ブログをアップした後、いきなり、魂と会話した。
と出ていたから、驚いてね。
あの時、何を書こうとしていたのか。
それに続く内容、あってないものね。
昨日、来社された御仁から、あの写真は山登りの格好で行くの、それとも、ハイキングくらいの。
なんて質問が飛んできて。
当方よりちょっと年上の方なんだけど、改めて、Facebookの浸透度を実感したわけだ。
仮に、エゴサーチのような感じで、Facebookを遡って行ったら、ツイッターにも行き。
このブログにもたどり着くんだろうからね。
この時代、簡便な検索が可能なので、ちゃっちゃとスマホでも、だから。
まるで、先生を携帯しているようなもので。
中学の時の美術の先生、思い出すよ。
大酒呑みだったから、肝臓かな、どこかが悪くて入院していた。
同室の患者さんたちが、先生だということで、なんでも知ってるかと、いろいろ聞いて来るんだ。
まったく、なんておっしゃっていた。
ある意味、検索係でもあったわけだ。
そんな時代風潮だった、とも言えるね。
知に価値があった、知は重大事でもあった、のかも。
教師は聖職者か労働者か、なんて議論があったな、たしか。
そもそも、そんなことが議論になること自体、時代の変わり目でもあったんだろうし。
行く川の流れは、元の水にあらず、って。
近代は自我の目覚め、なんて言い方もあるし、中也は、自恃だ、自恃だ、つまり、自らを恃む。
と歌った。
ヨーロッパで勃興した自我の目覚め、ってやつ、巨大な精神の収容所、と書いたら叱られるか。
教団の大きな力に、ひれ伏していた個々人が、声を上げ始め、ってね。
あれ、これと聖職者たる先生、とどう繋がるんだったか。
ところで、いつものご神木に朝のご挨拶をした時、スピリチュアルはお正月のことだよ。
なんてフレーズが浮かんできた。
というのも、夕べ、長男坊と妻との会話の中で、スピリチュアルってなに?という問いかけがあり。
沈黙で答えておいたんだけど。
それが朝になってやってきたわけだ。
時ところを超えてね。
見えない世界を語るということが、ヒソヒソと、まるで禁教を信ずる異教徒みたいに、語り継がれる。
みたいな時期もあって、トンデモ話とか怪しい話とか言われもし。
これは、江戸から明治への文明開化というウタイとともに、それまでの神々が零落して行った姿を。
目の当たりにした人々のメンタリティーが蓄積し、集合無意識にもなり。
なんてことかな、って、勝手に解釈しているんだけどね。
お正月には、おめでとう、と言って、凧を揚げてコマを回す、お雑煮を食べ、あとなんだっけ。
あれ、スピリチュアルなんだよね。
なんだけど、見えない世界は、なかなか、確認することができないから、どうしても。
高価な壺が売られたり、なけなしのお金が寄進されたり、なんてこともあったりね。
欲が欲を呼ぶ、みたいな。
欲、というといかにも悪いもののように見えるけど、意識の意をつけると、意欲。
なんてなるように、実のところ、当たり前だけど、命の発露でもあるんだよね。
見えるも見えないも、人の作る世界は、どちらもリアル。
というのが、当方のスタンスで。
根拠、とか、科学的なデータ、とかの言葉で表現されざるを得ない、この人間の。
認識の仕組み、とでもいうか、慣れ親しんだ方法、とでもいうか。
そんなところなわけで。
実は、五感の外側にも、認識のすべはある、と実感するかどうか、体感するかどうか。
なんだよね、人に教えられたことでなく、古くから言われていることでもなく。
心とか意識とかの摩訶不思議さ、なんて言い方が出て来る、その根っこ、とでもいうか。
そんなわけで、今日の土曜日は、妹が東京から母親に会いに来てくれる。
って、どこがそんなわけなのか、だけど、そろそろ、骨ストレッチを始めるとしますか。