昨日の昼前のニュースで、自宅の3軒先のお宅の若きご主人が交通事故で亡くなったことを知る。なんと事後現場は我が社の近所で複雑な思いだ。地域の行事にもさわやかに参加される人であった。けれどボクはその方の何を知っているというのだろうと、昨日の帰り道ドアに貼られた黒枠を見つめた。何も知らなくて当たり前だしそれでいいのだ。只ご冥福を祈るばかりだ。そんなことを思っていたらミャンマーで日本人新聞記者の長井氏が発砲を受け亡くなった。亡くなるまでカメラを手から離さなかったというニュースが流れているが、はてご本人はそんなニュースが報じられることを本当に望んでおられたのだろうか。長井さんが伝えたかったのは政権が市民に銃口を向けたことであり、ジャーナリスト魂を伝えてほしかったわけではないと思う。何も知らないということを知らそうとしてがんばっておられたのだということを、まずボクたちは知らなければならないんだろう。アウンサンスーチーさんが自転車に乗って京大に通っておられた姿を覚えている京都市民は多いという。長井さんのご冥福を祈りつつ、何を今知らなければならないのかとボクははたと考える。あの国に一番お金を持って行っている国は我が国であるということ、そんなことしかボクは知らない。