ってのが、わが列島のいにしえの時代にはあったそうで。
天津罪だというんだね。
素晴らしい罪があったものだ。
その観点、視点がね。
あちらの世界、つまり、西欧ね、では、能力を活かそうとしたら罪にされた、なんての、あったよね。
エデンの園でのアダムとイブ。
もっともその解釈は、ちょっと違っていて、神に信をおかず、委ねず、わが道を行く。
ということが、悪魔への道だった、なんてのも、たしか、あったな。
天津罪と国津罪については、なんとかの祝詞に出てくるよね、禍々しい感じで。
それはともかく、自らの力を発揮しきらない罪、という発想がね、いいな、と。
もっとも、そのエピゴーネン、ナンバーツーのような人々は、どんな具合にそれを周知していったのかは。
実のところ分かりませんが。
どのみち、緊張感を強いる倫理道徳みたいなのに、変わっていったのかも、だな。
はともかく、人を生かす経営、と同友会でも言っているんで、それこそ、その教えを生かさなきゃ、でもあるな。
国津罪の方は、律法とか戒律とかで、あれはダメこれはいい、みたいなものかな。
その辺りの立て分けってのが、これまた、一大事でもあって、ことに、今のような時代には。
そこを極めるのが仕事、なんて勘違いが横行しているから、やばい話でもある。
有名な、ポリコレ、みたいなの。
結果、がんじがらめになっちゃって、何もできません、何もしません、言いません、って具合。
Youtubeなんか見ていても異和感あるのは、ロシアのこと、言ってますが、決して。
ロシアがいいと言ってるのではありません、なんての、よくあって。
メジャーな領野では、そんな気遣いも必要なのかもね、何万人もの視聴者を持ってらっしゃったりね。
このタイミングでは、たしかに、時代というのか、歴史的な大転換でもあって。
そりゃ、いろんな意見が出てきてみんないい、ってなもんなんだけど、どうも。
意識の方が、大転換を意識に届けてない、なんてわけだ。
ファクトチェッカーなんて訳わかんないのもあるし、エビデンス病だよな。
その根拠は、そのエビデンスは、ってのが流行ってるけど、たしかに、社内での会議、会話では。
妄想はやめとけ、事実に基づいて、という方向性でもあるけれどね。
ま、とにかく、力を自ら生かしきらない罪、ってのは、つかまえ方によっては素敵なものだ。
すべての人は天才、というのの同意、同義の言葉だ、とほくそ笑んでる次第です。