というのが、昨夜の。
孫の誕生会の帰り、妻の弁で。
東京からもおじおばさんが登場で、孫と大人との比率ときたら。
何人もの大人に囲まれた幼児、という絵柄で。
さぞかし、生まれたばかりの孫も人当たりが、なんて会話なら、まだ話としては。
ありそうだけど、妻です。
もっとも、頭が痛い、ということと、人当たり、とを結びつける、というのも。
これまた、一つの選択、解釈ではあり。
湯治の場合には、湯中り、湯当たり、どちらだろうか、何れにしても、その時には、その昔は。
赤飯を炊いた、なんて話もあるくらいで。
あれは、日頃はわからない、カラダとココロの異和が、気分が悪い、とか、気持ちが悪い、とか。
のようなシグナルとなって。
表に出てくる、というようなもの、なんて解釈も成り立ち。
出物腫れ物所嫌わず、ってことで、出れば、それは、そのものの存在を認められた、ということで。
めでたい、と。
そのデンでいけば、昨夜の妻の中りも、めでたい、ってわけだ。
明日は、桜も満開、という便りがそこここから聞こえてきているので、母親とおばを連れての。
お花見と洒落込むとしようか、と画策しているところで。
朝一、ご近所のドブ掃除の後、そんなに遠くないところへ、なんて考えている。
カレンダーの日付を指し、両腕でハンドルを回す真似、というのが、母親への伝達手段で。
その瞬間に、いつも聞こえてくるのが、いいね、お天気にしたいね。
というもので。
心の中の泡立ちが、表情に現れる瞬間なわけで。
それに触れると、こちらにもエネルギーが入ってくる、という関係。
そういえば、昨日は、久々にある女史とお昼を食べ。
心地よい瞬間を繋いでいけば、人生が心地よいものになる、という予測、推測ができる。
みたいな話をしたんだった。
そう、来週には、シフティングの講座が待っている。
シフトする、意識のロールプレイングをしてみる、とでも言えるか。
上司と部下のロール、役割を逆さにしてみる、親と子の役割、妻と夫、なんでもありなんだろうけど。
この社会に生きていれば何事かの役割であることで、アイデンティティと呼ばれるものを満たし。
そこに納まることで、大安心を得る。
組織への帰属意識なんてのも、その同義語でもあり。
なになにである、ことに地道をあげる、って算段が、一応、性だとか、ということになっている。
ま、そこから、ちょっと、出てみようか、ってわけだ。
さて、春爛漫の土曜日、どんな展開が待っていることやら。