まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

濃密な一日だった

2017年04月20日 | Weblog

一筆書きで、昨日のシチュエーションを書き留めるのは。

なかなか、骨の折れる作業だ。

というのが、シフティング講座の顛末で。

旅と同じで、一粒で三度美味しい、のデンで。

予習、本ちゃん、ときて、これからのおさらい、復習の時間が大切なものになるんだよね。

それぞれにそれぞれの感懐とともに、眠りにつき、朝を迎えた、ってわけだ。

今日は、お昼から、某会社さんの総会があり、宵も更ける。

という展開で。

慌ただしく時は巡っていく。

ところで、ますます、天才発見器、というより、天才になっていいよ!の場作り、とでも言おうか。

そんな気分、高まっている。

これね、書き出すと、骨ストレッチまでできなくなっちゃいそうだな。

なので、やめときます。

それにしても、今朝は、静かな朝で、しかも、空は青い。

昨日の熟成を待つには、最適な日になりそうだ。

などなど、振り返っていると、あの人もこの人も、声かけておけばよかった、と思ったり。

誰それがあの場にいたら、その振り返りについて、どんな展開になっていたのか。

なんて、セルフイメージ、妄想とも呼ぶか、そんな時を瞬間、味わいつつ。

さて、一日を始めることにします。

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徳川家康は神だった

2017年04月19日 | Weblog

このベタな表題ね。

この間、某女史に教えていただいた、というのか。

山岡荘八の「徳川家康」という大河小説を、何ヶ月ぶりかに再開したらしく。

神だった、のか、神になった、のか、神である、のか、神に祭り上げられた、のか。

表現としては、いろいろとあるんだろうけど。

そんじょそこらの、戦国大名との違いが、そこにある、とも言えるか。

神とは何か、治山治水も含め、今風の表現をすれば、民草の幸せを追い求める、という壮大なビジョンをもつ。

おらが村の大将、おらが身内の総元締め、みたいなノリとは違った次元に行っちゃう祝詞だよね。

このところ、車中のミュージックは、バイオリンだな。

ディヴィッドギャレット、アンネゾフィームター。

いずれも、タルティーニの「悪魔のトリル」からなんだけどね。

なかなかいいんだよね。

この間、山の師匠に連れて行っていただいたジャズバーでの、トリオ。

その歌い手になりきって、つまり、自分が歌っている、という意識にシフトして、その場にいたんだけど。

すると、ベースの音とピアノの音と歌声が、それぞれが独立しつつ絡まっている、とでも書けるか。

そんな具合で、とても、いい空間、時間だったんだ。

そんな感じで車中ね、例えば、「悪魔のトリル」なんての、聴いてると、というか、演者になりきっていると。

まるで、瞑想状態、しかも、リアルな意識は、注意深く運転をしている、というね。

摩訶不思議な状態で。

すべて、楽しみのネタ、だな。

そういえば、つい最近、こんまり、という方がこの世にいらっしゃる、ということを知ったんだけど。

片付け、というのか、断捨離、のね、教祖さまかね。

近藤まりこさんね。

片付けようとモノを手に取った時、そこにときめきがあるか否か、だと。

この感覚、気に入っているんだ。

なんて暮らしていたら、昨日のカーテン工房の個人ミーティング、相方から。

収納の1級、2級なんて資格があるようで、片付け得意だから、そのうち、取ってみようかと考えているんです。

だって。

収納、片付け、インテリア、カーテン、って、同じ範疇で語れもするんで。

彼女には、本を書きなよ、と言ってるのです。

それも、なかなか、得難い本でもあり、表現も難しいのかも、なんだけど。

例えば、お客様とカーテンを選ぶ時、そのやり取りの、ほんの瞬間にある、次元シフト、というのか。

あっ、という刹那ね、そこを本に、しかも、電子媒体でなく、紙媒体のね。

ゴーストライターは決まってるから、われらが、自虐ネタの天才、という御仁なんだけど。

とここまで書いてくると、わかってる方はわかったらっしゃる、そんな御仁。

あの養老孟司さんも、「バカの壁」で爆発的なヒットを打ったんだけど、あれ、ある意味。

ゴーストライター作、とも言えるからね。

本というのは、中身なのか、文体なのか、装丁なのか、誰から渡されたものなのか、とかとか、受け取る時の。

さまざまな状態があるからね。

この時代に、イエスが再誕して、この本読んでみて、と言ったら、駄本であっても、絶品の。

本に早変わりするからさ。

って、書いてくると、まるで、現代に降臨したゲッペルス、ナチスのね、みたいだけどね。

好きな人が、大好きなことを、至福の状態でする、というのが。

このところのテーマでもあり、なので、天才製造機、とか、天才発見器、とか、天才発現の場、とか。

あちこちで、力んで発言しているわけだ。

世に、天才と謳われた人のようになる、という意味での天才ではなく、天から与えていただいた、つまり。

天与の才、ね、その発現、ってことだけどね。

というわけで、その第一回目の実験場が、本日、午後、弊社三階に立ち現れるのです。

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春雨じゃ濡れていこう

2017年04月18日 | Weblog

というには、少し降りすぎの雨。

夕べも、某会社さんの歓送迎会の帰り、雨脚は強かった。

一雨ごとに暖かく、なんていうのも、ちょっと、外れてきつつある。

そんな季節だね。

ところで、日曜日の、桜と桃と山吹の乱舞が、未だに目に焼き付いて離れない。

見事だった。

桜狩、という言葉もあるらしいね。

どこかで、誰だったか、使っていた、たぶん、季語にでもなっているんだろうな。

このところ、急がば回れ、って言葉が、気になっている。

その昔、ベンチャーズにあったな、こんな曲、walk do'nt run くらいだったか。

どんな曲だか思い出せないけど。

夕べは、20代からもう少しで70代へ突入くらいのメンバー構成での二次会。

そこでの選曲も、やっぱり、長幼の序を汲み取って、ま、いわゆる、空気を読んで。

ってことなんだろうな、我々に懐かしい、青春歌謡のセレクトで。

それはそれで、愛い奴じゃ、くらいの反応なんだろうけど。

これまた、この時代で言えば、もっと、自由自在、ってのもありかも、と思いつつ。

当方も、楽しんで歌ってもいたんだけど。

もう何年も言われているけれど、短いスパンで捉えても、戦後、いや、もっと短いほうがいいのか。

バブル崩壊後、あるいは、リーマンショック後、か。

もの皆、ゴーイングコンサーンでないことがあからさまになっているのだけれど。

そこはそれ、旧勢力の醸し出す、なんとも言えない。

時代の力を背景にした、ある価値観、名前も知らない、なんと言えないものが、相変わらず。

世を覆っている、という絵柄かな。

それはそれで、どうぞ、ご自由に、の世界ではあるけれどね。

四文字熟語で書けば、不易流行、ね。

変わるものと変わらないもの、とでも訳すか。

変えてはならぬもの、か。

行く川の流れは絶えずして、ってことなんだけどね、人間だけが、そんなことにこだわり。

というわけだ。

それを持って、文化文明とでもいうのかな。

途切れ途切れの記憶を、かろうじて、自我とでも名づけるのがいいのか、一人の人ということで。

紐づける、アイデンティティとでもいうか、そのツールが、おぼつかない。

と、母親のことを、強引にくくって見ると。

でも、遠い過去の記憶は残っていて、それを素材にした物語は、鮮明な映像として、彼女の中にあるのか。

この間も、下のオバから、よく覚えているね、の慨嘆が聞こえたけれど。

昨日もちょっと話に出たんだけど、細胞が一週間もしたらほとんど新たまっていて、というやつね。

なので、しばらくぶりです、と言いつつ、ほんとのところは、初めまして。

がふさわしい、人間のカラダのデキ、というね。

初めましてのカラダに、言う人に言わせると、過去生から続いている意識が乗っかっている。

なんてことになり、その意識の持ち方次第で、人生はどうにでもなる、と言う観点から。

のセッションが、明日に迫ったシフティング講座というわけだ。

これ、実のところ、かなりパワフルなものだと、予感、予測、推測、妄想してるのです。

 

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お花見の新境地を開拓した気分

2017年04月17日 | Weblog

どこそこの桜がいいから、というので。

通常は、お花見見物をするんだけど。

昨日は、里山ならぬ、桜山、いや、桜の里というような、大きな括りの。

お花見見物だった。

行き先は、結果、52号線を北上、富士川左岸を、身延まんじゅうを過ぎ、下部へ。

そこから、縦貫道を六郷ICから須玉ICでおり、おいしい学校、津金村。

帰りは、津金村の村内を南下、というコース。

葉桜から満開の桜、おいしい学校の校庭では、一分咲きの桜。

津金村の集会場では、古木にして大木の桜が満開で。

それ以外にも、道すがら、そこここの桜、身延近辺では、さすがにしだれの桜。

桜三昧とは、このことか。

そんな一日だった。

おいしい学校の校庭にそそり立つ古木を、遠くから眺めたら、赤い色が覆っていて。

こりゃ、もう、終わっちゃったのかね、なんて言いながら、走ったんだけど。

近づくと、それは、まだ、蕾の桜色、赤色だったんだね。

校庭では、お花見大会とか銘打った、地元の方々の屋台も出ていたり。

四月に入って二回も雪が積もって、昨日まで、固い蕾だったんです、という中。

初めての体験だけど、2時間くらいか、食事をしている間に、蕾から一分咲き、二分咲きと。

景色は移り変わり。

の中に、黄色の花、訝しみながら、まさか、蠟梅?ってなもんんで、そうです。

蠟梅だったのです。

帰りの、中央道は甲府南ICでおり、精進湖へ向かう道すがら、桃の花も咲き乱れ。

いろんな色に御目文字した、という感じだな。

おいしい学校での昼食、それも、昭和一桁生まれ、90歳を先頭に、の面々には、多過ぎくらいの。

パスタ、ピザ、デザートなどなど、を這々の体で食し終わり、さて、駐車場へと向かうと。

そこに、素人絵描きさんが、斑ら山というのか、八ヶ岳を左手に、の風景を写し取っていて。

いいですね、絵心があって、なんて、鶴瓶まがいの声をかけ。

 この方です。

今日は、かくかくしかじか、90歳を頭に云々と話し始めたら、自分も90歳だ、と。

そりゃ、男性で、ご自分で運転して、絵までお描きになるなんてすごいですね、写真撮っていいですか。

というコメントともに撮らしていただいたもの。

 

90歳です。

なんか、いいでしょ。

車内では、イイネイイネ、のおばたちからの合唱、冥土の土産に、なんて言葉は出なかったけど。

そう、それほどに、つまり、先のことなんか考えるいとまもなく、春爛漫の圧倒的な情景は。

人の五感を刺激するもので。

それはすなわち、生命への讃歌でもあり。

老いも若きも、というわけだ。

 

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言霊を打ち破ったのは薩摩軍の鉄砲

2017年04月16日 | Weblog

久々に、谷川健一さんの文章をパラパラとめくっていて。

沖縄は、さらに南の、八重山。

そこでは、ついこの間まで、言葉に霊力がある、ということが信じられていて。

というか、その通りだったんだろうけど。

力があったんだろう。

戦の時にも、巫女さんが、先頭に立ち、敵の矢弾ならぬ、言葉の力に対抗し。

だったので、ある時、薩摩軍がやってきた時にも、同じように軍団の先頭にたったんだけど。

知らない文明の鉄砲の前には、なすすべもなかった。

ってわけだ。

なんだか、切ない話ではあるね。

言葉に力のあった時代、なんて括りもできるのかも、だけど。

今の時代でも、やっぱり、言葉によって、日々を切り取る、なんて所業はあるわけで。

昨夜、NHKスペシャルで、福島第一原発の廃炉についての特集番組があって。

何十年かかけての廃炉への道は、なかなか、困難を極めそうだ、というのは見て取れたけど。

のっけ、一号機から四号機までのイラストが映し出され、メルトダウンをした様が映し出されていて。

しかも、メルトダウン、とはっきりと発言もしていたのを見ながら。

ここにも、言霊という考え方が残されているのか、と思ったんだよね。

311の震災時、メルトダウン、という言葉は、報道では、途中からつかえなくなっていた。

どんな言い方だったのか、忘れたけど、言い換えが起きていた。

八重山の巫女さんに、先祖返りでもしたように、言霊の威力とでも無意識の中で、考えたのか。

あるいは、諸々のことを忖度したのか。

どちらにしても、そんな、原発の爆発とは別次元で、別の事件も起きていたわけだ。

もちろん、そんな話になれば、現在でもそこかしこに起きていて。

言葉による切り取りは、それぞれに、それぞれの思惑とともに起こっている。

だから、どんな具合に切り取るか、ってのが、個々人の自由自在だ、ということが。

ほんとのところは、明らかになっているんだけど。

そこはそれ、慣れ親しんだ感情も含めた、ある世界の住人でもあることで、ステロタイプな。

このボタンを押したら、こうした反応を示し、というような。

ほとんど、オートマチズム、ってことでもあり。

なんて朝、薄墨のような月が巴川の空高くにあって。

春なのかね。

昨夜は、三重は松阪へ出張中の次男坊と久々の電話トーク。

ひとしきり、母親の様子などなど、語るうちに、かあさんの足はどう?ときた。

それを受けた妻は、次男坊も大人になったもんだ、という感慨を口にし。

そりゃ、何歳になる、って感じでね。

母と子の間柄には、とても入り込めません。

ってくらいのものが、あるんだろうね。

そうだ、昨夜は、寅さん、見たんだった。

それが、御在所岳麓の湯の山温泉なんだよね、あれは、何年前になるのか。

30年とか40年とか前か。

映画の中で、頭に白い被り物をしたお坊さんたちが、神輿に火がついたものを担いでいたシーンがあった。

高野山の武装した僧侶みたいだった。

あれは、御在所岳への信仰のなせる技だったのか。

山田洋次監督は、各地に、かすかに残ってるお祭りとか習俗とか、そんなものに。

落語に出てくる、はっつあんクマさんのような寅さんを配置し、映像に残しているんだよね。

なんて話をどこかで聞いたことがあって、まんま、そんな気分を味わった。

「逝きし世の面影」渡辺京二著、みたいな。

寅さんの岡惚れした老舗旅館の娘さんが、東京の大学教授の元に嫁ぐ。

に当たって、旅館を手放す。

ということだけど、そんな具合に、一つ、湯の山温泉の名物が消えてなくなる。

なんてことが、列島の各地で起こっていたんだろうね。

薩摩軍の鉄砲とともに、巫女さんの発する言葉から力がなくなったように、湯の力もなくなり、って。

哀しきことの限りなり、と、中也を気取る朝だ。

 

 

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人当たりがして頭が痛い

2017年04月15日 | Weblog

というのが、昨夜の。

孫の誕生会の帰り、妻の弁で。

東京からもおじおばさんが登場で、孫と大人との比率ときたら。

何人もの大人に囲まれた幼児、という絵柄で。

さぞかし、生まれたばかりの孫も人当たりが、なんて会話なら、まだ話としては。

ありそうだけど、妻です。

もっとも、頭が痛い、ということと、人当たり、とを結びつける、というのも。

これまた、一つの選択、解釈ではあり。

湯治の場合には、湯中り、湯当たり、どちらだろうか、何れにしても、その時には、その昔は。

赤飯を炊いた、なんて話もあるくらいで。

あれは、日頃はわからない、カラダとココロの異和が、気分が悪い、とか、気持ちが悪い、とか。

のようなシグナルとなって。

表に出てくる、というようなもの、なんて解釈も成り立ち。

出物腫れ物所嫌わず、ってことで、出れば、それは、そのものの存在を認められた、ということで。

めでたい、と。

そのデンでいけば、昨夜の妻の中りも、めでたい、ってわけだ。

明日は、桜も満開、という便りがそこここから聞こえてきているので、母親とおばを連れての。

お花見と洒落込むとしようか、と画策しているところで。

朝一、ご近所のドブ掃除の後、そんなに遠くないところへ、なんて考えている。

カレンダーの日付を指し、両腕でハンドルを回す真似、というのが、母親への伝達手段で。

その瞬間に、いつも聞こえてくるのが、いいね、お天気にしたいね。

というもので。

心の中の泡立ちが、表情に現れる瞬間なわけで。

それに触れると、こちらにもエネルギーが入ってくる、という関係。

そういえば、昨日は、久々にある女史とお昼を食べ。

心地よい瞬間を繋いでいけば、人生が心地よいものになる、という予測、推測ができる。

みたいな話をしたんだった。

そう、来週には、シフティングの講座が待っている。

シフトする、意識のロールプレイングをしてみる、とでも言えるか。

上司と部下のロール、役割を逆さにしてみる、親と子の役割、妻と夫、なんでもありなんだろうけど。

この社会に生きていれば何事かの役割であることで、アイデンティティと呼ばれるものを満たし。

そこに納まることで、大安心を得る。

組織への帰属意識なんてのも、その同義語でもあり。

なになにである、ことに地道をあげる、って算段が、一応、性だとか、ということになっている。

ま、そこから、ちょっと、出てみようか、ってわけだ。

さて、春爛漫の土曜日、どんな展開が待っていることやら。

 

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よく見ると変換間違いがあるね

2017年04月14日 | Weblog

ルーティンのワーク、ってのが、まず、このブログを開いて。

昨日のエントリーを読む。

ということなんだけど、昨日も、二つ三つ、変換違いがあったね。

眺めが、長め、になっていた。

わがPCだと、ながめ、といれて、最初の変換が、長め、続いて、眺め、となっているんで。

泡を食ってるわけでもないけれど、そんなこと、あるんだよね。

しかも、必ず、アップする前には、再読しているんだけど。

校正の作業は、なかなか、なんだな。

更生もそうだけどね。

後者の更生、ってのは、生きることを変更する、とでも解釈できそうで。

少年院とか鑑別所とか刑務所とか、そんなところで使われそうな用語だけど、あるいは。

特には少年少女に対して。

ところで、更生の更、って、さらにする、とかの意味、ありそうだよね。

生きて来たことをまっさらに戻す、とかね。

過去をなかったことにする、とか。

法治国家では許されざること、しかし、罪を憎んで人を憎まず、みたいな物言いもあるね。

ここで、過去はあなたの幻想の中にしか存在しませんよ、なんて言ったら、引かれちゃうんだろうな。

は、ともかく。

なんども使いまわしてるけど、古代中国の湯王の話ね、洗面器に。

日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、と書いてあった、という逸話。

毎朝が、新しい自分との出会い、まっさらな一日、まっさらな自分との遭遇。

まさに、更生だよね。

別に、犯罪を犯した人にだけ当てはまるんではなく、誰にでも言えることで。

ルネッサンス、再生、とかね、そんなところにも繋がる言葉かも、ですね。

最近、つらつらと思い浮かんでくるのが、自分の立ち位置、というのか、事業の立ち位置。

ってのが、天才製造機、または、天才発見器、発見場、とか。

そんな言葉で、なんか、いい表現ないかな、と。

天才なんだよね、大事なことは。

彼我との比較からなる天才、というより、その人のオリジナルな才能のハッテン場。

このハッテン場、ってのも、世に曰くは、ヘテロでない、つまり、異性でない出会いの場、なんて時に。

使われちゃってるんだけどね。

ホモセクシャル、のね。

そんなことはともかく、今朝も、朝が明るい。

ほぼ同じ時間での着席なんだけど、巴川が明るい、空も明るい、月がほのかに、って感じで。

巴川に群れる鳥たちも、この時間では、朝食を済ませてしまっていて、鮮やかな乱舞は見られない。

グレゴリオ暦になって何十年なのか、いや、400年前から、スペインでは時計があったわけだから。

何百年前か。

太陽と月と星で出来上がっていた、いわゆる時の流れが、いつしか、人工的な、便利な時計になり。

のおかげで、世界中どこでも、同じような言い方が可能にもなっていて。

なんだけど、カラダの中の細胞たちにとっては、なかなか、複雑な展開なのかも、だよね。

鶏は三度卵を産む、んだったか、一日は三日です、なんて作り込みに象徴されるような。

株式売買の世界では、1秒に何億回だっけ、高速の売り買いでしょ。

そりゃ、急げ!グズグズするな!みたいな魔女の呪い、かけられちゃうよね。

結論から言え、結果を出せ、とかね。

そのスピード感のおかげで、医療現場も進化発展し、犬が長生きするようになったので、ガンだったか。

その罹患率も上がり、なんて番組、やっていたな。

真央ちゃんの、なんだっけ、引退の特別番組で、愛犬が出ていたけど。

ペットブームでもあるよね。

それで心が癒されるとしたら、こんなにいいことはないわけで、そんな愛犬が病に、ということで。

その治療のための最新機器が、紹介されていた。

子どもの頃に、犬に噛まれたせいか、愛犬という感覚が希薄なんだけど。

そうだ、今日は、孫の一歳の誕生会。

妻は昨夜から、どんなお土産を持って行こうか、と頭を悩ませてるようで。

東京からおじさんおばさんもいらっしゃるというから、ここで一つ、包丁さばきを御披露申し上げ。

清水湊の新鮮な魚でも、とも考えてみたり。

午後には、来期の、というのか、今期の共育委員会の作戦会議もあり。

来週に迫ったシフティングのセミナーについての諸準備もあり。

なんで、本日も、多忙のうちに過ぎて行くのかもしれません。

 

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日々多くの来訪者が

2017年04月13日 | Weblog

ある、んだね。

事務所に。

この時季、転勤転入もあり、ご挨拶方々。

くらいの感じもあり、あるいは、こんな保険があります的な。

なんだけど、断捨離じゃないけど、心ときめくものは少ないわけだ。

こういうことを、営業、とかの言葉でい含めてしまうけれど。

そもそも、営業、ってなんだろうね。

訪れる方々は、多くは、いわゆる、ホワイトカラーで。

世に、ホワイトカラーの生産性が、なんて時に対象になる方々、ってことだ。

もうちょっと、違う訪れ方、ってないのかな、と思うね。

お金、足りない時の銀行さん、なんては、頼むからお願い聞いてよ、くらいの勢いだから。

顔見て、表情の変化を用心深く見ながら、ってのは、覚えのある感覚だけどね。

自分の商品も売れて、こちらの事業も売れて、ウインウインの関係がね。

なんとか、作れないのかな、という大きなテーマですが。

強制と啓蒙と、後に続くのは何かな、一体化して、交感して、か。

子どもの、学校やら就職やらの世話までする政治家、ってあったでしょ。

今でもあるかも、だけどね。

あれなんか、その類で。

いい悪いはおいといて、田中角栄なんかは、トンネル掘っちゃったでしょ、雪国を雪国でなくすために。

この間、鹿児島でお聞きした運送会社さんの話は、医療現場の「雪国」にトンネルを掘って、流通の通りをよくする。

ということだった。

リアルな「大雪」と心の中の「大雪」に、穴を開ける、とでもいうのか。

それが、コラボでもあり。

第二創業とかの言葉もあり。

このあたり、たぶん、とても大事なところにまで行きそうなんだけど、今朝のこの時点では。

何も浮かびません。

来訪者といえば、母親にも昨夜、訪れたようで。

玄関を開けてください、と声がしたから、と言って、玄関の所に佇んでいた。

空耳、と伝えたけど、伝わらず、誰が言ったの?と繰り返すから。

耳元で、自分で言った、と伝えた。

伝わったかどうかはわからなかったけど、そそくさとベッドに入った、納得いかないままに。

たしかに、彼女の元には彼女なりの来訪者があったわけだ。

朝方は、デイサービスへ行きたくないモードから、妻への悪態をつき。

妻はえらく落ち込んでいて、という事件があったりね。

夕方、施設へ迎えに行くと、みんなに迷惑かけるからここへは来ない、なんていうので。

スタッフの方々から、そんなこと言わないで、明日も来てくださいね、と言われ。

満面の笑みで応えていたりね。

まわりで起こる、いろんな出来事を、統合することができない、彼女にとって。

一つ一つの出来事は、その瞬間瞬間で終わっているようで、多少の自我、ま、出来事を統合するツールだね。

それもあるにはあるわけで、当たり前だけど。

夕食には、孫がお相撲さんに抱かれた写真を見せ、満面の笑みを創造した。

まさに、創造したわけだ。

それが、彼女の感情を刺激し、生命力に火を灯す。

一助になる、って寸法でもあり。

上記、営業というものも、大きく見れば、そんな話のはずで、売った買った、はとても。

表面的なもでしかなく、というわけだ。

そろそろ、まわりで起こっていることは、そこの部分へのフォーカスが始まりつつあるかも。

というようなものに変わりつつある、ってのが、わが見立てで。

そこから眺める世界と、そこを無意識にスルーした長めの違い。

わかるかな、わかんねぇだろな、って古いギャグなので、わかんねぇだろうな、ってか。

 

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ブログの開設から4464日とあった

2017年04月12日 | Weblog

365で割ると、12年を超えているんだ。

こりゃ、長いね。

石の上にも三年、だっけ、桃栗三年、柿だって8年なんだからね。

我ながら、なんだろうな、と思ったよ。

昨日はいいことが三つくらいあってね。

朝、電気剃刀の刃、というのか、メッシュがね、外れちゃって。

なんとか自力で治そうとしたんだけど、それもならず、コジマへ走ったわけだ。

カミソリといえば、ブラウン、という、BRAUNね、自分の中の刷り込みのまま、何年か前に購入。

Series1と書いてある。

商品棚を眺めると、ハイエンドなSeries9、なんて文字が並んでいて。

もう欠品かな、と思っていると、あったんだよね、1が。

それにしても、この何年かで、メーカーさんも研究開発に勤しんで来たわけだ。

見ると、1万円しない機種で、今なら買えばまでついてます、なんてキャッチのついた商品があって。

その前で佇んだ。

パンフレットも眺め、どれがいいのか、どうしようか、このSeries1の替え刃が、三千円だから。

あといくらか足せば、新品が手に入る、と1を握りしめながら。

その時、右手に握ったSeries1が、なにごとかを告げているような気がした。

それは、小さなときめき、とでも呼べるか。

断捨離の元祖、なのか、こんまり先生を、その瞬間、思い出した。

片付けの時、その品が、心をときめかせるかどうか、で判断、なんて新聞記事。

最近、読んだばかりで。

そんなおかげで、わがSeries1は、まるでスターウォーズのepisode1みたいに。

今朝も、活躍してくれたよ。

二つ目は、400年の時を刻んで来たスペイン国王由来の時計と天皇陛下の会席、その余韻。

消えさらぬ浮月のバーで、山の師匠の知り合いのミュージシャン、日本在住23年のアメリカ人、その奥方のシンガー、若い女性のベーシスト、のジャズを聴きながら。

そのシンガーになりきって、聴いていた、というより、歌っていた。

瞑目してね。

まるで、新しいバージョンの瞑想メソッドだ。

来週、わが社で開催される、シフティングの講座をいち早く取り入れ、みたいな時間だった。

ポジションをシフトさせてみた、とでも言えるか。

これ、面白くて、説明的に書くと、歌い手の意識が、ピアノとベースの間にたゆたう、とでもいうか。

と書いて来て、三つ目は、忘れた、と書くつもりが、思い出した。

新芽の会、なる、だな。

お弁当の数が、9個、遅れて長男坊も混じり、だから、10個の文化文明を引き連れた集団の出来上がり。

ってわけだ。

LINEのグループも出来上がりつつあるので、この先は、これにて会話が成り立つ、って算段で。

小さな一日の中にも、三つも素敵な出来事があった。

まさに、心してみれば、ってやつだ。

できごとの、大小でもなく、養老孟司さん風に語れば、意味のない世界に遊ぶ。

とでも言えるか。

ちょっと、違うかな。

ま、いいでしょ。

そんなわけで、青みの空を愛でながら、本日も始めるとします。

 

 

 

 

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今年の桜は見逃している

2017年04月11日 | Weblog

と言えるか。

それとも、日々、あんまり、四方八方へ動いていないのか。

気がつくと、江尻城跡、今では小学校沿いの桜が、満開の風情。

帰りがけに通る道すがら、桜を愛でながら、なんだけどね。

山の師匠のFacebookには、身延のしだれ桜が、なんて見事な写真がアップされていた。

どこかの山の帰りに寄った、ということだったけど。

桜も紅葉も、なかなか、ジャストタイミングで、というのは、難しいからね。

頭の中に、河津桜の桜色が残っていて、山桜の淡さがいいな、なんて気分がもたげてきたり。

にしても、あの川沿いの桜は見事だし。

いずれにしても、桜咲く季節は、いいね。

入学式なんかもあって、もの皆、新しい季節に向かう、という感じで。

桜の樹の下には屍体が埋まっている、と書いたのは、誰だっけ。

梶井基次郎でもなく、明治の詩人だったか。

萩原健二でもなく、萩原井泉水でもなく、ま、そんな人がいたね。

相変わらず、意味、わからないんだけどね。

いつか聞いたかも、だけど、忘れたのか。

今日は、復活なった新芽の会。

その前に、カーテン工房のミーティング。

夜には、同友会の支部の総会。

ぎゅっと詰まった一日ではある。

新芽の会は、メンバーが半分以上、入れ替わっているから、まるで、なでしこの代表メンバーみたいな。

ざっくりとした意図は、異種格闘技、ま、戦いじゃないんだけど。

その昔、日常が重く、変わりばえしない村にやってきた、まれびと。

あるいは、異形の民。

今の言葉で言えば、異業の民が集い、そこに、新しい文化文明が生まれる。

「文明の衝突」、というと、イスラムとキリスト教の戦い、みたいだけど、とても。

大きな話にしちゃえば、蝟集するそれぞれが、それぞれの文化文明を背負って。

その場に登場する、という絵柄でもあり。

かけがえのない時間、というわけです。

黙って座ればピタリと当たる、じゃないけど、素直な心でその場にいるだけで、なにごとかが招来し。

なんだよな、きっと。

ものごとは、小さな意図が基点となり、オートマチックに、動いていく。

あとはお任せの世界、とでも言えるか。

心してみれば、万物皆我が師なり、ってわけだ。

この文節では、心してみる、というのが、大事なところで、それがあれば。

学校なんか行かなくても、まわりはボランティアの先生だらけ、時には、大金までいただける。

って算段で。

学ぶ、という言葉が、まるで、いやいやをしている幼児の首に縄をつけてね。

ひきづりながら、という絵柄のような、干からびた魔物のようにも感じられるような。

そんな今日この頃、ってことだけど。

一度、学び舎について、明らかにしておく必要、あるかもだね。

というのも、誰かとの、どこかとの、彼我の差を際立たせるのが、学びではない、ってことをね。

あれ、どこまで来ちゃったのか。

そうだ、桜を見逃している、ってことだ。

そりゃ、残念だけど、いわゆる心の眼で、ま、心眼ってやつだね、では、愛でている。

とでも言っておきましょうか。

さてさて、希望とともに目覚め感謝とともに眠る一日を始めるとしますか。

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