まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

今朝はスーパームーンから始めた

2018年01月31日 | Weblog

満月。

と言っていいのか、西の空にスーパーな姿を拝ませていただいた。

その光を浴びながらの、例の、ボールウォーキングと洒落込んだ。

順番を変えてみたのでした。

文句なしに気持ちがいい。

事務所の入り口で、いつもの新聞屋さんが、自動販売機でお茶かなにか、買っていた。

毎日早くからご苦労様です、と声をかけると、この時間が一番寒いんです。

と返ってきた。

実感的には、7時過ぎから8時くらいにかけての方が、寒いんだけど、そこはそれ。

本当にね、と応じて、屋上へまっしぐら、と言う算段が今朝だった。

パソコンの前に座りながらの心持ちも、いつもの朝とは違う。

カラダがほぐれると、脳もほぐれるんだよね、当たり前だけど。

なので、今期の新人君たちには、カラダも一緒の入社前トレーニングを考えているんだけどね。

まずは、ボイストレーニング。

これ、腹式呼吸なのか、カラダを十分に意識した教え方、どこかでしてないかな、と。

声が出る、トーンが通る、とでも言うか、そうなると、周りはもちろんだけど、本人が驚く。

はずなんだね。

ことほどさように、自分の思い込みなんてたかが知れてる、なんて言う、実感を持ってもらえたら。

そりゃ、その後の伸び代、進化発展、なんて言うのかな、そんなことに火がついちゃえば、面白いでしょ。

あなたが伸びた分だけ、わが社は伸びるんだぜ、ってウタイですね。

同友会用語に、「入ったその日からあなたが主役」ってのが、あって。

随処に主となせば、立つ処、皆真、なんて言葉、あるしね。

以前、サッカーの長谷部が使ってもいたけれど。

あれですね。

人生のお客さんじゃなくていいんだ、と言う実感、体感、ってのを、お互いに味わいあう。

そんな場がいいね。

さて、今日の満月、これはなんだったかな、とにかく、パワフルってことは、間違いない。

日の出の42分前に、動物たちも起き出し、と言うことらしく、そろそろ、そんな時間だ。

今朝は、順番を変えたので、いつもの川鵜くんにも会えず、なんだけど。

昨日の巴川には、グレーの大きな鳥が、川面すれすれに滑空していて、そりゃもう見事で。

拍手喝采。

かっこいいからね。

川鵜くんの中の一羽が、お茶目で、僕の上を通り過ぎる時に、羽をまっすぐ伸ばし、ドヤ顔で。

いいでしょ、くらいの時があるんだけど、いつだったか。

それ、ヒラオカじゃん、と瞬間にやってきた。

10年、いや15年か、若くしてなくなった友人なんだけど。

あの瞬間はなんだっただろうか、とちょっと、考えもし。

そんな朝のひと時で。

と言うわけで、順番違えたルーティンに入ることにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一言で言うとなんだっけ

2018年01月30日 | Weblog

みたいな傾向、この時代、って、そんなに多くの時代を生きてきたわけでもないけれど。

SNSが流行りだしたから、と言うんでもなく。

短兵急とでも言おうか。

ヤクザ用語では、御託はいいから誠意を示せ、みたいなのも、あるよね。

誠意(金・見返り)と読ませるんだろうけど。

早く早く、ってのが口癖の先輩経営者、いらっしゃったな。

せかせかせかせか、車じゃ、待ちきれないから、と言うんで一時期、バイクで営業してた御仁なんだけど。

わが仲間には、忙しくしていないと、不安で仕方がない、と言うんで、年中、走り回ってる。

なんて御仁もいらっしゃる。

この時代、成果、結果、結実なんて言葉が、ベタに、人工的な響きになっちゃってる感じもするね。

新しいアイデア、新しい仕組み、新しいモデルケース、何かと言えば、新しい、と頭につけむ、とね。

時代が変わる、パラダイムシフトなんて言うときには、むしろ、じっと立ち止まってる。

と言うか、正確に言えば、無の境地、あるいは、空の領域、スペースとお友達に。

くらいの感覚の方が、自然のなりゆきなんだろうな。

だって、パラダイムの変わってる、って認識を、元のパラダイムの位置から眺め、なんて言う。

おいおい、そりゃ、ポジション取り、違うだろ、そこ、すでにないから、なんてわけで。

あんまり急いで変化、変化、なんて叫ぶのは、あわてんぼうの何とかさん、って子供の絵本みたいなの、なかったっけ。

あんな感じにもなっちゃうからね。

と言いつつ、今年は面白い歳になりますよ、なんて、昨日の全体ミーティングでも、のたまったのが。

あたくしめでありまして。

それって、すごく簡単なことなんだよね。

視点、視角、見る方向、考える角度をちょっと変えるだけなんだから。

だって、世界は、あなたの意のまま、なんて言い方、あるからさ。

なんだけど、例の、パラダイム、言ってみれば、自分が物事をどう見ているか、どう解釈しているか、と言うだけのことで。

そこのところを、これ一本、これは曲げられません、絶対に、なんて力んでいると。

そりゃもう大変、で。

そんなの、過去の、ほんの一瞬の集積に過ぎず、その瞬間にたまたま、そう解釈したことが、いまだに残っているだけで。

誰も、そんなこと、あなたに暴力的に強要してませんから、ってなもんだ。

このところ、週間のスケジュールを日曜日に決めて、それに従い行動、と言うことにしているんだけど。

これ、なかなか良くて、満ち足り感が違うんだよね。

目に見えない活動、例えば、何かを考える、何かを書く、なんてのが、活動ではない、行動ではない、と。

考えがちであったんだけど、それを明確に、カレンダーに書くと、なるほど、落ち着くわけだ。

自分の時間を自分でコントロールする、とでも言えるか。

ま、そんなことも試しているんだけど、昨日は、Facebook上に、わがバースデイのためのメッセージが。

たくさん届き、お約束の感なきにしもあらず、ではあるけれど、嬉しいものです。

この場をお借りして、縁由の方々には、御礼申し上げます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は誕生日、いよいよ労働人口から除外される

2018年01月29日 | Weblog

そんな年齢になりました。

しかし、意気軒昂で、チャレンジチャレンジが口癖になりつつある状況で。

そりゃ、こんな年齢が元気なんだから、人工構成もかつてとは違い。

もちろん、価値観、社会の醸し出す、これこれこんなのが、価値です、バリューです。

なんて言い方が、古びてきているのは、間違いないことで。

一説によると、この節分を機に、大回転が始まる、みたいな論もありで。

世の中、というのか、人類的にも、変化が起こり出すのかもしれない。

昨夜は、せごどん、観た。

これで、一回抜けてるんで、2回目か、3回目か。

いつも、薩摩出身の、わが社員さんを思い出し、彼の地の人らは、喜んでいるだろうな、と。

坂本龍馬とかあと誰だっけ、蘇我入鹿だっけ、教科書から排除されるとかの記事、あったね。

時の権力者によって、除外される歴史上の人物、なんて物言いは、古代史なんかでは。

しこたまあって、そこを、探偵よろしく、重箱の隅をつつくような議論が、これまた、楽しくもあり。

なんだけど。

そもそも、人口に膾炙されている物語にしても、その時代の名うての作者が、腕によりをかけて。

権勢を誇る人士、集団の覚えめでたきを得て、という僥倖の果ての成り行きで。

織田信長を本能寺で討ち取ったのが、明智光秀で、しかも、理由というのが。

簡単に言えば、公衆の面前で足蹴にされた、というのが、通説になって、それを下敷きにした。

たくさんのドラマが作られ、というんだけど。

あの時、中国地方にいたことになっている、秀吉が、記者を派遣し、一気に。

物語本にして、流布させた、なんて話もあるしね。

彼の、情報戦へのスピード感の勝利だ、なんてわけだ。

力のあるものが、巧みに宣伝効果をあげ、なんてのは、今の時代でも、あれやこれやの情報合戦が盛んだし。

歴史は一夜にして作られる、なんてギリシアだかローマだかの言葉、なかったっけ。

あれですね。

作られる、なんてのは、ビンゴ、まんま、ってことで。

嘘も百回言えば真実になる、なんてフレーズも、たしか、あったしね。

いきなりだけど、井上靖に「あすなろ物語」って長編小説があって、明日はきっと檜になろう、という心持ち。

翌檜、とかいて、あすなろ、と読む木があるらしく、自分はその翌檜だ、だから、刻苦奮励の努力をし。

明日こそ、檜になるぞ、というウタイなんだね。

それ、たしかに、一時期、そんな心持ちもあったけれど、そもそも、こうした賢人の言葉が。

多くの不幸を生み出している、とも言えて。

って、井上靖さんには、なんの恨みもありませんが。

なにものかになろう、志を果たして故郷へ帰らん、みたいなメンタリティが、脚光を浴び。

それこそ、道徳歌謡みたいになって、そんな気配が、子どもたちの頭の上を覆い。

もっともっと、まだまだ、ということで、この資本主義社会は、進化進展してきたんだ、なんて言い方ね。

その対極に、足るを知る、みたいな戒律、というのか、物言いもありで。

なんだけど、そもそも、そこに存在しているだけで⭕️ですから、なんだけどね。

翌檜はあすなろで、檜は檜なわけで、その比較、どうでもいいことなんだよね。

ではあるけれど、末は博士か大臣か、みたいな物言いだとか、ひとかどの人物になって親孝行をして。

なんて。

ま、そんなことは、どうでもいいか。

とにかく、猫はライオンではないし、自分は他人ではないし、なんてことを、何十回目かの誕生日の朝。

書いているのが、偽らざるの、あたくしめであります。

しかしね、今年は、面白い年になりますよ、たぶん、きっと。

だけど、たしかに。

だって、そう決めたんだから。

ということで、昨日の、ショートステイ帰りの母親と長男坊夫婦とのシリアスな物語もありつつの今朝。

そろそろ、ルーティンに入るとしますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爪木崎へ水仙を愛でに行ってきた

2018年01月28日 | Weblog

下田の手前、須崎の御用邸近く、と言っていいのか。

天城越えをし、桜まだきの河津をぬけ、素晴らしい青の東海岸を眺めながら。

おばたち、口々に、素敵だ、気持ちがいい、の大合唱とともに。

大島の雪も見えて。

自宅を出るときは、ほぼほぼ、西方面へ、可睡斎の、石段を埋め尽くす、雛人形?

そんなネットでの写真につられ、ということだったんだけど。

新東名の分岐点、右か左かのところで、右に進路を取ることになり。

富士のお山の雪景色に、賛嘆、讃仰、の声をあげつつ。

いつものように、出たとこ勝負、ってわけだ。

結果、下田までの長の道中ではあったけれど、天城の雪景色も、難儀している方々には申し訳ないけど、とエクスキューズ入れつつ。

堪能し。

車外気温、3度から、トンネルを抜けるとそこは雪国でした、の川端康成の真逆を体験し。

つまり、河津への南下では、10度まで気温が上がり、そこへ、海と空の青だ。

青も、一様ではなく、微妙に色合いを変えていて、それも楽しみ。

ショートステイ帰りの母親を、なんとか楽しませよう、という、暗黙の共通認識の中での、車中の会話に。

上記のような、感嘆詞が混じり出すと、さらに、それは増幅し、自分たちも楽しくなる。

というしくみで。

喜びの種が播かれると、その方向性にそい、会話が弾んで行く。

これ、テストにでるところだね。

このところ、カルチャー、というのか、企業文化といってもいいのか、あるいは、集団の、と。

そんなことを、コヴィー博士由来のセミナーに参加してから、考えてもいて。

金太郎飴みたいな、つまり、どこを切っても同じ顔、なんて表現にも出会ったことがあるけど。

それとはまた、微妙な違い、ニュアンス、って感じでもあり。

カルチャーです。

経営理念というものの延長上にある、とも言えそうだけど、もう少し幅と奥行きの広いカルチャー。

という言葉での表現なんだけどね。

どこが違うの?ってなもんだけど。

カルチャーとか文化とかの用語だと、なんとなく、オートマチックな感じ、するでしょ。

自然とも言えるか。

なんの緊張感、人工感もなく、ただ、たんたんと生きてある、というような。

喜びの種が落ちると、そりゃ、周囲は喜びに満ち、というのが、デフォだけど、もちろん。

水掛け地蔵みたいな御仁も中にはいるにはいるけどね。

たとえ、辛い、苦しい種が播かれたとしても、それを次なるステップへの道しるべにして行く。

なんてのが、カルチャーなんだろうと思うんだよね。

カルチャーというのは、カルティベート、耕すから派生した言葉だと、どこかで聞いたこと、あるんだけど。

まさに、土壌作り、というのか、耕作も儘ならぬ大地に、鍬を入れ、大地と大気の循環を作る、わけで。

似ているね、集団作り、企業作りに。

もっとたくさん、書きたいこと、あったんだけど、ちょうど時間となりました、なんとかかんとか。

というお笑い芸人さんの終演みたいに、本日は終了です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わがプリウスはまた新しい体験ゾーンへ

2018年01月27日 | Weblog

というのは、昨日に引き続き、−4度の零下。

記録更新だ。

昨夜は、東京から妹が帰ってきていて、彼の地でも。

寒さは寒さで、零下の4度、頭の中が凍っちゃってるみたいで、頭、痛くなる。

なんて言ってたけど、温暖の地、わが駿河でも、零下4度だ。

その彼女、大雪の翌朝、超満員の電車でのおしくらまんじゅうで、肋骨にヒビが入ったらしく。

大きく息ができない、と。

みんながみんな、遅くならないようにと、早めに家を出て、というわけで。

大変だね、大都会は。

今日は、おじおば会、そんな体調で、母親の面倒を見てもらうのは大変だと思うけどね。

果たしてどないなりますやら。

零下、零下とわが駿河の住人は、騒いでいるけど、東北・北海道だったら、今朝は、おかげさまで。

暖かいね、くらいの会話も交わされるんだろうね。

東京では、ふた晩、次男坊と一緒の部屋で、考えてみれば、人生初の体験だよな。

なんて、夕餉の会話だった。

父さん、朝起きるの、すさまじく速いね、という感想で。

たしかに、彼のような若さからしたら、馬鹿げているほどの早起きとも言えるな。

だって、しかたないじゃん、好きなんだもの、いや、楽しいんだもん、ってわけだ。

ところで、また、病膏肓に入る、ってなもんで、本、買っちゃったよ。

「サピエンス全史」、著者は、ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者。

1976年生まれだって。

漫画にもなってるくらいだから、売れに売れているんだろうな。

以前なら、「インテリ」を気取って、ベストセラーは買いません、読みません。

なんて気風だったんだけど、集合無意識のパワーが気にもなる歳になり。

いや、そんな大げさなものでもないか、とにかく、手に取って見たくなってね。

上下二巻、傍に置いてある次第。

アフリカで細々と暮らしていたホモ・サピエンスが食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。

という問いから始まり、その謎を解く鍵は、「虚構」だ、という事らしい。

流石に、アヌンナキは絡まないだろうけど、面白そうだ。

ので、いつになるかわかりませんが、このブログ上で、一筆書きになるかも、です。

さて、北杜市、茅野市−12度、御殿場市−7度、伊東市−2度という日に。

おじおば会はどちらに向かうことになるのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが邦も負けていないぞ!

2018年01月26日 | Weblog

日本全国、この冬一番の寒さ、という日。

なんたって、今朝の車外温度は、−2度となっていたからね。

零下という事だね。

って、こんな事で、負けず嫌い発揮しなくても、だけど。

仙台は真冬日です、ってアナウンサーの方の声に、昨夜のテレビ画面は零下4度だったかな。

昼間も零下です、ってのが、真冬日の定義なのか。

もちろん、北海道、東北はそうだけど。

わがプリウスは、2度、というのは、初体験じゃないかな。

北海道のどこだったか、零下の33.6度の中、インタビューを受けていた若い女性が。

顔だしたままだったので、そんな中でもそれでいいんだね、と夕餉の時。

目の前の次男坊に感想を述べたりもした。

彼は、なにせ、年末、積雪50センチの日々の中を外仕事してきたんで、寒さに関しては。

今までとは微妙に違っているような気もしてね。

体験、経験というのは、大きいね。

それにしても、これだけの温度差に対応できる、この人間のカラダのスーパーさを。

改めて感じもし、意識しないところで、休まずたゆまず働いている事に、ありきたりの表現かも。

だけど、感謝、感謝の一言だ。

しかし、本心から感謝するなら、せめて意識だけは、カラダの邪魔にならないように、というわけだ。

しばしも休まず槌打つ響き、って小学校唱歌の「村の鍛冶屋」のイメージ、あれでしょ、カラダって。

にもかかわらず、って。

意識というのか、思考というのか、自我というのか、ああ、だめだ、俺の人生みたいな。

俺って、ダメなんだよね、みたいな。

みたいなみたいな、だけど。

できることなら、カラダの信号を聴こうね、と。

カラダ、と一括りにいっちゃってるけど、細胞ひとつ一つ見たら、ミトコンドリアも含め。

膨大な数の、違った命の集積、とも言えるな。

それを統合しているのが、万物の霊長たる人間様、意識さま、って、おいおい、傲慢にもほどがある。

ってわけだ。

そもそも、君にできること、何がある?とね。

呼吸?

心臓を動かす?

インフルウイルスを食べちゃう白血球、なれる?

とかさ。

ほとんど、お任せ状態で、もっといえば、石見銀山の見守り鬼、手も足も出ませんから、できるのは。

見守ることだけなんです、祈るように、ってのとおんなじだよね。

そうそう、働くことが本来楽しいこと、というので、論語のいい表現に出会ったんだった。

之を知る者は之を好む者に如かず、というのね。

単に知っているだけでなく、それを好きな者には勝てないよね、に続いて。

之を好む者は之を楽しむ者には如かず、と。

さらに、単に、好む者といえども、楽しむ者には勝てないよね、というわけだ。

なかなか、素敵な文章じゃん、といつもは、論語読みの論語知らず、しかも、孔子のおっさん。

あの頃はよかったよね、なんて風情でしょ、和田アキ子の、あの頃は、はっ!みたいな。

なんてのたまってたけど、失礼しました。

いいこと、言ってたんだね、と。

楽、という文字も、旧字は、両サイドに糸が付いていて、それは、神事で使う鈴みたいなものらしく。

神への感謝、というのか、奉納、というのか、そんなカタチのようで。

ここでも、神が出てきちゃうんだけどね。

マッタク、神、という概念は、厄介なものではあるけれど、そこはひとまず置いといて。

好きな者より楽しむ者、というのは、なんか、いい表現だな。

いいとこついてるな、と思うのであります。

好きには、どうも、自我というのか、なんか、ちょっと、余計なもの、ひっついてる感じだけど。

楽しむ、となると、一体感、というのか、微妙な違いがありそうでしょ。

というわけで、今朝も、好きな骨ストレッチを楽しみにまいります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペースが大事なんだ

2018年01月25日 | Weblog

空間だね。

空き地、空っぽの場でもいいか。

いつだったかも書いたし、事あるごとに言っているフレーズが。

もう何年前になるのか、妻と友達と何人かで、グアムへ行った時のお土産売り場で見つけた。

その頃は、デフォのお土産、ご当地ペナントに。

to love something is to give it enough to grow と書いてあった。

というか、これは、今、グーグルおじさんにお訊きしたんだけど、微妙に違っているけど、大意は変わらず。

当時見たのは、room ではなく、space だったと思うけどね。

それはともかく、今朝は、ふと、このフレーズが懐かしく思い出され。

その後の自分の人生態度とでも呼べる心持ちを決定づけた。

なんて書くと、いかにも大仰だけどね。

もともとどこかに、そういった気風があったんだろうし、時至った、その瞬間に師が現れる。

みたいな言い方もあるし。

いずれにしても、空間だな、スペースだな、という今朝の感懐なわけだ。

よく考えすぎると疲れる、なんて言われるけど、実は。

考えている時、つまり、思考に占領されている時には、脳にエネルギーが入ってこないんだ。

なんて論があって。

それ、面白いね、と。

いつでも降り注ぐエネルギーの中で生きているんだけど、それが入ってくるスペースが、満車。

って状態なんで、じゃ、空いたらまたくるね、と、どこかへいっちゃうんだね。

よりよく生きよう、とか、とにかく、〜より、とか、もっともっと、とかの思考が。

返って、その意図に反した結果を招来し、というお笑いネタみたいな事になっちゃう。

このスペースってのは、例えば、人間関係のなかでの微妙な距離感と言ってもいいね。

人間関係だけでなく、モノやコトでも一緒かな。

俯瞰する、なんて書いちゃうと、また微妙に違っちゃうのかも、だけど。

どこか他人事、にも似ていなくもなく、なんて追ってくると。

そもそも、自分というのが、もう一つの自分に見られている、という世界に入っちゃうし。

とはいえ、日常の生活の中では、IDみたいな、同一性のワナに絡め取られてもいて。

たまには、統合を失調させるのも、いいはずなんだけどね。

認知症と呼ばれている母親を見ていると、自分としての統合はそれなりに確保しているけれど。

その、自分と呼ばれるモノの見たコト、聞いたコト、なしたコトの統合には失敗してる。

というような言い方もできる風情で。

逆にいえば、単にそれだけのことで、不安も喜びも、の形をした感情と銘打ったエネルギーは。

相変わらず起こっているんだよね。

そう、この週末はおじおば会だ。

さて、骨にまつわるエネルギーの確認作業に入るとしますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国は、1%が80%の富

2018年01月24日 | Weblog

表題は、よく言われる話かも、だけど、オックスフォードの最新統計らしい。

ビル・トッテンというIT経営者が話していた。

三人、ビルゲイツとベゾス、アマゾンのね、それと、バフェット。

この人たちで、5割の富なんだそうだ。

どうするんだろうね、その富と言われるものを。

なんて、引かれ者の小唄よろしく、朝から嘆き節を弾いてみても仕方ないか。

夕べも、会合のあと、しばしの飲食タイムに。

働くってなんだろうね、みたいな会話の中で。

しかし、基本、働くって、楽しいもののはずだよね、だって、ありがとう、って言ってくれるんだよ。

とね。

そんな話、しながら、島田の女泣かせ、呑みました。

弱肉強食の世界、ジャングルの中で辛うじて生き延びている、みたいな。

あるいは、よく母親が言うように、世間は怖い、とか、なんだろう。

自分の外側に、敵がいるような、そんな認識というのが、ある時代のデフォでもあったのか。

もっとも、そんなことも、結局は、自分がそういう具合に眺めている、というだけの話なんだけどね。

実際は、お花畑だらけかもしれないし。

イワシの頭も信心から、なんていうんだから、世間だって、見ようによってはどうにでも移り変わる。

というわけだ。

失恋した時には、心地よい風さえ、寂しく、切なく吹きすぎる、なんて感じの歌になっちゃうんだろうし。

なので、働くことは、実は楽しいはずなのです。

じゃ、楽しく思えないのは、おかしいな、俺!?

くらいのところへ行けば、なんとかなるんだよね。

世間が悪い、社長が悪い、親が悪い、政治家が悪い、という悪さ探しのオンパレードだと。

そりゃ、人は見たいものを見るので、悪いものだけが、悪いと思えるものだけが、やってくるのは。

これ、別に、幼稚園児でも分かる理屈で。

そう、人生のすべては、砂場の中で教わった、なんてフレーズ、あったよね。

幼稚園の時の砂場の中だ。

最近、アヌンナキの話、することにしてるんだけどね。

人間を奴隷として創った、と言われている御仁なんだけど。

ぜガリア・シッチンという学者なのか、その方が、何年か前に本にしていて、シュメール文明の。

遺跡をほったら、そこから出てきた、粘土板、楔形文字と絵で表現されていたらしく。

そこに、ニビル星からやってきた、アヌンナキのことが書いてあった、というわけだ。

細かい話は置いといて、金の採掘のためにやってきた、のだけれど、そのための。

人夫として、人間のDNAを改造し、なんて書いてくると、何言ってるの、って気にもなるんだろうけどね。

奴隷として創られた、というのは、ありかもね、なんて気にもなるんだよね。

強いものにひれ伏す、賢人もしかり、偉人もしかり、そんなメンタリティって、あるし。

そもそも、世界の名だたる宗教って、心して眺めれば、力無き者、罪多き者、人間たちよ。

くらいのウタイだし。

だから、悔い改めよ、じゃないと、ソドムだっけゴモラだっけ、のように火の海になってしまうぞ。

なんて、いわゆる神様、って呼ばれてる御仁が、やっちゃうんだからさ。

あいやー、ってなもんだ。

あれ、話はどこへ行くんだったか。

ま、とにかく、そんなことで、働くということは、楽しいことなんだよね。

たぶん、きっと。

それを、ムチで叩いて働かせる、となると、バカヤロウ、楽しくなんかないわ、ってなっちゃうだけの話で。

カミュが書いていた、「シジフォスの神話」だったか、ギリシア神話に出てくるんだったかな。

シジフォスという神が、大きなボールのようなものを、山の頂上に運び上げる、すると、今度は。

それを、下まで運び、というなんの意味もないことを強いられる、なんて罰を受けた。

という話があったけど、ま、そんなことだね。

頂上に運びあげられたボールが、例えば、そこで待つ子供達にとっては垂涎のもの、頂上での。

子供達のきゃっきゃきゃの喜びの声を聞いたなら、その時はどうだろう。

罰が、素敵な、子供達へのプレゼント行為に様変わり、って寸法で。

働くことは楽しみに変わる、わけだよね。

さて、こちらも楽しみとしての骨ストレッチに入るとしますか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ、読んでますよ!

2018年01月23日 | Weblog

披露宴の会場、新郎の父として、お酒を継いで、感謝の言葉を述べつつ。

の時に、長男坊の友達から、よ、大統領!的に声がかかり。

思わず、その言葉が、マイナーブロガーを育てるんだよ、って口から出てきた。

明治神宮から明治記念館という流れで、厳かな、しかし、とても考えられた演出で。

朝から参会してくださった方々もわれわれも、日常とは違った、異空間に踏み込んだような。

そんな時間の流れだった。

来賓挨拶も乾杯の挨拶も、いずれも、よんどころなき事情で、代役、ピンチヒッターということだったんだけど。

二人とも、とても素敵な挨拶で、一言一言に、涙が出てきて。

朝からね、一日中、目頭を押さえていたような、そんな感じだった。

すべての段取りは、新郎新婦の手で進められ、こちらは単に、父親という役割でいたんだけど。

過ぎてみると、こうして、代替わりはして行くのかな、という実感なんだよね。

昔の言葉、「隠居」という言葉が浮かんだ。

落語の世界ではなくてはならない人物像で、どこの部分の代が替わるのかは、わからないけれど。

何かが変わった。

今朝起きた景色から、変わったと思う。

新しい役割が、明確に始まった気がして、身の引き締まる思い、とでも書けばいいか。

ところで、今、昨日アップした表題見てみたら、なんか、おかしなことになっていたな。

今朝は「品川心中」を歩いた、と書いたつもりが、ね。

昨日の朝まだき、品川を散歩。

圓生や志ん生で聴いた「品川心中」の世界を堪能せんと、駅から南に歩いたわけだ。

ここで、表題について、お詫びをして訂正します、ってことになるね。

そうそう、品川駅の前には、高山稲荷神社があって、本殿の脇に小さな祠があり。

そこには、石灯籠(おしゃもじさま)と書かれていて、諏訪地方の、ミシャグチにもつながる。

おしゃもじさま、かな、なんて妄想がはたらいたんだ。

遊ぶものとしての、歩くものとしての人間、の面目躍如ってところだ。

そこかしこに、遊動している、と。

なんてのんきに書いてるけど、大雪に見舞われたところは、大変なことになってるんだろうな。

八王子に住むいとこは、今日は、年に一度か二度の大切な試験があるので、と昨夜から。

どうやって品川に出てきたのかわからないけど、都内にやってきているようで。

昨夜、メールグループへの発信があった。

それぞれにそれぞれの場所で、生き生きと息づいている姿が、静かな感動を呼び起こすもので。

ほんと、ガンバレ!若造!だっけ、あんなキャッチ、投げかけたい気分だよ、若造!

って言葉は、もちろん、年齢の若い云々ではなく、新しいことにチャレンジしてる。

「日々新たなり」の気分で暮らしを受け止め、味わい、楽しんでいる、という意味だけどね。

さまざまな想いの去来する朝だよ。

そんな中で、そろそろ、わがカラダとの会話を始めるか。

そうだ、昨夜のテレビ番組、題名は忘れたけど、なんとかの肉体美を誇る美しい、奈良のサンタモニカに住む。

お嬢が登場し、食事の話題になっていて、カラダは、言ってみれば、私のペットのようなものか。

なので、食べるものは、私の好み、というよりは、このペットが欲しいものをセレクトしているんです。

なんてコメントがあって、それ、ビンゴだよ、と思った次第。

ペット、という表現は誤解を生じるかも、だけど、わかりやすくいうにはナイスな表現でもあり。

彼女、なかなか、わかってる女史、と言えるかもしれないな、なんてね。

ま、ともかく、始めます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝は「を歩いた品川心中」

2018年01月22日 | Weblog


この写真は朝の散歩。

落語の、表題のネタの世界を妄想しつつ。

大雪になるかも、の予報の出ていた区内。

ほんの少し、ポツポツと来た頃。

どうやらこのあたりから、クマさんだったか。

花魁と心中を計って、寒い海に身を投げ入れたんだろうか。

なんて思いながら、朝まだきの川を流れる水鳥を撮った。

暗くてよくわからないね。

と、早朝の感懐を、既に雪に見舞われてるだろう川面を。

アップします。

長男坊の結婚式,・披露宴の翌日の、小さな風景です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする