孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

マレーシア国王の「王冠を賭けた恋」? インドネシア・ジョグジャカルタ王家の女性継承

2019-01-07 23:35:47 | 東南アジア

(【2018年11月27日 SPUTNIK】で報じられているマレーシア国王と「ミス・モスクワ2015」で優勝したロシア人のオクサーナ・ヴォエヴォジナさんの結婚式の様子)

【かつての「ミス・モスクワ」との結婚の噂が流れていたマレーシア国王が、独立後初めての退位】
マレーシアと言えば、政治の中心は復活したマハティール首相ですが、この国は立憲君主制で国王が存在します。

“立憲君主制国家であるマレーシアは、9州のスルタン(イスラム王侯)が5年ごとに持ち回りで国王を交代する珍しい制度を採用している。”【1月6日 AFP】

その国王が病気療養を理由とした休暇中に、ミスコンテストで優勝した経歴のある25歳のロシア人女性とロシアで結婚したとのうわさがネットメディアなどで報道されていましたが、国王を退位することになったそうです。

****マレーシア国王が退位、ミスコン優勝のロシア女性と結婚のうわさ****
マレーシアの王室当局は6日、第15代国王ムハマド5世が退位したと発表した。ムハマド5世についてはミスコンテストでの優勝経験を持つロシア人女性との結婚がうわさされ、公務から離れていた。
 
国民の大多数をイスラム教徒が占めるマレーシアで国王が退位するのは、1957年に英国から独立して以降初めてとなる。
 
同国王は11月初頭から2か月の間療養していたが、その間ロシア人女性と結婚したという真偽不明の情報が流れていた。
 
同国王室が発表した声明は、49歳の同国王の退位を認め、「陛下はマレーシア国民に対し、統一を維持するために団結し続け、協力し合うよう求めた」と述べている。ただ、退位の理由については明らかにしていない。
 
2016年12月に即位した同国王をめぐっては、昨年11月に治療のために公務を離れて以降、王位の維持を疑問視する見方が浮上。
 
ネット上では、かつてミス・モスクワに輝いた女性と結婚したとの報道が流布した。
 
王室当局はこれまでのところ、結婚のうわさに関するコメントしておらず、健康状態についての詳細も明らかにしていない。(後略)【翻訳編集】AFPBB News
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結婚云々の真相は知りませんが、持ち回りの形式的・5年間だけの国王の地位よりは、かつてミス・モスクワに輝いた女性と結婚の方が人生においてははるかに重要であると考えるのは“一人の男性”としては当然のことでしょう。

国王であるがゆえに、そうした人間としての自由が制約されるのであれば、非常に気の毒なことでもあります。
古今東西の王家には、そうした“人間としての自由”の制約が“当然のこと”としてつきまといます。

世間からの批判を受ける結婚のために王位を捨てる・・・ということでは、「王冠を賭けた恋」として有名なイギリス国王エドワード8世とアメリカ人既婚女性ウォリス・シンプソンとのロマンスが想起されます。

こちらは、同じ立憲君主制とは言え、1936年、世界に冠たる「大英帝国」の王位ですから、当時は世界を驚愕させた大事件だったようです。

****エドワード8世****
1936年1月のジョージ5世の死後、独身のまま「エドワード8世」として王位を継承し、即位式には(愛人のアメリカ人女性)ウォリスが立会人として付き添った。

しかし、王室関係者はウォリスを「ただの友人」扱いをしたため、エドワード8世はウォリスに対して「愛は募るばかりだ。別れていることがこんなに地獄だとは」などと熱いまでの恋心を綴ったラブレターを送ったり、これ見よがしにウォリスと同年の8月から9月の間に王室の所有するヨットで海外旅行に出かける、ウォリスと共にペアルックのセーターを着て公の場に登場する等アピールを繰り返した。

しまいには、スタンリー・ボールドウィン首相らが出席しているパーティーの席上で、ウォリスの夫アーネストに対して「さっさと離婚しろ」などと恫喝した挙句に暴行を加えるなどといった騒ぎまで引き起こした。

また、ウォリスも10月27日に離婚手続きを済ませいつでも王妃になれるよう準備をしたが、エドワードとの関係を持ちながら、同年8月より駐英ドイツ大使となったヨアヒム・フォン・リッベントロップとの関係があったと取りざたされた上に、エドワード8世はアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニらファシストに親近感があるような態度を取り、この言動は保守党内における抗争の火種にまで発展することとなった。

エドワード8世はウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、立憲君主制への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。

チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、ノイローゼに近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、1936年11月にエドワード8世の側近である個人秘書のアレグザンダー・ハーティングを呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。

この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。

イギリス国内では、7日頃からエドワード8世がウォリスとの結婚を取り消すことを発表するだろうとの噂が流れていたが、9日の夜頃に一転して、国民の間でも退位は確実との情報が流れて、国内には宣戦布告をも上回る衝撃が走ったといわれている。

12月10日に正式に詔勅を下し、同日の東京朝日新聞をはじめとする日本国内の各新聞社の夕刊もこのニュースをトップで報道した。同日午後3時半に、ボールドウィン首相が庶民院の議場において、エドワード8世退位の詔勅と、弟のヨーク公が即位することを正式に発表した。

この影響で、シティでは電話回線がパンクし、ビジネスマン達はエドワード8世退位による経済変動の対策に追われ、映画館では字幕スーパーでニュース速報が流れ、上映終了後に観客全員に起立を呼びかけたうえで『国王陛下万歳』が演奏された。

ロンドンの市街地では、ウエスト・エンドをはじめとする商業施設の機能が停止し、群集が午後4時頃から出された号外を奪い合い、バッキンガム宮殿に出入りする王族を一目見ようと宮殿付近に殺到するといったような事態にまでなり、ロンドンの街は大混乱に陥った。

そして翌日の12月11日午後10時1分にBBCのラジオ放送を通じて、王位を継承するヨーク公への忠誠、王位を去ってもイギリスの繁栄を祈る心に変わりはないことを国民に語りかけた上で、王である前に一人の男性であり、自分の心のままに従いたく、ウォリスとの結婚のために退位するのに後悔はないとして、「私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ないということを。」という言葉で名高い退位文書を読み上げた。

在位日数はわずか325日で、1483年のエドワード5世以来453年振りに未戴冠のまま退位した国王となった。この一連の出来事を「王冠を捨てた」または「王冠を賭けた恋」とも言う。

放送終了後に、王族達と最後の食事を摂った「元国王」のエドワードは、日付が変わった12月12日深夜にポーツマスの軍港から出航し、イギリスを去った。【ウィキペディア】
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「王冠を賭けた恋」と言えば非常にロマンチックですが、エドワード8世は皇太子時代、気さくで形式・伝統に縛られない言動で非常に人気があった一方で、“ヨーロッパでも屈指のプレイボーイとしても有名で、14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード自由党庶民院(下院)議員夫人をはじめとして、貴族令嬢から芸能人まで交際相手は幅広かった”【ウィキペディア】とも。

“その美男子ぶりと派手な女性遍歴から「プリンス・チャーミング」や「世界で一番魅力的な独身男性」などと評されたこともあった”【同上】とも。

まあ、これは当時の王族としては“ごく普通のこと”ではあるでしょう。

また、“オーストラリアを訪問した際に先住民アボリジニのことを「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最も猿に近い」などという人種差別そのものの発言をして、物議を醸したこともあった”【ウィキペディア】というのも、当時の人権に関する意識としては、さほど驚くほどのものではないでしょう。

恋の相手、アメリカ人女性ウォリス・シンプソンの方も、決して“純真・可憐”というタイプではなかったようです。

“彼女は抜群の美貌ではなく、また小柄だったが、お洒落や会話術、ダンスなどに人一倍の努力を払っていたこともあって、男性たちを魅了、ボーイフレンドに恵まれており、常々「金持ちで、いい男を見つけて結婚するのが夢なの」と周囲に語っていたという。”【同上】

“(国王退位後)ウォリスは(ハバナの)ナッソーで第二次世界大戦下の5年間を暮らした。総督とはいえ名誉職であり、飼い殺しのような状態であった。ウォリスは、「ここは(ナポレオンが流刑にされた)セントヘレナ島よ」と言って、バハマを嫌った。ウォリスが特注のエルメスのバッグを持ち、毛皮や宝石で飾り立て、飛行機で何度もアメリカへ買い物をしに旅行する姿は、戦時下で苦難にあえぐ人々の批判の的となった。”【同上】

まあ、“ヨーロッパでも屈指のプレイボーイ”と「金持ちで、いい男を見つけて結婚するのが夢なの」と語る女性の恋だからどうこうというのも野暮というものでしょう。

当然の流れととして、後に王妃となったエリザベスを含むイギリス王室とウォリスの間には確執が続いたようですが、イギリス王室内の愛憎劇は週刊誌・テレビで今でもよく目にするところです。

なお、退位してウィンザー公爵夫妻となった二人ですが、ドイツ・ナチスとの関係が云々されていることも、よく聞くところです。

【君主の存在は、当選者が相対的な権力しか持ち得ないことを人々に知らしめる】
ゴシップだけというのもなんですので、最近「GLOBE+」で目にした、「君主制の役割」に関する記事も。

****君主になれない私たち、そこに平等がある マルセル・ゴーシェに聞く「君主制の役割」****
天皇陛下の退位と皇太子さまによる新天皇への即位を前に、君主制を考える論議の場が少しずつ生まれている。

1人1票の平等に基づく民主主義と、世襲に基づく君主制とは、矛盾しないのか。「むしろ、民主主義には君主こそが必要だ」と、現代フランスを代表する思想家マルセル・ゴーシェは考える。

立法権と行政権を監視する「第3権力」としての役割を君主が担うと考えるからだ。その論理を尋ねた。(聞き手・国末憲人)

――著書「代表制の政治哲学」では、立法権と行政権を監視する「第3権力」の必要性を強調していますね。

19世紀の歴史を見ると、王権とたもとを分かって共和政を発展させたフランスや米国はむしろ例外です。多くの国では立憲君主制の中で民主主義が育まれた。

その後、民主主義が優位に立つ中で、君主制は国家の歴史的連続性を体現する象徴的存在となり、中立的な第3権力の地位を占めるに至りました。

立憲君主制の下だと、選挙で選ばれた人物は政権を担えても、歴史的正統性を持つ存在にはなり得ません。つまり、市民の代表が絶対的権力を振るって暴走する恐れを、君主が抑え込んでいる。君主の存在は、当選者が相対的な権力しか持ち得ないことを人々に知らしめます。

――君主の存在は、人間一人ひとりが平等である原則に反しませんか。

確かに君主は不平等な存在です。市民がなろうと思ってもなれませんからね。

ただ、不平等な君主が存在することで、市民は自分たちが『君主になれない』点で平等だと悟る。不平等な君主が市民の平等意識を保障する。だから、欧州では北欧をはじめとする立憲君主制の国ほど市民が平等なのです。

――第3権力というと、通常は司法権を思い浮かべますが。

司法は不可欠な権力ですが、被選挙者の正統性に疑問を投げかけるだけの政治的な力を持ち得ません。選挙で生まれた権力の上には立てないのです。それを可能にするのが中立的な第3権力です。

――世襲の君主制で、愚かな王様が登場する恐れはありませんか。

大いにあります(笑)。危険な人も、無能な人も、王になり得る。そのような偶然性を受け入れることこそが世襲制の根源的な原則です。もしバカが君主になったら摂政を置くなりの対策を考えればいい。君主制の原則を問い直す必要はありません。

――しかし、フランスは革命で王の首をはねてしまいましたね。

そう。だからもう、なすすべがない。フランス人にとって、国王はギロチンにかけるために存在していたのです。

国王がいなくなると、今度は大統領を選挙の度に血祭りに上げる。オランド前大統領が再選立候補できなかったのは、いわばギロチンにかけられたのです。

フランスという共和国では、選挙で選ばれた人が極めて強い正統性を持つ一方、期待外れだった場合は市民の不満イスラム国家「文化闘争」の主役君主制のよりどころとなる国家がグローバル世界の中でどうなるか次第でしょう。生き延びるか、消え去るか。

前者の場合、君主制は存続するどころか、集団アイデンティティーのよりどころとして機能を強めるかも知れない。

後者の場合、君主制はもはや、民俗文化の痕跡に過ぎなくなる。英バッキンガム宮殿の衛兵交代のように、中身のない観光資源と化すでしょう。どちらかというと、後者の可能性が強いと思います。

Marcel Gauchet 1946年生まれ。ポスト構造主義後を代表する哲学者、歴史家。フランス社会科学高等研究院名誉研究部長。邦訳書に「代表制の政治哲学」「民主主義と宗教」など。【1月6日 GLOBE+】
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【女性継承に挑むジョグジャカルタ王家 新時代の女性として全国の若い女性からも注目を集めるハユ王女】
「GLOBE+」でも特集しているように、世界にはいろんあ国王・王族がいますが、最近目にした王族関連の記事で印象的だったのは、インドネシア・ジョグジャカルタの王家とハユ王女に関する「選択」の記事。

冒頭で取り上げたマレーシアの隣国インドネシアでも、古都ジョグジャカルタ(世界遺産ボロブドゥール観光の基地となる街でもあります)にもスルタンの血を引く「地域王制」が存続しています。

****ハユ王女 インドネシア・ジョグジヤカルタ特別州王室********
イスラム国家「文化闘争」の主役

少し昔の話である。インドネシアの古都ジョグジャカルタには、英明で勇敢な国王(スルタン)がいた。
 
ハメンクブウォノ九世は、皇太子のころ、植民地宗王国であったオランダのライデン大学で学び、西欧の豊かさと近代的制度に圧倒されて帰国した。一九四〇年、前年の父上の死を受けて即位した時は二十七歳だった。
 
若い国王はすぐに第二次世界大戦、オランダ敗北、日本車の進駐という激動に巻き込まれたが、知恵と勇気で臣民を守った。
 
インドネシア独立戦争では、他の士侯と異なって独立を支持。自らゲリラ戦を指揮した。新生インドネシアで唯一、ジョグジャカルタ(特別州)が地域王制として残ったのも、この功績からだ。王はインドネシア副大統領まで務めた。
 
ジョグジャカルタ王室が自由閉達、進取の気質に満ちたのもこの王の時からだ。(中略)ハユ王女は四女である。
 
子供のころから頭の回転が速く、ゲームとパズルが大好きだった。オーストラリア、シンガポール留学を経て、米国の大学では情報工学(IT)を学び、英ボーンマス大学ではITとデザインを学んだ。
 
インドネシアに戻った後、「王室の外で働きたい」と、国王である父親に訴えた。すると国王は、「お前はまったくの新米なのだから、ちゃんとした会社に勤めて、鍛えてもらえ」とアドバイスをした。
 
言葉通り、数年のインターンを経て、フランスのゲーム大手で、プロデューサーとしてゲーム作りを始めた。この分野でも確実に、キャリアを積んでいったはずだ。
 
二〇一三年、二十九歳の時に、十歳年上の男性(ノトネゴロ王子)と結婚した。(中略)王女は結婚式の一部始終をインターネット中継したため、「ジョグジャカルタ王室」の存在は世界に知られるようになった。
 
結婚後は王室内で「IT部門」の長を務めている。自らカメラを手に、伝統豊かな特別州内を回って、ジョグジャカルタ文化を世界に発信する役目を担っている。(中略)

近年、王室に騒動がもちあかった。国王が長女プンバユン王女に、新名称「マンクブミ」を付け、王位継承者の称号を与えたのだ。国王一家は五女とにぎやかだが、王子がいなかった。
 
いかに進歩的国王とはいえ、イスラムの教えは男性指導者のみを認めるため、王弟なとがら「女系移行には正統性がない」と猛烈な反発が起こった。

国王は自分の称号から、正統継承者を示す「カリファトゥラ」を削除して、女性継承に道を開いたものの、今度は「これではイスラム教の首長国ではない」との批判を集めた。
 
特別州内では、国王夫妻と五王女の人気は絶大だが、住民の間では、女性君主が生まれることに戸惑いもある。
全国的には、イスラム教熱が強まり、他宗教への不寛容、過激派の暴力も台頭する。今年四月には大統領選もある。
 
ハユ王女は州内だけでなく、今や全国の若い女性からも注目を集める。「イスラム首長国の進歩的な王女たち」という、矛盾を孕んだ存在は、やがて全国的な文化闘争の主役に躍り出そうだ。【「選択」1月号】
*****************君主の存在は、当選者が相対的な権力しか持ち得ないことを人々に知らし

記事にもあるように、“全国的には、イスラム教熱が強まり、他宗教への不寛容、過激派の暴力も台頭する。今年四月には大統領選もある”という状況だけに、女性継承に道を開いたジョグジャカルタ王家、全国の若い女性からも注目を集めるハユ王女の今後が注目されます。


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