孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

「微笑みの国」タイの抱える“宗教対立”

2007-06-25 16:44:36 | 国際情勢

写真はタイ深南部パッターニの少女
“flickr”より (By Chandler Vandergrift) 

多くの国々が紛争を抱えている今日、「微笑みの国」タイも例外ではありません。
インドシナのタイ・ミャンマーから海に突き出したマレーシア半島、この細長く延びる回廊部分は以外にもタイ領土です。
リゾート地プーケットなどもこの半島部に沿った島です。
更に南に下り、マレーシアとの国境沿いに位置するナラティワート、ヤラー、パッターニの深南部三県がその紛争の地です。

タイ人口6500万人の95%が仏教徒ですが、イスラム教徒も4%います。
そして深南部三県ではイスラム教徒130万人に対し仏教徒は36万人と比率は逆転し、仏教徒側が“異教徒”“少数派”の立場になっています。

このエリアはタイの直轄に入る20世紀初頭までマレー人王朝パタニ王国が栄えた土地で、マレー半島でもいち早くイスラム教が広まった地域だそうです。
そのような事情もあってタイ社会に馴染まない傾向あり、以前から分離独立運動が繰り返されてきた場所でもあります。

タイ政府が強硬なゲリラ掃討作戦を取るとかえって住民を中東の過激なイスラム原理主義へと追いやる結果となったため、80年代にはイスラム文化を容認し、地域開発を進める融和策に転じました。
これにより地域は安定しましたが、タイ人・華人資本の進出で貧富の差が拡大する問題も生じたそうです。
しかし、タクシン首相の強権政治はこの地域の対立を一気に激化し、2004年4月には大規模な武力衝突も発生しています。
タクシン追放後、タイ政府は和平を優先させる政策に転換したそうですが、仏教僧侶の首を切るとか、仏教系教師を殺害するなどの事件が続いています。
僧侶は托鉢の中止を余儀なくされ、住民は移住したいが貧しくそれもできない・・・という緊張状態のようです。

写真はタイ ヤラー県 訓練に励む兵士
“flickr”より (By Chandler Vandergrift)

タイには3回ほど行ったことがありますが、南部には足を運んでいません。
バンコクなどにいる限りはイスラム住民との対立などといったことは想像もできません。
ただ、5年前の2002年(比較的情勢は安定していた時期ですが)、マレーシアのコタバル(イスラム原理主義政党が地方政府を抑えているエリアです)を観光したことがあります。
コタバルは東海岸にありタイ国境も近い都市です。
更にタイ国境付近に向けて車を走らせると、仏教徒も多いらしく涅槃仏のある仏教寺院などもありましたが、道路は軍隊で警備され検問所が設けられるものものしさが印象に残っています。

タイ深南部の問題からいくつかのことを確認することができます。
ひとつは、強硬策で弾圧すればするほど地域住民の抵抗は先鋭・激化すること。
もうひとつ、単に仏教対イスラム教という宗教対立ではなく、その背後には経済的格差に対する不満、過去の栄光・歴史への憧れ、中東などの外部からの刺激などの要因が存在すること。
歴史はどうにもなりませんが、経済・社会・文化の問題であれば摩擦を和らげる方策も可能でしょう。

もし、社会・文化的に融和を進め、地域開発を促し・・・といった施策をとっても分離独立の動きが収まらず、事件が多発するようなら?
私は面倒なことがきらいですし、国家・領土というものにあまり執着しないので、「そんなに揉めるなら、いっそこと分離したら?」なんて思ってしまいます。
タイ政府はこれまで深南部三県を汚職官僚・警官の流刑地にするなどこのエリアを殆ど顧みてこなかった訳ですから、面倒な紛争を抱え込むより切り離したほうがスッキリするのでは、特に資源等がある訳でもないし・・・なんて。
その分離過程で仏教徒住民のタイ側への移住を促し、分離後は国境を封鎖して影響を遮断・・・これは民族浄化や南アのアパルトヘイトにつがる思考ですね。

2002年に旅行したマレーシア、コタバルの旅行記
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10026431/
コメント
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