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孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

カメルーン  少数派英語圏の混乱を覆い隠す、体制側による締め付けの結果としての「安定」

2018-04-07 23:08:53 | アフリカ

(2017年10月1日 道路を封鎖し、“独立国”「アンバゾニア」の旗を掲げて気勢をあげる英語圏住民【https://learningenglish.voanews.com/a/4059569.html】)

総人口の約5分の1を占める英語圏の2州では死者が出る不穏な情勢
西アフリカに位置するカメルーン・・・私を含めて、多くの日本人がイメージするのはサッカー、特に、2002年のサッカーワールドカップのときのキャンプ地大分県中津江村の話題ぐらいではないでしょうか。

アフリカの多くの国が内戦等の政治混乱を経験するなかで、カメルーンは「安定」が続いていることが自慢のひとつとされているとか。

しかし、最近、この国には多数派のフランス語圏と少数派の英語圏の対立があり、弾圧・抵抗が問題になっていることが報じられています。

****英語圏独立派が学校襲撃、生徒の拉致狙う カメルーン****
カメルーンのポール・アタンガ・ヌジ国土管理・地方分権相は9日、同国英語圏の分離独立を目指す武装勢力が7日に学校を襲撃し、兵士1人が死亡したと発表した。
 
アタンガ・ヌジ氏は国営ラジオを通じてを出した声明で「武器を使った襲撃事件でカメルーン兵1人が死亡、生徒3人が負傷した」と明らかにし、「襲撃の目的は明らかに生徒の拉致」だったと述べた。
 
襲撃されたのは北西州の州都バメンダの西40キロに位置する町バティボの学校で、治安部隊が出動した。
 
アタンガ・ヌジ氏は声明の中で、バティボでは最近13〜18歳の少女がレイプされ、一部の被害者が妊娠する事件が18件も起きているほか、武器や爆発物の隠し場所1か所も見つかっていると述べた。
 
先月にはバティボ近郊で政府当局者2人が拉致される事件も起きた。この事件についてはカメルーン英語圏の独立を目指す武装組織「アンバゾニア防衛軍」がソーシャルメディアで犯行声明を出している。
 
仏語話者が多数派を占めるカメルーンでは英語圏の分離独立を目指す動きがあり、同国の総人口2300万人の約5分の1を占める英語圏の2州では死者が出る不穏な情勢になっている。【3月11日 AFP】
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****カメルーン英語圏独立派、隣国ナイジェリアに潜伏 黒魔術も****
カメルーンで自由を勝ち取るには銃を取るしかない。ビクター・オビさん(仮名)は生まれて初めてそう信じるようになった。

「死にたくはないが、独立なしにわれわれに未来はない。そして、やつらが独立を与えることはない」
 
オビさんのふるさとで、当局は英語圏独立派を弾圧した。オビさんは、そこから数キロしか離れていないナイジェリアの小さな村で野営生活を送っている。「やつらは私のきょうだいを2人殺した」。声に激しい憎しみがにじむ。「もう失うものはない」
 
昨年12月、オビさんのふるさとカジフ村周辺の深い森に分離独立派の大規模な訓練キャンプがあるとして兵士らが村を襲い、分離独立派と見なした人たちに向けて無差別に発砲したという。
 
カジフはカメルーンの英語圏2州のうち1州に位置する。英語圏は、フランス語を話し同国で支配的な地位を占めるエリート層からの独立を追求してきた。
 
昨年10月1日、分離独立派は英語圏2州が「アンバゾニア」という共和国として独立したと一方的に宣言。カメルーン総人口の約5分の1を占める少数派の英語話者にとって一つの転機となった。
 
カメルーンのポール・ビヤ大統領は、反体制派を根絶すべく戦闘ヘリと装甲車両を伴う軍部隊を派遣。数万人の住民が隣国ナイジェリアに避難した。
 
AFPの集計で今年2月半ばまでに少なくとも26人の兵士が死亡した。非政府組織や独立系メディアの現地入りが禁じられており、民間人の死者数は明らかになっていない。

■多くの英語話者が過激化
アンバゾニアの指導部は、あくまで平和的な闘争をしているとして武装勢力との関わりを否定しているが、政府当局者への襲撃は増えている。
 
独立系シンクタンク「国際危機グループ」の推定によると、主な武装勢力は「アンバゾニア防衛軍」など4組織で戦闘員の規模は合わせて300人以上。この他にはるかに規模は小さいが暴力的な10の分派が存在する。
 
一つだけ確かなのは、政府による弾圧によって、これまで社会で疎外されていると感じながら政治に関心を持っていなかった農業従事者や管理職層を含む多くの英語話者が過激化してしまったということだ。
 
武装勢力に近い筋によると、武装勢力はエリトリアの独立闘争や南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領の反アパルトヘイト運動を参考にしているという。(中略)
 
暴力が一気に激化する兆しを見て取った数千人の人たちが、国境のすぐ先にあるナイジェリアの町イコムに避難した。(後略) 【3月29日 AFP】AFPBB News
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体制側による締め付けの結果としての「安定」】
カメルーンの政治情勢、フランス語圏と英語圏の対立・弾圧については、約1年前の下記記事が参考になります。

****安定国家・カメルーン」で起きている「苛烈な弾圧」について--白戸圭一****
アフリカ大陸の中西部、ギニア湾に面した位置にカメルーンという国がある。(中略)

日本の1.26倍の国土に人口約2300万人。アフリカ全体の経済が高度成長を遂げていた2000年代においても成長率は2~3%と低迷していたが、2013年以降は5%台を記録している。

1人当たりGDP(国内総生産)は1300ドルと貧しいが、カメルーンの人々の自慢は、武力紛争が多発してきたアフリカにおいて、1960年の独立以来、内戦もクーデターも一切経験していない政治・社会の「安定」である。

国連への抗議書簡
(中略)安定の代名詞のように言われてきたカメルーンだが、近年は西隣のナイジェリアからイスラーム武装組織のボコ・ハラムがカメルーン北部に流入し、北部の治安情勢は不安定化している。(中略)

そして実はもう1つ、カメルーンの安定神話を揺るがす事態が、国際的にはほとんど注目されない形で起きている。

世界の文化人類学者たちでつくる「国際人類学・民族科学連合」という組織が今年2月、会長名で1通の書簡をグテーレス国連事務総長に送った。

カメルーンの北西州と南西州の住民に対する同国政府による苛烈な弾圧に抗議し、人権侵害を止めさせる措置を取るよう国連に求める書簡であった。(中略)

旧仏領vs.旧英領
カメルーンの国家形成の経緯は少々複雑だ。国内には10の州があり、このうち8州は旧フランス植民地だが、住民弾圧の舞台となっている2州は旧英国植民地だ。

旧仏領8州は1960年1月に独立したが、旧英領2州は1961年10月に西カメルーンとして別に独立し、旧仏領カメルーンとともに「カメルーン連邦共和国」を構成した。そして1972年5月に連邦制を廃止して「カメルーン連合共和国」として一体化し、1984年に国名を「カメルーン共和国」に変えて今に至っている。
 
このような独立の経緯があるために、カメルーンはフランス語と英語の双方を公用語として採用し、8州ではフランス法を範とする法体系が、2州では英国法を範とする法体系が施行されてきた。

旧英領2州の英語話者の住民はカメルーンにおける少数派であるため、就職、教育などの機会の面で不利益を被って来たと主張し、2州には中央政府に対する不満や反感が横溢してきた。(中略)
 
今回、研究者たちが抗議した「弾圧」のきっかけは、中央政府が2州の裁判所や学校へのフランス語導入を強行しようとしたことに対する住民の抗議行動である。

北西州の州都バメンダを中心に2016年11月以降、住民の抗議行動が拡大し、英語系の法曹、教師らによるストライキも行われた。政府は実力行使に踏み切り、治安部隊によるデモ隊への実弾射撃や拷問によって多数の死傷者が出る事態となった。 
 
在位35年の長期政権
筆者の手元には、治安部隊による拷問や実弾射撃の様子を撮影した映像が関係者から送られてきた。屈強な治安部隊員たちに丸腰の市民が棍棒で殴打される様子や拷問の末に死亡したとみられる遺体の映像は、凄惨というほかない。

警察官による市民への暴力は世界中でみられる現象ではあるが、基本的人権に関する官憲の意識の水準が、先進国のそれとは根本的に違うことを改めて痛感させられる映像だ。
 
政治指導者から末端の庶民まで国民1人ひとりの間で基本的人権の意識が内面化され、自由を柱とする市民意識が国民文化として共有されている社会では、正当な事由なく市民に暴力を加える警察官は少ない。

反対に、そうした人権意識の内面化が国民間でなされていない社会では、国民の基本的人権を保障する法体系が存在しなかったり、法律は存在しても運用面では実質的に骨抜きになっていたりするために、治安機関による暴力が横行するだろう。特高警察が存在した戦前の日本はそういう社会だったし、中国は今もそういう社会だろう。

武力紛争もクーデターも発生していない状況を「安定」と呼ぶにしても、その「安定」が市民社会の存在に基づくのと、体制側による締め付けの結果であるのとでは、当然ながら「安定」の意義は全く異なる。

治安当局による過剰な暴力の行使は、カメルーンにおける「安定」が、市民社会の存在に基づくものではなく、体制による締め付けの結果であることの証左だろう。
 
カメルーンでは、ポール・ビヤ大統領が1982年から大統領の座にある。在位35年という長期政権である。

1992年以降は複数政党制下の大統領選で繰り返し再選されているため、選挙結果だけに着目すると同国には民主主義が定着しているかに見えるが、今回の南西州、北西州における治安当局の暴力が確認される以前から、カメルーンでは野党活動家や記者の逮捕、拷問、脅迫、暴力などが多数報告されてきた。

米国国務省が毎年刊行している「人権報告書」は、カメルーン治安当局による深刻な人権侵害事案を毎年のように報告している。

安全保障問題に関して信頼度の高い情報を収集する組織として名高い国際NGO「インターナショナル・クライシス・グループ」は、これまでに公表した様々な報告書や刊行物で、ビヤ大統領の長期政権の下で実現している「安定」を「見せかけ」という厳しい言葉で総括している。(後略)【2017年3月30日 白戸圭一氏 ハフポスト】
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それぞれ、旧フランス植民地と旧英国植民地がベースになっていますが、住民投票によって、旧英国植民地の北部(イスラム教徒中心)は隣国ナイジェリアと合併。

南部(プロテスタント中心)が旧フランス植民地と「カメルーン連邦共和国」(“連合共和国”表示されることが多いようです)を構成しましたが、ビヤ大統領のもとでフランス語圏優位の中央集権化が進められ、1984年に“連邦(あるいは連合)”が国名から抜けています。

****カメルーンの英語圏問題とその歴史的経緯*****
・・・・1982年、アヒジョ大統領は首相であったポール・ビヤ(南部州出身、カトリック教徒)に地位を譲ったが、新大統領も仏語圏優位の中央集権化を推し進めた。

例えば、83年のバカロレア改革では、英語圏のバカロレアでは仏語が必修とされたのに対し、仏語圏では英語は必修ではないとされ、英語圏の学生達は、「カメルーンは二つの文化を持つ国で、仏語圏への同化政策に反対」のプラカードを掲げストを行った。
 
1984年2月、ビヤ大統領は単なる政令で、国名から「連合」の文字を外し、「カメルーン共和国」とした。

当然ながら、英語圏の人々はこれに猛反発、連邦制回帰を要求。この動きと呼応する形で4月には前大統領も与したクーデター未遂事件が勃発。(この後前大統領は国外退去を余儀なくされ、89年亡命先のダカールで死去。)
 
英語圏の冷遇政策は続くが、86年以降の経済悪化とそれに起因する社会不安定化を受け、90年暮には政党結成、集会とデモ等の自由が認められ、92年に初の多党選挙が実施された。

また96年には「地方分権の統一国家」を旨とした憲法の改正が行われるに至り、それ以降この方向で政策が行われることとなったが、今回の英語圏問題は、その実現の遅れへの苛立ちから起きたものと見ることができるかもしれない。(後略)【2017年10月11日 駐カメルーン大使 岡村 邦夫氏】
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1982年以来のビヤ大統領の長期政権のもとで、体制側による締め付けの結果としての「安定」が維持されているというのが、カメルーンの実情のようです。

アフリカの政治経済は良い方向に向かっている・・・・とは言うものの
****政治的安定」の内実****
アフリカは2000年代に急激な経済成長を経験し、内戦が多発した1990年代から2000年代初頭に比べると、政治は安定の傾向にある。

武力紛争は減少し、ナイジェリア、ケニア、ガーナ、セネガルなどでは選挙による平和裏な政権交代が実現している。中長期的に見て、アフリカの政治経済が良い方向に向かっていることは疑いないだろう。
 
しかし一方で、アフリカには、本稿で紹介したカメルーンの例だけでなく、体制による締め付けによって、かろうじて政治的安定を達成している国が少なくないのも事実だ。

2017年3月末現在、アフリカにおける最長政権は1979年に就任したアンゴラのジョゼ・ドス・サントス大統領と、赤道ギニアのオビアン・ンゲマ大統領で、在任期間はともに38年目に入った。

30年以上政権の座にある指導者は、この2人に加え、ジンバブエのムガベ大統領(在1980年~)、カメルーンのビヤ大統領(在1982年~)、ウガンダのムセベニ大統領(在1986年~)、スワジランドの国王ムスワティ3世(在1986年~)の計6人。さらに、この6人を含む計9人が20年以上権力の座にある。【前出 白戸圭一氏 ハフポスト】
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“1990年代から2000年代初頭に比べると、政治は安定の傾向にある”・・・・まあ、比較の問題としてはそうかもしれませんが、コンゴの目を覆うような混乱状態など、まだ「安定」には程遠いのも現実です。西アフリカのマリやブルファナキソでもイスラム過激派の襲撃が最近報じられています。

“選挙による平和裏な政権交代が実現している”とされる国々についても、ナイジェリアの「ボコ・ハラム」による混乱は周知のところです。

ケニヤも選挙のたびに混乱が起きます。昨年8月の大統領選挙を「不正選挙」と主張する野党候補オディンガ氏をめぐる混乱(政府による主要放送局の放送停止処分など)がまだおさまっていません。

セネガルでは1月に若者13人が「武装分子」に殺害される事件がありました。“マッキ・サル大統領が2012年に就任し、(反政府武装勢力)MFDCとの停戦交渉が始まって以来、(分離独立の)紛争は沈静化している。域内では引き続き軍のプレゼンスが目立っている”【1月7日 AFP】

ガーナでは2016年12月,大統領選挙が行われ,平和裏に政権交代が行われました。その後、混乱のニュースはあまりないようですから、政治的には安定しているのでしょうか。

なお、長期政権として挙がっている者のうち、ジンバブエのムガベ大統領が辞任に追い込まれたのは周知のところです。

アンゴラのジョゼ・ドス・サントス大統領は大統領選挙に出馬せず、引退しました。
ただ、“政府が「黄金の引退プラン」を用意している”“1979年に大統領に就任したドスサントス氏は、自らの親族を公営企業の幹部に置くなど、国家機関を用いた資金流用を糾弾されている他、人権活動家らからは指揮下にある警察と司法制度を通じた弾圧を非難する声も上がっている。”【2017年6月20日 AFP】とも。

長期政権が腐敗するのは世の常ですが、その腐敗を隠し、権益を維持するために弾圧傾向を強めるのも、またよくあることです。

現代の日本が、中国・ロシア、そしてトランプ政権とも違うことを証明するためにも
体制側による締め付けの結果としての「安定」にどのように対処するかは、外交的には難しい問題もあります。

中国はそうした内政に一切“干渉”しないことで、現地政権からは歓迎され、国際的には批判されることが多々あります。

日本外交も、かつてのミャンマー軍事政権やスリランカへの対応を見ると、かなり“内政不干渉”的な傾向があります。

前出白戸圭一氏は以下のようにも。

****日本にできて中国にできないこと****
植民地時代の政治的枠組みを継承して独立したアフリカの国々には、一国内に多数の民族・部族が暮らしており、一般に人々はそれぞれのエスニックな出自を軸に凝集し、行動し、利益を配分している。

言論や思想の自由などの近代的価値に立脚した「市民」などアフリカでは少数に過ぎない。

そうした現実に立てば、長期政権や事実上の1党支配下での締め付けだけが、国家の政治的安定を担保できる手段なのかもしれない。

だが、いかにアフリカの現実がそうであろうと、体制による暴力的弾圧を是認し、基本的人権の制限を認めるわけにはいかない。

体制による人権抑圧に対しては、たとえそれが蟷螂の斧だとしても、我々は「ノー」と言わなければならない。
 
それは、現代の日本が、中国ともロシアとも違うことを証明するためにも重要だと筆者は思う。

高層ビルが林立し、高級車が走り回り、大勢の国民がブランド品で身を固めても、民主化運動の活動家や記者を投獄するような国は永遠に「先進国」とは呼ばれない。

日本のアフリカ支援はインフラ建設でも製造業移転でも中国の足元にも及ばない規模だが、体制による人権抑圧に抗議する芸当は、我々に出来ても中国にはできないのである。【前出 白戸圭一氏 ハフポスト】
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