孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

想定外の発想 山を越える艦隊

2007-06-03 14:39:13 | 身辺雑記・その他


TVでスパルタを中心とする古代ギリシア軍とアケメネス朝ペルシア軍が衝突した“テルモピレーの戦い”(紀元前480年)を取り上げていました。
わずか300人のスパルタ戦士がペルシアの大軍(TVでは200万人と言っていましたが、通常は6万から21万人程度と言われています。??? 補給部隊等を加えた数字でしょうか?)を1週間釘付けにした死闘は古代ギリシア、ひいてはその後のヨーロッパ文明を守る契機となった戦いとして著名で、映画も公開されるみたいですからその一環でしょう。

ただ、東世界の住人としては、ペルシア軍が“専制権力に駆り立てられた、数を頼りに押し寄せるだけしか能のない、屍の山を築く軍隊”的に描かれていて少し面白くないところも。
第一、 スパルタなんて多数の奴隷を強権的に支配していたとんでもない軍事国家です。
まあ、そんなこと言っても仕方ないので、他の東西対決に目を転じましょう。

それで、1453年のコンスタンチノープル攻防戦です。
場所は今のトルコの首都、イスタンブール。
かつて繁栄を謳歌した東ローマ(ビザンチン)帝国最後の砦を守るのは約7000人。
歴史の主役からすでに滑り落ちていたこの国の窮状に西ヨーロッパ列強は冷ややかだったようで、援軍を送ったのはヴェネチアとジェノヴァなどわずか。
攻めるのはオスマントルコの若きスルタン“メフメト2世”21歳率いる10万人の大軍と艦隊。

コンスタンチノープルは海に突き出た地形で3方を海で囲まれており、陸につながる側は当時最強の分厚い城壁で守られた難攻不落の城砦都市でした。
この攻防戦は塩野七生の小説『コンスタンティノープルの陥落』(1983 新潮社)に活写されていますので、そちらをどうぞ。

この戦いでオスマン軍は長さ8m以上の“ウルバンの巨砲”と呼ばれた新型大砲を投入しましたが、544kgの石弾を1.6km飛ばしたこの大砲、精度が悪いうえに1回撃つと次の発射まで3時間かかったとかで、その間に相手は被害箇所を修復してしまうといったこともあり、城壁を崩すことはできなかったそうです。
(しかし、最後はこの大砲によって一部壊れた箇所からのオスマン軍侵入によって落城したことから、全く無意味だった訳ではありません。)

一番印象に残る戦術がオスマン軍のとった艦隊山越え作戦。
海側の城壁は陸側に比べて薄く、守備ビザンチン側としては弱点でした。
また、少ない戦力を海側に分散することも不利になります。
そこで守備側のとった作戦は、湾の海側への侵入口を太い鎖を渡して船が進入できないようにする海上封鎖作戦。
絵では上方に水門のように描かれています。
この鎖は今も一部が残り展示されているようです。
(イスタンブールは一度行ったことはあるのですが、超駆け足だったため見ていません。そのうち再訪して確認したいと思っています。)
これに対してオスマン軍は「油をしみ込ませた木のレールをつくりトロッコに艦船を載せて帆を張り一夜のうちに湾の外から湾内に艦隊を山越えで運び込む」という大胆な作戦を決行しました。
守備側はある朝突如湾内に出現したトルコ艦隊に驚愕したことでしょう。
絵で言うと左側上方にその山越えの様子が描かれています。
この作戦は勝敗の決定打とはならずその後も戦いは続きましたが、守備側の戦力を分散させ、ボディーブローのように効いたと思われます。

古来、カルタゴの猛将ハンニバルの率いる象を連れたアルプス越えなど、意表をつく作戦はいろいろありますが、オスマン軍による艦隊山越え作戦も考えるだけでワクワクするような鮮やかな作戦です。
しかし、作戦地域近くはジェノヴァ人居留区ですから、この大作業に気づいたはずですが・・・。
利にさとい彼らのことなので、戦いの帰趨を考えて黙認するほうを選んだのかも。
また、キエフ公国の歴史書には、建国時期の907年(オスマントルコによる攻撃の500年以上前)にオレーグが同様の山越え作戦でコンスタンチノープルを攻撃したという記述があるそうです。
ビザンチン側にはその記録はないとのこと。

まあ、いずれにしても“ここは絶対大丈夫だろう”“ここは無理だ”という箇所に突破口を開く発想の転換が軍事以外の何につけても大切なことでしょう。
もっとも、成功すれば鮮やかですが、失敗すると「馬鹿じゃないか!」なんて言われますけどね。
コメント
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