文房具屋さんまで歩き、そのついでに、久々に。
次男坊の同級生の中華屋さんにて、昼食。
日替わり定食の、豚肉と野菜の炒め物、この味はどうしてつけたのか。
なんて、自炊をするときの参考に、と。
ちょっと、甘いんだよね。
なんてことをしながら、清水銀座、駅前銀座と名付けられた道を、首は掲げはしなかッタたけど。
その一角を眺め、この辺りをごそっと取り払い、人々の蝟集するような場ができないものか。
なんて夢想しながら。
歩くのも楽しいもので。
土地には歴史があり、つまり、さまざまな方が、さまざまな思いをもち、人生を送ってきた。
その結果、その挙句の姿を眺めながらのそぞろ歩きだったわけだ。
たまにはいいもんだ。
実は、万年筆選びも、その目的の一つだったんだけど。
ときめくものがなくて、静岡のお店に行ってみようか、とも思っている。
ハガキに墨痕鮮やかに、ってのを、夢想している次第で。
そうなると、俳句の一つもひねってみたくなるね。
長の文章でなく、まさに一筆、というような。
昨日は、個人ミーティングの続き、今日、また残りを、で。
話は弾んで、どなたとのものも楽しくて、その内容を後になってメモし直す。
予習・復習みたいな感じでね。
その場でのメモもいいんだけど、ちょっと、話が途切れる感じもするからね。
このメモにインスパイアされて、新たなものが生み出され、という。
これまた、夢想ではあるけれど。
今朝は、どうも、夢想が多いね。
そうそう、昨日は、歩きながらのメモ、も試してみた。
iPhoneの、お気に入りのEvernoteの音声メモ、ってやつで、天才、が気になっていて。
genius、英語では、ジーニアス、語源は、ラテン語の、geniusゲニアス、というらしく。
ラテン語では、守護霊とか守護神とかの意味だそうだ。
天才を発揮するときは、守護神に、まさに、護られ鼓舞され、という感じで、なるほどね、と。
なんてことを下敷きに、音声メモには、地才、と入れた。
生まれてこのかた、大地とともに生きてきて、さまざまな不如意、僥倖を味わい、その挙句に。
天才に出会う、という絵柄かな。
自分の中に眠る天与の才能、ってことだけど、これは、それぞれがそれぞれの味を持っていて。
そこに、コツンと突き当たる、というね。
マイケルジャクソンだけが、天才、という定義ではないんだけどね、この天才、geniusってのは。
比較をなくした世界に現れるもの、とでもいうか。
このところの興味は、そこにあるよ。
この間のシフティングのデンで行くと、define siftということになる。
って、横文字やカタカナが多いブログになっちゃってるね。
自分をどう定義するか、今まで培ってきた定義の枠から飛び出す、と。
これは、自分、という単体ばかりでなく、自社、とか、事業、とかにも言えて。
そこに、天才性を発揮する場が出来上がると、それこそ、守護神とともにの立ち居振る舞いとなり。
パワーは倍増する、って算段だ。
さて、今日も、天才をどれだけ発揮できるでしょうか。