映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

パレード

2010年03月14日 | 邦画(10年)
 『パレード』を渋谷シネクイントで見てきました。
 予告編を見て興味をおぼえ、また監督の行定勲氏による前作『今度は愛妻家』が素晴らしかったこともあり、こちらもぜひ見てみようという気になりました。

(1)一見したところでは、今度の映画も、監督の前作と同じように、戯曲を映画化したものではないかと受け止められる恐れがあります。なにしろ、マンションの一室(2LDK)が主な舞台であって、リビングに接する2つの部屋への人の出入りを見ていると、そんな感じにもなってしまいます。
 ただ、主たる登場人物が、前作の場合2人(豊川悦司と薬師丸ひろ子)でしたが、こちらでは5人と増えているだけでなく、外部とのつながりもかなり設けられているので、全体としてはあまり戯曲めいた感じは受けませんでした(実際も、吉田修一氏の小説が原作です)。

 主な出演者は、28歳の藤原竜也が一番年上であり、中でも注目株の林遣都は19歳と若く、それからすれば青春映画そのものといえるかもしれません。特に、このマンションの一室では、二人の若い女性(香里奈と貫地谷しほり)も一緒に同居していますし。

 ですが、この作品が単なる青春映画と言えないのは、それら同居する若者の間の恋愛関係ではなく、むしろ付かず離れずのはっきりとしない関係、はっきりと真実の姿を見定めるのではなく、そんなことをしたらこの居心地のいい場所が壊れてしまうから適当な距離を置いて付き合うという関係が主に描かれているからです。

 そういうところから、精神科医の樺沢氏のような評価が出てくるのでしょう。すなわち、同氏は、「若者たちが抱える「孤独」の問題。表の顔と裏の顔という人間の二面性。依存と自立など、深い人間心理が描かれていて見応えのある作品であった」と、その『映画の精神医学(まぐまぐ)』で述べています。
 ただ、「若者たちが抱える「孤独」」といったテーマならば、これまでにも随分と映画で取り上げられており、むしろ、現代の若者を描きながらそんなテーマを無視した映画の方が見つけにくいというべきかもしれません(注1)。

 としたら、この映画はどういうところが目覚ましいのでしょうか?
 私としては、この映画で描き出されるマンションの一室は、樺沢氏がいうように、「一緒にいるだけで、何か「ホッ」とする」ような「居場所」、「リラックスできて、心からゆったりとできる場所」であるとしても、決して自由気ままに何の制約もなしに過ごせる場所ではなく、それを維持するために暗黙のルールが設けられているのであって、それが映画でうまく描き出されている点に興味を持ちました。

 たとえば、その一室の中には恋愛関係を持ち込まず、皆がその外部に相手を求めているのです。フリーターの小出恵介は、先輩の彼女といい仲になりますし、貫地谷しほりはイケメン・タレントからの電話を心待ちにしている毎日を送っています。先輩格の藤原竜也は、別れた彼女とだらだら関係を続けているといった具合。一緒に密接に生活していながらも、この内部では誰も恋愛関係に陥らないのです(林遣都は男娼です。また、香里奈が扮するイラストレーターは、特定の相手は持っていませんが、なかなか複雑な性格を持っています)。

 樺沢氏は、このマンションの一室を、「ゆるい関係性」を持った「居心地のいい場所」ととらえていますが、お互いに深い関係にならないように行動するというルールが厳然とあって、むしろ「夫婦、親子という濃い人間関係の場」である「自宅」よりも、ある意味で「濃い人間関係」のある場所となってしまっているといえるかもしれません(注2)。
 だからこそ、ラストで大変な事件を引き起こす藤原竜也に対して、ほかの皆が何事もなかったかのような態度を示すのではないでしょうか?そのことが藤原竜也にもわかって、立ち上がれないほどの衝撃を受けるのでしょう。


(注1)樺沢氏がことさらめかしく、「現代の日本人が抱える重要問題として、「孤独」「孤立」というのを以前から考えていた」とし、この映画について「今時の若者に広く存在する「孤独」というものを、深くえぐっているような気がした」と述べているのは、つとにリースマンの『孤独な群衆』が1950年に出版されていて(翻訳は1964年)、そんな問題意識は今や一般化され陳腐化しているところからすれば、何をいまさらという感じになってしまいます。
(注2)樺沢氏は、「趣味サークルの集まりだったり、行きつけの居酒屋やバーだったり」する「心からリラックスできる「居場所」を持っている人は、リフレッシュもできるし、クリエイティブな刺激も受けます」などと至極楽観的なことを述べていますが、そうした一見「ゆるい関係性」しかないように見える場所にも厳然と一定のルールは設けられていて、おのずと「濃い関係」になってしまっているのではないでしょうか(特に、現代日本においては)?
 あるいは、「ゆるい」「濃い」という対立からではなく、農村共同体的な「和」を重視する「居場所」と近代的な「個」を重視する「居場所」とがあるというように捉えることができるかもしれません。


(2)この作品は、吉田修一氏の小説を映画化したものです。
 渡まち子氏が述べているように、原作は、「登場人物それぞれの視点から描かれる一人称の物語5話」から構成されています。この5つの物語は、それぞれ別々の人格が語るわけですから、一つ一つが分離しています。ただ、ズレていながらも重なり合っている部分もあり、結局、5話を通して全体のストーリーが浮かび上がってくると言えるでしょう。
 もしかしたら、5人が語る話が、それぞれ一つ一つ分離しているようでいながらも横につながっていることから、小説の題名が選ばれたのではと思えるところです。

 これに対して映画の場合、登場人物(一人称)が見ることのできる光景をつないで全体を作ることはできないわけではないものの、一般的には、“三人称(神)の視点”から“俯瞰的”に全体を把握するようにしか描き出しません〔勿論、三人称の視点で作られるといっても、一人称の視点も紛れ込んでいるのが普通ですが〕。
 この作品の場合、登場人物の名前と職業が5回に分けて途中で画面に表示されるものの、むろん小説のように5つの視点に分割されているわけではなく、通常の映画のように、三人称の視点から全体として一貫したストーリーが展開されます(注1)。
 渡まち子氏が、「小説とは違い、映画は5人の関係性を俯瞰して淡々とみつめる」と述べているのも、そういう意味合いのことだと思われます。
 したがって、話が分離しながらもつながっていてラストに至るという小説から受ける印象は、この映画からは観客はうまく得られない感じです。『パレード』というタイトルに対する違和感が、最後まで残ることになってしまいます。

 渡まち子氏は、引き続いて、「小説とは違い、映画は5人の関係性を俯瞰して淡々とみつめる。その距離感がリアルなのだ」と述べています。具体的には、「若者のユルい共同生活には、表層的な付き合いで充足する人間関係の歪みや、日常性さえ持つ犯罪への麻痺感覚が透けて見える」というわけです。
 ただ、そのような点なら、映画に限らず、吉田氏の小説の方でも十分に書き込まれています。
 ですから、この点(何がリアルなのか)は、比較すべき事柄ではなく、描いているメディアの違いという点から議論すべきではないかと思いました(注2)。


(注1)黒澤明監督の『羅生門』とか、最近見たベルギー映画『ロフト.』のように、同じ出来事について別々の人格が違った内容のことを語る、というようにこの映画が作られているわけではありません。
(注2)最近読んだ『日本語は亡びない』(金谷武洋著、ちくま新書、2010.3)には、「日本語における<我>は、決して「対話の場」から我が身を引き離して、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線をもたない。<我>の視線は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である」などと書かれています(P.106)。
 あるいはもしかしたら、吉田修一氏の小説と行定薫氏の映画との違いも、ここらあたりにあるといえるかもしれませんし、ハリウッド映画に代表される洋画と、小津安二郎の映画(ローポジション!)に代表される邦画との違いも、こんなところにあるかも知れないなどと、いい加減な夢想に耽ったりしています。
 なお、大変興味深いことに、金谷氏の著書では、樺沢氏が注目した「居場所」について、別の視点ながら分析されているのです(同書P.136)!

(3)この映画に対しては、評論家も意見が分かれるようです。
 上記の渡まち子氏は、「久しぶりに行定勲監督の才能を実感した。秀作「GO」に次ぐ出来だと思っている」として70点をつけています。
 他方で、前田有一氏は、「噂のラストも、本来なら気味悪さ+説得力あり+しかも共感、といったあたりを狙えばもっといい味を出せたのだが、不発である。これは登場人物がこぞって変なやつらばかりで、その奇抜さを解消せず突っ走ったのが原因と思われる」などとして55点しか付けず、
 福本次郎氏も、「結末にたどり着くまでのエピソードの蓄積が弱く、意味ありげで思わせぶりなプロットの連続は、監督の謎かけにつきあわされているようで、結局何が言いたかったのと問い詰めたくなる。本心を偽りうわべを繕うのは、ルームシェアを良好な状態に保つための都会的若者の知恵なのは理解できたが。。。」として50点です。

 前田氏は、「犯人も最初の30分でバレてしまうのである。警戒している人間をだます難しさを、ミステリを作る脚本家、監督たちはもっと認識してもらいたい」と御託宣を垂れています。
 ですが、劇場用パンフレットには、「ネタバレ注意」といった断り書きもなく、「ある雨の夜、いつものようにジョギングする直輝は、すれ違った若い女性にスパナで殴りかかった」ときちんと書かれているところから見ても、この映画はサスペンスとして作られてはいないことがわかります。「犯人も最初の30分でバレてしまう」のも、決して前田氏が自漫気に語るべき事柄でも何でもないのです。
 さらに、「ロケ地も明大前、浅草、新宿等々、動線として不自然さを感じ」させるとしていますが、それは言わぬが花というものではないでしょうか。そんな事にいちいち不自然を感じてしまったら、時代劇映画など見れたものではないでしょう。
 また、福本氏は、「本心を偽りうわべを繕うのは、ルームシェアを良好な状態に保つための都会的若者の知恵」だなどとまじめに受け取ってしまっていますが、この映画は何も「ルームシェア」の在り方を問題にした映画ではないと思いますが。


★★★★☆


象のロケット:パレード