がイラクで殺されたのがトラウマになっているということもあるようです(また、12歳の時に母親が自殺したとも話されています)。

(注3)後ろの席では、女とその家族らが、女の子どもの親権をめぐって議論します。女は、「判事が弁護士と結託していて、このままだと子供の親権は向こうに取られてしまう。そうなると、子供達は地下室に置かれて大変な目に遭うことになる。毎晩眠れない。子供達を連れてヨーロッパに行きたい。あの判事が死ねばいい」などと話しています。

(注4)毒殺用の青酸カリを入手するのに、勤務先の大学の化学室の薬品庫に忍び込むというのですから(その鍵はリタのかばんから盗み取ります)、短絡的に過ぎます。案の定、彼の顔を知る教官とそこで遭遇することになります(その場はなんとか言い逃れますが)。



(注5)いくら、エイブにアルバイトをした経験がありエレベーターの構造に詳しいからといって、あんなことをすれば他の階の者が利用できなくなりますし、それにエイブの作業を他の誰かが見ていないとも限らないでしょう。
 さらには、エイブがジルと関係していたことは大学等で周知の事柄ですから、ジルが死んだ時には、彼女のそばにいたエイブの過去も警察に調べられ、エレベーターに詳しいことも明るみに出るのではないでしょうか?
 あるいは、エイブは、ジルの傍にいなかったと主張するのかもしれません。ただ、その場合には、自分のアリバイをどうするのでしょう?
 他にも、かご(リフト)が来ないのにドアが開くのかという疑問も湧いてきます(でも、このサイトの記事によれば、ロック装置が摩耗していればそういうことも起こりうるとのこと。エイブがそのことを知っていて、ロック装置に細工をしたとすれば、映画のようなことも起こりうるのでしょう)。

(注6)エイブは、判事を殺したことを“実存的選択”だとし、またサルトルが「地獄とは他者のこと」と言ったことで、あるいは正当化しているようです(ここらあたりのことは、このサイトの記事が参考になるかもしれません)。
 そうなると、エイブが自首すべきだと言い張り、そうしないならば警察に通報すると宣言するジルは、カントの倫理学に従っていることになるのでしょうか?

(注7)エイブは、ジルに、「死に取り憑かれて、自殺しか頭になかった」とか、「心も身もボロボロだ」と語ったりしています。リタとベッドインしてもうまく行きませんし、学生らが興じているロシアン・ルーレットに加わって、弾丸が1発入ったピストルを自分の頭に向けたりもします(その際には、エイブは、「教科書に優る実存主義の授業だ」と言います)。

(注8)エイブは、スパングラー判事を毒殺した後、憑き物が取れたように元気ハツラツとしてジルとも付き合い出します。リタとのベッドインもうまくいきますし(リタが「野獣のようだ」と感嘆します)、また、『ハイデッガーとファシズム』(ちなみに、この拙エントリの「注13」などにおいて、この問題について少々触れています)を途中まで書きながらも、息苦しくなって途中で放棄していたところ、殺人の後になると書き続けることができるようになります。
 ただ常識的には、目標達成に向かって突き進んでいるときは、意識が集中して元気にもなるでしょうが、目標が達成された後には、むしろ虚脱感に襲われてしまうのではないでしょうか(特に、標的とされた人物は、エイブの生活に全く何の関わりも持たないのですから、その人物を排除したからといって、簡単に闇が晴れてしまうことにならないのでは)?
 尤も、本作の場合、深い鬱状態だったエイブが、殺人という目標が定まりそれに邁進すると、鬱状態を脱出し、こんどは強い躁状態になったというような感じを受けます。

(注9)エイブは、アメリカで主流となっている分析哲学ではなく大陸の哲学を研究しているのは、そちらの方が刺激的だからだと言います。ただ、彼が自殺しようとするまでに落ち込んでいる時には、その哲学は余り助けになっていません。ところが、実存主義的な行動として殺人を犯すと、とたんに心の闇は晴れてしまうのです。とはいえ、その彼に対しては、ジルから強烈な批判が浴びせられ(上記「注6」で触れたようにカントの倫理学に拠るのでしょうか)、結局エイブが打ち負かされることになります。

(注10)本作で演奏されたのは第1番。
 ちなみに、クマネズミは、超スローテンポの低レベルながらも、その第3番をクラシック・ギターで演奏すること(例えば、このサイトが参考になるでしょう)にとりかかっている最中です。

(注11)そういえば、『無伴奏』や、特に『孤独のススメ』でも、バッハの曲が随分と流れていました。
 尤も、この記事によれば、「本作ではラムゼイ・ルイス・トリオの「Wade in the Water」や「Look-A-Here」などが全編を通して使用されており、そのファンキーなグルーヴ感が話をテンポよく進めることに一役買っている」とのことで、バッハ以外の音楽にも耳を傾けなくてはなりません(本作で流れるラムゼイ・ルイス・トリオの「The 'In' Crowd」については、このサイトで聴くことが出来ます)。

(注12)本作では、本文(1)で触れたカントのみならず、キェルケゴール、フッサール、サルトルといった著名な哲学者の名前が飛び出します。
 また、エイブの書斎の机の上に置かれていたドストエフスキーの『罪と罰』の余白には、判事の名前のみならず、ハンナ・アーレントの名前と「悪の凡庸さ」という言葉が書き込まれていました〔エイブは、罪の意識なしに大量殺人を犯したアイヒマンのことを想起したのでしょうか?なお、この点については、上記「注8」で触れた拙エントリの「注8」をも御覧ください〕。



★★★★☆☆



象のロケット:教授のおかしな妄想殺人