まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

子どもできたけど実感ないんです

2018年06月30日 | Weblog

二、三日前だったか、伊勢の地から電話があった。

三年くらい前になるのか、かの地での結婚式で、涙流しながらの祝辞を申し上げ。

という御仁、カッコ元社員、から。

声は弾んでいて、おめでとう、よかったな。

と応じた次第で。

そりゃ、おとうさんは、実感ないんだよ、俺もそうだった。

なんてことも返し、昨夜、飲みながらの相方に、一緒に結婚式に列席した家族と。

11月に、「子ほめ」に行こうか、と決定。

また、楽しい旅になるだろう。

思い起こせば、くだんの御仁、あれは、19歳の頃だ。

父上と喧嘩して家を出て、朝、引っ越し前の事務所に、やってきたんだった。

今年の新入社員さんとほぼ同年代の時期に。

あれから20年は経ったのか。

少々遅がけのおとうさんになるわけだ。

時はめぐる。

そう、昨日は、「柳田格之進」の感想を聴いたんだった。

リアル柳家花緑さんの落語会、彼、夜眠れなかった、と言っていた。

カセットテープでの志ん生とリアル花緑と。

その時間を、こちらも味わったかのような、そんな共有の仕方になった。

その後、くだんの御仁からのお土産は、シルク・ド・ソレイユ。

お台場で、3回目の公演を見てきた、という話。

カナダ発祥のサーカスなんだってね。

全世界からセレクトされた10の演目。

まるで、W杯の予選リーグを突破した16チーム、みたいなものだ。

その話をお聞きしていて、6割方その場に臨んでいたような、そんな錯覚に陥るくらいの。

話だった。

深く味わう、というのか、その瞬間、その場を心底味わう、というのか。

自画自賛でもないけれど、いいもんだ。

たぶん、そんなところに、宇宙の秘密が隠されているのかもしれない。

なんたって、その謎解きが、という表現とも違うけど、勘違いした宇宙、この世界とも違う。

真性の、真実の宇宙、そのデキを発見するのが、生きるテーマでもあるんで。

あだやおろそかにできません、小さなできごとをね。

ところで、予選リーグの突破の仕方で、さまざまな議論が展開されていて。

まんま、各人の世界観が映し出されているようなものだ。

あえて、0−1での負けを選択した事ね。

卑怯だ、とか、レギュレーションに則れば当然だ、とか、侍たるもの負けに向かう選択は信じられん。

とかね。

はいいとしても、これで、日本チーム、強くなるだろうな、と思える。

根拠?ないけどね、感です、第六感。

選手の誰かが言っていたけど、叩かれた方がいい試合できる、なんてのね。

する人と見る人の違いだね。

人生も似たようなもので、人生を「する人」と人生を「見る人」の違い、ってわけだ。

言い古された言葉にすれば、すべての瞬間を主体者として迎える、と。

そこに、進化し続ける集団の要諦がある、とも言えるか。

さて、今日は、茅の輪くぐり。

夏越の祓。

この列島の住人たるわが方も、かつては、舶来だったのかも、というそんな習俗の一員となるわけだ。

 

 

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カセットテープで聴いた志ん生

2018年06月29日 | Weblog

つい先日の柳家花緑の独演会、代参をお願いしたんだけど。

わが社員さん、帰ってきてからの報告が、表題のごときで。

「柳田格之進」という、人情噺。

それは、実は、ということで、ずっと以前、まだカセットテープが全盛の頃に、志ん生で聴いた。

というのだから、何十年前になるのか。

それを、思いがけず、リアル花緑で聴くことができた、と。

感動的な話でもあり、かの御仁の中では、逸話から伝説にまで高められるのかもしれない。

今日の個人ミーティングが楽しみだ。

詳しい話は、CMの後で、ならぬ、ミーティングの後で、ということにしておきますが。

今朝の川風は、涼しくて気持ちがいい。

こんな朝は、何をやっても捗る、のだろうね。

昨夜のビッグニュースは、決勝トーナメント進出決定、だね。

フェアプレー度、というのが、最後の最後に効いた、という決定で、これ、ネタになるだろうな。

今までのスターティングメンバーの余力を残しての進出だから、決勝ステージが楽しみだ。

ところで、来年の歴史の旅は、どうやら、紀州への旅になりそうなので、熊楠に続き。

新宮生まれの中上健次、「枯木灘」を本棚から探し出し、読み始めた。

先妻の子、後妻の子などなど入り混じる血族の複雑な関係、そこに紀州の味が覆い被さり、というような。

ざっくり、そんな絵柄の中で、熊野だの補陀落渡海だの、が合わせ技で関わってくるかな、来ないかな。

って、まだ、ほんの何十ページだけだから、しかも、昔読んだ内容、ほとんど忘れてるからね。

なんてことはどうでもいいけど、とにかく、読み始めたのです。

今月のおじおば会は、月曜日。

なかなか、週末は時間が取れなくてね。

この週末には、娘も帰還するし。

新しい展開が始まる。

今週初めには、経営指針の発表会があり、これまた、次のステップへの足場ができたか。

それに続いて、「不離一体シート」というやつを作るつもりで。

人を生かす経営、と言っている中小企業家同友会が提唱し始めたもので、年表みたいなもの。

この年、会社ではどんな具合、同時に、同友会の中では、どんな活動をした、なんて具合に。

シートを作る、ってもんだけど。

ちょうど、次世代への引き継ぎも含め、タイミングとしてはいい感じだ、と。

というわけで、なかなか、お仕事ってのは、とめどなく、後から後から湧いてくるもので。

しかも、われわれの仕事は新しい仕事・新しい事業を創り出すことです、なんて宣言までしちゃったわけで。

息をするように創り出す。

そんなもくろみだから、そりゃ、終わりのない旅だ。

なにせ、100万年生きる、と豪語しているんだし。

仕事を譲って時間ができたらどこそこへの旅、あるいは、なになにを始める、なんてデフォっぽい言い方。

あるでしょ。

無茶な話ね、そことは対極、というか、なにせ、息をするのが仕事なんだから。

って立ち位置だね。

ところで、昨日の夕暮れ時の車中、そして、今朝の車中、聴いていたのは、「川柳の芝浜」。

またまた落語ネタで恐縮ですが、快楽亭ブラックの。

僕が落語にはまった、その当の川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)さんを題材にしたパロディ。

あの美しい「芝浜」が、とても下品な噺になりかわり、桂三木助が存命なら怒り出すかも。

というような。

そんな噺です。

大酒飲みの川柳が、毎日毎晩酒を飲んだくれ、寄席に通わない。

ので、女房が、んなことじゃ、釜の蓋が開かないじゃないか、ってなもんだけどね。

「芝浜」、聴いたことない方には、???だと思うけど。

それ、説明すると、このブログ、何日分かの労力、使わなきゃ、だから、端折ります。

さて、ルーティンへ行くとしますか。

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1日のごぶさたでした

2018年06月28日 | Weblog

って、昔の玉置宏さんの真似から入ってみるか。

体調悪くて、早朝出勤取りやめにし、寝た。

ので、ブログ書きの時間、取れなかったんだ。

もちろん、新聞も骨ストレッチもボール・ウォーキングもね。

寝てしまうと、これだけのワーク、仕事とも言えるね、が、端折られちゃう。

知れただろうこと、気づいただろうこと、などなど、いわゆる機会損失。

なんて言い方もあるけど。

逆に、しなかったことで何かを得ている、とも言えるか。

50歩100歩、一進一退、正負のバランス、なんてことだ。

ところで、いよいよ、運命の一戦、今晩はポーランド戦だ。

代表へのネガティヴなコメントが、一斉に、褒めそやしのコメントに変わる、と言う。

いつか来た道、いつか見た道ではあるけれど。

この列島の得意技でもあり、ラテンとは違う熱狂の仕方、ってわけだ。

もともと、豊穣への祭りが、各地で長い間行われて来た列島だから、オンとオフの切り替えってのは。

よくある話だったのかも。

ハレとケってやつね。

まさに、今日は、ハレの日だ。

ハリル監督と西野監督との対比で、列島的な組織論、みたいなこと、書きたいんだけど。

それは、ひとまず、決勝トーナメントへの進出まで、待つとするか。

今朝は、少々の雨が、巴川からの川風にのって、窓から吹き込む。

涼しい風なんだけど。

通常の朝の雨は、吹き込むことはないんだけど、時々、風向きが違ったりするのか。

なんです。

昨夜は、歴史の旅、反省会かつ次回への展望みたいな会、あったんだけど。

こちら、体調思わしくなく、途中退座。

そそくさと帰宅して、そして、寝た。

寝るのはいいよ、今朝は体調復活、矢でも鉄砲でも持って来い、ってなもんだ。

午前2時前後の、どこからかやってくるエネルギーの補給が、欠かせないんだな、きっと。

そうか、昨夜は、柳家花緑の独演会だったんだ。

僕はダブルブッキングで行けず、社員さんにお願いしたんだった。

どんな題目だったのか、こちらは、久しぶりに川柳川柳さんの。

「ガーコン」や「笑話歌謡史」なんての、you tubeで聴いている。

快楽亭ブラックの「川柳の芝浜」なんてのもあった。

なんでもあるね、you tubeには。

まったく、ビジネスモデル、変更しなきゃ、だろうな。

CDやDVDの販売をして、なんてのは、姿形を変えざるを得ないのだろうけど。

そこはそれ、商売人は、あの手この手で、販促活動だ。

アイドルグループのグッズやライブチケットなどの販売の仕方なんか、うちの若手の社員さんに聞いていると。

面白いからね。

うまく解説できないけれど、明らかに、商売の仕方は変わって来ているわけで。

三丁目の夕日の、新しい電気冷蔵庫がやって来たスズキオートの傍を。

自転車で通り過ぎる氷屋さん、その道端には、旧式の電気でない冷蔵庫が打ち捨てられていた。

あのシーンが印象的だ。

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、ってわけだ。

さて、こちらは、不易流行、変えざるものは変えず、骨ストレッチだ。

 

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焼津の職人さんの手になる万年筆

2018年06月26日 | Weblog

今朝は、いつもの三菱ユニのボールペンをどこかへ置き忘れ、か。

たぶん、ジャケットのポケットの中に沈み込んでいるんだろうけど。

なので、今日は、万年筆で過ごそうか、と気分を改めている次第で。

これ、八ヶ岳倶楽部、柳生さんのところね。

そこで、どんな経緯だったか、「和暦で暮らす」と言う柳生さんのご本を購入した時だったか。

忘れましたが、野牛のツノだったか、そんなので創られた万年筆。

動物愛護云々、と言う意味では、微妙なところか。

はともかく、職人さんが焼津の方だ、と言うのは覚えている。

そうそう、昨日は、初めてのお使い、ならぬ、経営指針の発表会。

傍目にはわからないけれど、これで、なかなかのストレスを抱えていて。

どうしたら伝わるか、そもそも、伝えるものは何か、どんな方向性を示すのか。

人間のカラダに例えれば、頭からの発信、のように見えつつ、その実。

その信号の0.35秒前には、すでに細胞たちは動き出す、と言う仕組みね。

狙い所、落とし所は、そこんとこなんで。

この呼吸を、集団に援用すること。

早い話、人間のカラダに学ぶ、とでも言えるか。

あとは、細々とした整理整頓をすることで、道を空ける、掃き掃除みたいなものだ。

旅立つものへの手向け、としてね。

熊楠じゃないけど、粘菌たちの自助・自恃・自製みたいなものを、高みの見物と決め込み。

と言うところまで行けば、そりゃ、面白うてやがて哀しき鵜飼かな、ってくらいの話になるかどうか。

哀しみを保持しつつの集団、っての、なかなか、いいかもよ。

ことに、この時代、ものみな、タモリじゃないけど、明るさに怒涛のごとくに向かうときにはさ。

明るさは滅びの徴、って太宰治だ。

粘菌の面白さの一つに、生きているように見えているのは死骸で、死んでいるように見えるのが生者で。

と言うのがあるようだけど、考えてみれば、人間にも似たようなところがあり。

細胞、凄まじい速度で、死滅と生成を繰り返している、とも言えるでしょ。

だから、挨拶は、例えば、お久しぶりで、じゃなく、お初にお目にかかります、くらいの話だ、と言うのね。

そのくらいの斬新な、当たり前な、コミュニケーションを試みるのも、一手、だな。

と言いつつ、あいも変わらぬ骨ストレッチへ行くか。

これね、ルーティンのように見えるけど、毎朝、違ってもいてね。

だって、見る景色、毎日、違うし、骨を動かす当方も、微妙に違っているので、日々。

気づきの連続、とも言えるんだ。

 

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勝てたね!

2018年06月25日 | Weblog

と言うのが、セネガル戦を終えて、部屋から出てきた次男坊のセリフで。

戦前の予想では、相手はとても強くて、グループ内随一の、なんてコメントが踊っていたんだけど。

引き分けで御の字、と言われていたのが、戦後の選手からの言葉、表情でも。

悔しさが溢れ出していた、勝てた、と。

これで、日本のサッカー観、変わる可能性、あるね。

だって、セネガルはヨーロッパに半数以上のメンバーが在籍し、なんて言ってたでしょ、戦前は。

よくよく考えてみれば、日本だって、ほとんど海外でプレイし、しかも、レギュラーだし。

ってわけだから、そんなにリスペクトしすぎなくてもよかったんだろうし。

選手自体は、それなりに警戒しつつ、やれる、やる、と言う体感はあったのかも、だね。

どうも、わが列島では、フラットに見る、と言うのが苦手だな。

経済やら人材やらにしてもだし、いわゆる国力についても、講釈師観てきたような嘘を言い。

じゃないけど、明治以来、文化、文物の取り込みを、黄色い顔した白人、みたいな方々が担当し。

事大主義とまではいかないけど、舶来はすごい、あんた、見たことないだろうけど。

みたいな感じなんだな、きっと。

たしかに、日本語の基礎を作った、なんて言われ方する夏目漱石が、イギリスで。

ある意味、根をあげちゃった、なんて話だから、宜なるかな、とも言えるけど。

そのちょっと前に、大南方熊楠もいたんだから、そんな御仁を見習ったらよかったんだろうね。

もっとも、アカデミズムの世界では、受け入れられなかったのが影響しているんだろうけど。

それに、彼の文章を読みこなすのは、なかなか骨が折れるし、ね。

深夜のセネガル戦から、話は、夏目漱石VS南方熊楠まで行っちゃうな。

これが、日本すごい運動と日本だめだ運動に行っちゃうのが、哀しいところだ。

昨日は、見城徹さんの「読書という荒野」を読了。

その中で、彼、林真理子の才能を評価していて、ある時期、二人三脚で、小説を創り上げた、なんての。

あった。

僕は、テレビ画面でしか知らず、チャラチャラ感が、不潔に感じていたので、一旦、ACボタン。

オールクリアして、もう一度、見直すことにしようか。

なんて思いつつある時に、「せごどん」だ。

毎週、見るたびに、涙を伴い、それも、脚本がいいんだろうな。

なんて眇めで眺めていたんだけど、ひょっとしたら、原作者、林真理子の力量じゃないか、と。

まっさらな気持ちで出直します。

もったいないからね。

さて、太陽を浴びながらの骨ストレッチに出かけるとしますか。

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セネガルのつもりでザンビアを飲んだ

2018年06月24日 | Weblog

いつもの珈琲館で、この間の。

コロンビア戦の前に、同じ名前のコーヒーを淹れて、あの結果だから。

メニューにある、プレミアムな、というウタイにも惹かれて。

表題のように、ザンビアを飲んだわけだ。

だから何、ってなもんだけど。

験担ぎです、今日の夜のために、ね。

昨日は、お手紙をいただき、しかも、隣家の方から、というのが。

これまた、時代がかっているんだけどね。

来週、菩提寺でお施餓鬼がある。

その当番に当たっているのが、わが所属の組み、ということで。

世話人たる当方としては、お手伝いの女衆の数を確かめ、という役割なんだけど。

そんな便りが、かの御仁の元には届けられていて。

奥様が何年か前、脳内出血で斃れ、左半身不如意、ということで。

早い話が、お手伝いできません、ということなんだけど、何度か、昼間。

当方を訪ねてくださり、もちろん、不在のためお会いできず、の挙句のお手紙。

ということだった。

ので、早速、お訪ねし、さまざまなお話を伺ったわけだ。

なにせ、世話人、だからね。

こちらは、すっかり、スマホ対応となりつつあり、家の固定電話、というのは。

どこぞの営業電話くらいしかかからないから、オレオレ詐欺も含め、むしろ。

胡散臭い便りになりつつある。

しかも、スマホの電話、なんてのが、LINEやメールに代わり、めんどくさくなりつつある。

なんて状況なんだけど、世代の違いで、電話さえ乗り越え、お手紙、というのが。

なんとも、かたじけない思いが湧いてきたんだよね。

そんな中で、お寺の世話人、というのが、昔からの家、とか、位の高い家、とかの名残があるようで。

あんたのところ、院居士になったの、とかの話も出て、

つまり、お布施をたくさん納める、とも言い換えられるんだけど。

そうか、そういうことか、うちの父親、しょうちゃんはなんだったかな、と。

実は、自分のところは、貧乏だったから、と彼、切り出し。

だから、院号なんぞ、もらえなかったんだけど、小作農家だったからね。

なんて展開し、だけど、オヤジが、くらいを上げてもらったんだ、と。

傍目には、屋敷も広く、大きな自宅で、ああ、あの大きな家の前ね、なんてわが家の目印にもなったり。

そんなお宅なんだけど、それぞれの事情もあるんだよね。

お施餓鬼のお手伝い、できないのです、ああ、そうですか、はい、わかりました。

というだけの用件なんだけど、30分はかかったか、これもまた、いいもんだ。

そのお宅のお隣が、こちらは日蓮宗のお寺さんで、墓地に隣接している。

子どもの頃、夜中におしっこに起きた時、見ちゃったんだよ、火の玉、って話にもなり。

だから、今でも、お寺は嫌い、というわけじゃないけど、あんまり、いい気分がしないんだ、だって。

まるで、長年の秘密を打ち明けられたような。

どうもね、結果を出せ、結果を、とかさ、早く早く、スピード感を持って、とか。

そんなことがデフォの時代、という解釈もできるでしょ。

だから、まったりとした昔話ってのも、たまには、心の洗濯、でもあるな。

グレゴリウスの暦にすっかり洗脳され、って具合だからね。

分刻み、秒刻み、ってなもんだ。

というわけで、来週には、大施餓鬼なんだけど、去年に続き、今年も。

東壽院(とうじゅいん)さんから和尚さんがやってきてくれて、講演だ。

この御仁とは、プチ飲み友達、って、ご本人はお酒、飲まないけど。

「ザ・ガードマン」だったか、テレビドラマの、それで有名な若林豪さんの息子さん。

ハンサムにして話もお上手、という方。

なんて書いていると、日曜日が終わっちゃいそうだ。

ここらでよかろか、お後がよろしいようで。

 

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小沢昭一的こころ

2018年06月23日 | Weblog

なんてラジオがあったような。

つい最近、またまた、you tube で、見つけたのが。

昭和の寄席演芸史、なんてので。

先代の小さん、つまり、柳家小さんなんだけど、そんな名前が出てくるので、柳家花緑の。

おじいさんのことか、と思っていると、その先代、ということだったりね。

先代の小さんの「二人旅」がいいね、なんて言葉を聴くと、それじゃ、それ、聞かなくちゃ。

なんて具合に、広がって行く。

戦前の、小学生の頃から通っていたそうで、好きこそ物の上手なれ、ってやつ、まんまの世界が。

そこに現出し。

春風亭柳好の「野ざらし」はいいね、なんて語られると、そりゃ、それも聞かなきゃ、だしね。

この間読んだ、結城昌治の「志ん生一代」でも、何代目の誰それ、なんてのふんだんに出てきて。

一度、整理しとかなきゃ、と思いつつ、今に至る、んだけど。

いずれにしても、リアルではすでに聴けない方々ばかりではある。

なんて気分で聞いていると、存命であるかそうでないか、ってのは、そんな大きな問題でもなく。

志ん生が、噺家なんてのは、と切り出し、田舎へ行けば。

鉄砲持ってくるんだからね、お客さん。

鹿と間違えちゃって、なんて言われるくらいだ、なんてのね。

今では、youtubeも、ラジオ、テレビがあるんだけど、その昔は、目の前で演じる。

その姿しかないわけで、あとは、口づてで、すごいのなんの、なんて浪曲師、見てきたような嘘を言い。

くらいの話が、横行していたんだろうな。

というのも、売れない頃、志ん生、ドサ廻り、というのか、旅に出ていたんだけど、自分の名前じゃ、お客。

呼べないから、時の名人の名前を語り、なんての、デフォだった、なんて話だから。

それを聞いたお客さん、騙されたと思ったか、それが当の名人だと思ったか、ってわけだ。

現代でも、ロシアのプーチンには影武者がいるんだ、なんてこと、まことしやかに語られたりもするけど。

織田信長が、とか、源頼朝が、なんて時代では、誰が本人やらわかる人、少なかったのかも、だよね。

そりゃ、オーラが違うから、なんて言っても、そもそも、あのお方がなんとかかんとか、なんて大層な紹介のされかた。

で、目の前に見る人は、だいたい、頭で見ちゃうわけで、って具合だな。

だから、首実検、なんて行事が、大ごとのイベントではあったんだろうけど、その役を務める、ま、官僚さんも。

くだんの御仁の顔かたち、特徴はかくかくしかじか、なんて豆タンを持って、なんてね。

ところで、ベランダにアサガオが咲き始め、という季節だ。

いつだったかもご紹介したように、スイカも大きくなってきた。

夏だね。

それこそ、万に一つの無駄もない、という茄子も、花から実がついて。

季節は巡る、ってわけだ。

さて、こちらも、わがカラダの季節を巡らせるとするか。

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日限地蔵さん、っていらっしゃるね

2018年06月22日 | Weblog

ふと、今朝は、そんなお地蔵さんの名前が思い浮かんだ。

来週の月曜日に、経営方針の発表会を挙行。

ということで、スタッフハンドブックという冊子の作成に余念がなく、という風情で。

この、日を切る、ということが、なかなか、ストレスでもあり。

そこに間に合わせる、ということが、まるで、締め切りを抱えた作家さんみたいな。

そんな感じなんだけど、日限、というのも、それはそれで有効でもあるのか、と。

でないと、日々訪れる、それこそ、竜巻に翻弄され、あれもこれも、と思いつつ。

日にちだけが過ぎゆき、焦燥感のみが残る、なんてことになりがちだからね。

なんとか、間に合いそうかな、どうかな、というか、いつだって。

満ち足りる、というのはないわけで。

そんな未練を断ち切るかのように、やりきった感をもつ、そんな仕組みかもな。

そこに立った時には、虚心坦懐、澄明な、そんな心持ちで臨む、というわけだ。

どうもね、年ふり、歳重ね、なんてことになると、いろんなエクスキューズが上手になって。

そんなに上手にならなくても、精神の分裂なんか、起きないし、仮に起こっても。

得たりやおう、ってなもんで、ある種の僥倖でもあるんだけどね。

分裂が創造の、つまり、生きることそのもの、源、とも言えるんだから。

分裂を押さえる思想、ってのが、ヨーロッパの思想、とアースダイバーの中沢新一さんが言っていたよね。

って、言っていたんです、南方熊楠の漫画、そのあとがきでね。

西欧文明、文化の奔流に流されてきた、わが列島では、そんな仕草、仕組み、心持ちがデフォになっているのかも。

なんて風情なんで、そこんとこ、テストに出ますよ、的な。

ちょっと、立ち止まる、というのも必要なんだな。

表題では、日限地蔵さんと書いたけど、随分前に、自分を限るな、だったか、そんな言葉に出会ったことがあって。

しばらくの間、持ち歩いていたことがある。

早い話が、限界づけるな、とか、こんなもんだと決めつけるな、とか、そんな意味だと思うけど。

安岡正篤さんが、例によって、中国の古典から引っ張ってきて、何か言っていた、そんなところだった。

今となれば、解釈の仕方、視点の持ち方、自分へのね、そんな具合になるか。

それを鼓舞するように、本来、自分が神様なんです、自分自神、とかね、ゼロポイントフィールドとつながれば。

そこからは、無限のエネルギーが流れ込み、とか。

あと、いろんな言い方で、鼓舞してくださる言説、ってのは、世の中に満ち溢れていて。

引き寄せの法則、なんてのも、そんな類なんだろうな。

それほど自由に、際限の無い人間であるから、日限する、みたいな。

そこに、違和感、摩擦が生じて、何事かの創造となる、なんて解釈、できるね。

って、ほとんど、こじつけだけど。

さて、なんとかフライデーの、いや、それは来週か。

いずれにしても、冷気の気持ち良い朝からスタートするとしますか。

 

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オカルトじゃないけれど

2018年06月21日 | Weblog

と前置きして、お父上が、仕事の中でやってくるような。

そんな時がある、そうで。

それは、困りに困り、窮地に至る、そんなような時らしく。

と言うのが。

夕べ、お会いした女史、少林寺拳法じゃなく、なんだったっけかな。

なにしろ、武術の衣類なども販売している、そんな方なんだけど。

しかも、中国の大学にいたらしく、もちろん、ぺらぺらの中国語を操る、らしい。

今はなき、お父上が、製紙の機械を発明したりする方だったか。

そんなあとをついだ彼女の話。

そういえば、三保でのカヌー教室での後、そのお父上所有の、木製のクルーザーと言うのか。

見せていただいたことがあった。

オカルト、と言う言葉が出てきたので、それは、リアルにお父様がやってきているんだと思うよ。

と応えた。

だって、どうやら、その通りなんだろうな、と言う、昨日の続きじゃないけれど、予感がね。

あるからね。

そもそも、浮かんでくる考えや感情って、誰のもの?どこからやってくるの?ってなもんで。

いかな科学が発達・発展しても、なかなか、そのあたりは、解明できない。

と言うのは、たぶん、地震予知が難しい、と言うか、あてにならない、と言えば、失礼になるかも。

だけど、似たものではある。

思考や感情なんてのは、地震みたいなもの、とも言えるからね。

こんなところで、こんな思考がやってくるはずないんだけど、と言いつつ、そうそう。

そこには中央分離帯、じゃなく、なんだっけ、そんな裂け目がある、歪みがある、と言うわけだ。

また、新たな発見、みたいなね。

おっと、言いたいことは、降りてくるのはお父上に相違ない、ってことで。

そんな具合に、人は生きているわけで。

決して、独りで生きているんじゃない、と言う話にも繋がるんだけどね。

むしろ、独りでは生きられない、いや、寂しいからじゃなく、どうあがいても。

どなたか、あるいは、多くのどなたか方との共闘、共生、ってことだと思うんだよね。

この世界的には、どなたか、なんてネーミングと言う分離の仕組みのようだけど。

このあたり、たぶん、認識構造、あるいは、認識の仕方という認識そのものが。

そりゃ、この時代のこの地のこの社会の、だけで通用するものかもしれず。

ってわけだ。

なにせ、100万年生きる、という宣言者としては、どうしてもそんな解釈になっちゃうんだな。

そうだ、夕べ、くだんの女史じゃない、60歳ちょっと前の女史、彼女がいうには。

健康年齢があと何年だから、ああしてこうして、なんておっしゃるので。

もうね、こちらの大得意なパターンでしょ、なので。

そりゃ、洗脳されているに過ぎず、そもそも、健康年齢なんて言葉がまかり通っているけど。

それすら、誰かがたまたま言って、どこかの学者さんがたまたま分析し、くらいの言葉で。

そんなことより、今日、この日を単に生きる、くらいの方が、いいんじゃない?なんて応じた。

のだけれどね。

どうも、この頃、世に流通している言葉を疑う、というか、言い換えるクセがついっちゃっていて。

解釈を変えると、世の中、薔薇色にも灰色にもなるわけで、ま、どちらもいい色だけどね。

さて、今日は安全パトロール、行ってくるとしますか。

 

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わが家のお風呂が榊原温泉になった

2018年06月20日 | Weblog

というのは、ちょっと、大げさかも、だけど。

メタトロンのエネジーカードを、一杯のカップの下に置いて。

しばし、ね。

それで、お湯に入れた。

たしかに、まろやかなお湯に早変わり。

1回目の実験、大成功、ってわけだ。

ひところ、船井総研の船井さんも、そんなこと、おっしゃってたかな。

転写、とか言ったか、水の性質が伝播する、と。

船井さんといえば、ずいぶん前、講演会があって、その時、なんかの質問か、なんだったか。

壇上に上がって、彼と握手したことがあって、まるっきり何もない、というのか、スッキリしていて。

驚いた。

世の中には、こんな御仁もいらっしゃるんだ、とね。

今では、僕自身がそうなっていると思うけど。

相手を探るような、この人、どんな人なのか、ってやつね。

それ、一切なし、って、ある時代では、とても危険なことだったんだろうけど、この時代だから。

とも言えるけど。

鉄砲も刀も持ってないからさ。

集合無意識、ってやつの中には、そんな時代の残滓があるんだろうな。

人は信用できないものだ、なんてイデオロギー、信心、思い込み、なんてのは。

ちょっと前までの母親の口をついて出てきていたし、要介護度4になっても。

そんな気風は、たまに訪れもし。

なんだからね。

ところで、コロンビア戦、勝ったね。

コロンビアの珈琲豆、呑んだから、としておこうか。

にしても、残念ながら、コロンビア、イパネマと名付けられた豆は、新鮮味がかけていたのか。

深みのない味と香りで、やっぱり、川島さんという珈琲のエキスパートがおっしゃっていた。

珈琲はフルーツだ、というのは、当たってるな。

久しぶりに、彼のところから、いただいてみようかな、ネット販売だけどね。

窒素充填で現地から送られてくるんだけど。

そうそう、昨日、幻冬社の見城徹さんの本、買っちゃったよ。

彼、安倍総理なんかとズブズブ、みたいなコメントがネットにも散乱していて。

めんどくさいやっちゃな、と思っていたんだけど、そこはそれ、そんな他人の言い草に洗脳されるのも癪に触り。

と思いつつ、店頭でパラパラめくっていたら、高野悦子とか奥浩平とか、昔懐かしい名前が出てきて。

しかも、吉本隆明とかもね。

そういえば、昔、致知出版社の副社長だったか、副編集長だったか、そんな御仁と一夜、お酒をご一緒し。

自宅までお邪魔したことがあって、彼、その頃、どこの出版社だったかの編集長をしていた見城さんのこと。

べた褒め、というか、驚きの語りをしていて。

名うての作家たちの書いたものの読み込みが、深く鋭く、しかも、それを当の相手に伝える時に。

まさに、全身全霊で、ということだったようで。

その後、しばらくして、幻冬社を起業し、しかも、その時、石原慎太郎、五木寛之、村上龍、あと誰だったか。

当時の売れっ子作家、オンパレードの文庫本出版がデビュー戦だった。

そんな、しかも、わが高校の先輩たる見城さんの本、買っちゃいました、という次第。

一体全体、いつ読むんだ、ってくらい、本がたまるな。

お金がたまる、んだったらいいのにね、くらいのコメント、言いがちだけど、おんなじようなもので。

いつ使うんだ、ってわけだ。

例えば、100億、目の前に突き出され、何に使ってもいいから、と言われたら、どうする?

なんて、小学生みたいな質問、されたら、って。

もっとも、100万年生きる、なんて宣言も似たようなものか。

にしても、まんざらでもない、というわが宣言でもあるんだけどね。

どうやら、そのうち、そんな秘密の小部屋が開かれるかも、という予感もあるわけで、それまでは。

せいぜい、古典落語でも聴きながら、鼻歌の一つも歌い、ってわけだ。

 

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