映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

食堂かたつむり

2010年03月13日 | 邦画(10年)
 『食堂かたつむり』を恵比寿ガーデンシネマで見てきました。

 予告編で見たときから面白そうだなと思い、見に行こうとしたところがなかなか時間がうまく合致せずに、映画館に行くのがこんなに遅れてしまいました。

 この映画に対し前田有一氏は、4点という極端に低い点数をつけています。
 その論評を読んでみますと、「「人物描写が浅い」「期待はずれ」「話が薄い」「突っ込みどころ満載」などといった生の読者の声を、きっと富永まい監督も読んだのだろう。この映画版を見た人も、原作を読んだ人たちと同じ感想を持つことができる、きわめて原作に忠実な実写化となっている」などと、ストーリー紹介から論評に移った途端に、強烈な反語的表現による酷評がこれでもかと続き、末尾の「邦画では貴重なカルトホラーとして、まれにみる傑作の誕生となった」に至ります。
 いくら気にくわないからと言って、これほどの厳しい批評をした人にこれまで遭遇したことがありません。

 確かに、「突っ込みどころ満載」の映画でしょう。
 1日に1件の客しか受け入れず、一つ一つの料理にあれほどの食材を投入して時間をかけていては経営などおぼつかないでしょうし、おばあちゃんから糠漬けは教わったにしても、各国料理の精髄をいつの間にどうやって習得したのか、ジュテームスープを飲んだら愛が芽生えるというのも如何にも幼稚な感じであり、満島ひかりは、サンドイッチに虫を入れた張本人にもかかわらず、いつのまにか結婚式で皆と一緒に楽しく食事をしていたり、それに……。

 ですが、映画の冒頭から、ファンタジー映画なのだと割り切ってしまえば〔だって、食堂を取り囲む風景に「おっぱい山」を見たら、この映画をファンタジー以外に受け取りようがないではないですか!〕、そんなことはすべてどうでもよく、前田氏が酷評するほど駄目な映画ではないのではないか、むしろ大変楽しい映画ではないか、と思えてきます。

 こんなすごい料理を食べることができ、同時に夢まで叶うことができたら、それは素晴らしいことだなあ、そんなことが実現したら世の中どんなにいいだろうな、さらには、トレイに入っているロース肉などとしてしか接していない豚とあのように通じあえたらどんなにいいだろうな、死ぬ間際に思い焦がれていた人と結婚できたらどんなに素敵だろうか、などというところを映画にしてみたのでは、と受け取ってみたらどうでしょう。

 そんなことは子供騙しで馬鹿馬鹿しいというのであれば、それはそれで仕方のないことです。ですが、だったら一人でそう思っていれば済むことで、あるいは見なければいいのであって、前田氏のように大上段に構えておおぴらに批評するのは、実に大人げないことだとしか思えないところです。
 子どもの絵本を見る感じでこの映画に接すれば、「原作者は、食というものを根本的に勘違いしている(もしくはそう装っている)」などといった高飛車な物言いは飛び出さなかったことと思います。

(2)この映画の原作本について、amazonのカスタマーレビューを見ると、ペットとして飼っていた豚の「エルメスの」のところが一番の問題のようです。 
 下記の小梶勝男氏も、「余貴美子が演じる母親が、自分がガンであることを知り、それまで可愛がっていたブタを突然、「食べる」と言い出すという、それだけなのだ。ブタを食べるという行為や意味は提示されるが、それが提示されるだけでドラマになっていかない」と批判的です。
 ただ、この点については、宗教学者・文化人類学者の中沢新一氏の『熊から王へ(カイエ・ソバージュⅡ)』(講談社選書メチエ、2002年)が、あるいは参考になるかも知れません。

 たとえば、中沢氏は、次のように述べています。
 「アメリカ・インディアンたちは鮭を捕り、肉や内臓をきれいに食べた後、残った骨や皮の部分をじつに丁寧に取り扱いました」。「なるべく骨を折らないようにして、丁重に川に流したのです」。「トナカイや熊などの動物を人間は長いこと獲ってきましたが、これらの動物の内臓にはとりわけデリケートな配慮が必要だとされてきました。内臓は丁寧に扱われ、その社会で最も高貴な人々だけが、口にすることができたと言われています」(P.15)。

 また、サハリン中部以北などに住むニヴフの人々の「熊送り」の儀礼が取り上げられています。
 中沢氏によれば、小熊のころから大層可愛がってきた熊が2,3歳になったころを見計らってこの儀式が行われます。「木に結わえつけれれた熊は儀礼用の矢で射られて死」にますが、「人々は亡くなった熊のからだを、細心の注意を払いながら解体します」。「そうやって解体と熊の霊の送りが完全におこなわれると、熊の霊はよろこんで、人間への友愛を回復してくれるというのです」(P.85)。

 映画において、結婚式のパーティーで、各国の料理が豚のエルメスのどの部位を使ったものかを示すボードが登場しますが、このことで、皆が如何にエルメスを丁重に取り扱ったかが示されているのではないでしょうか?
 また、窓にあたって死んでしまった鳩を丁重に扱って料理したことのお礼として、倫子の声が蘇るのではないでしょうか?

(3)評論家諸氏は、前田氏ほどではないにせよ、総じて辛めの評価です。
 小梶勝男氏は、「真っ向から「癒やし」を描かれると、見ていてどうにも居心地が悪い。映画の中で登場人物たちが癒やされるほどには、観客は癒やされない」、「何故か今ひとつ、すべてが心に響いてこない。いろんなものを一通り並べただけ、のような印象なのだ」として、同氏としてはかなり低めの66点を付けています。
 渡まち子氏は、「柴咲コウ自身が作っているという料理シーンにうそがないことや、余貴美子演じる母親のキャラが抜群に立っていることで、お互いに屈折しながら歩んできた母 と娘の和解の物語として味わうことができる。料理がもたらすとされる幸せが、劇的な変化ではなく、何かのきっかけになるささやかなサイズであることが好ま しい」として、かろうじて55点を付けています。
 福本次郎氏となると、「もともとスカスカな内容の原作は映画化でいっそう隙間風を吹かせてしまった」として30点です。
 福本氏は、「ヒロインの半生を手短に紹介するイントロ部分は、魔法の国の扉を開けるようなメロディに乗せた歌と簡潔な映像でテンポよく語られる。これからどんなおとぎ話が展開するのかと期待はふくらむが、ブタを飼う母親が出てくるあたりで急速にしぼんでしまう」と述べているところ、「ブタを飼う母親が出て」くれば、普通ならばおとぎ話としての「期待」が一層ふくらむのではないでしょうか?
 それに、「熊さん」や「お妾さん」が一人で食べている光景は「味気ない」と述べていますが、ここは観客と一緒になって食べていると想像力を働かせればいいのではと思います。


★★★☆☆

象のロケット:食堂かたつむり